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ちくわブログ

ちくわの夜明け

2011から

2018-03-20 21:56:03 | 東日本大震災
今年の3.11、家で当事の写真をなんとなく見ていたらいろいろ思い出したので。


あの日は仕事で渋谷に行っており、山手線のホームで帰りの電車を待っていたら震災に遭遇しました。
「ゆれるな~」と思ったけどビルの上階にいたわけでもないのでのんきなものでした。
そうしたら実はあんなことになっていて帰れなくなってしまった。

夜中、京王線が動き出してやっとのことで当事住んでいた八王子に到着。
改札で駅員さんが「今日は料金いりませんのでこのまま改札を通って下さい」
とアナウンスしていたのが印象に残っている。

歩いて1時間ちょっと、やっと帰宅。
部屋がすごいことに。



テンパってたんでぜんぜんちゃんと撮れてませんが、足の踏み場がなくて棚の上に飾ってあったFRP製のクソ重たいダース・ベイダーのヘルメットが床に転げていました。

テレビでは原発の現状を伝えるニュースが。
本当にやばいな、日本どうなるんだろう?と思いながら寝る場所もないので朝までかかってなんとか寝れるくらいに部屋を整理しました。


それから数日後、輪番停電が実施。







真っ暗闇の中、無理やり原付で出かけて中央分離帯にぶつかって、その後原付はぶっ壊れたのでした。

スーパーやコンビニには商品が無くて、ああ生きているとこういうこともあるんだなあと思いました。





あれから7年ってすごいなー。

3.11の諸問題で表面化した当事の問題意識ってちゃんと保ててるんだろうか?いや保ててないな… と思ったのでした。


以上。
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ああ、そういえば

2016-03-11 22:10:15 | 東日本大震災
あれから5年経った。もう5年!!

年をとり月日の過ぎ去る速度が増して。
そういうなんとなくの日常を歩んでいても被災地はずっと復興に向けて歩んでいるわけで、日々そのことを再確認せよ!とかそこまでは思わないが、なにかの折に思い出し続けることは重要だよなと。



被災地のその後 2015】もぜんぜん更新してなくてなんですが、原発や政的思想、そういうの関係なしに自分との関連性の中で、思い出し続けないといけないと思うわけです。
うまく言葉にできん。


昨年、被災地を訪れた折、宿泊した旅館のロビーに新聞が置いてありました。
特別な日でもないこの日の新聞の一面に『住まい 仮修繕のまま』とありました。
現地ではこういう事態こそニュースなんだ、と。

そういったことこそ忘れちゃいけないなと感じました。
「ああそういえば」とか言ったらダメだぞ!俺は今日の14時46分寝ていた。未来の俺へのいましめに書いておく。



終わり。
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被災地のその後 2015 その2

2015-08-26 21:05:27 | 東日本大震災
石巻市立渡波小学校を後にし、引き続き南三陸へ向かう。


女川町に入り、前回も立ち寄ったマリンパル女川 おさかな市場で休憩。
【2015年の写真】


【2013年の写真】

にぎやか。

中も外もけっこうな人。地元メディアの取材も訪れていました。



商店街ひとつひとつのお店のポスターが貼られており、気に入ったものを投票する催しが行われておりました。

チンコ。


パチンコとかけたかったのだろう。分かってあげよう。


そしてこちらも、前回の訪問で訪れた女川街道と女川港を見下ろす風景。
これには少しショックを受けました。

【2015年の写真】


【2013年の写真】

江島共済会館、女川サプリメント、七十七銀行といった数々の震災遺構がすべて取り壊され、更地となっていました。
しかしこれもまた、復興の一端なんだろうと思います。






もはやどこに何があったのか、分からなくなってきます。
「昔ここに何があったのか分からなくなる」というのは切ないというか。普通に暮らしていてもそういうことってありますね。
この場合はちょっと違うかもしれませんが。

【2015年の写真】


【2013年の写真】


こうした慰霊碑等は以前と変わらず置かれていました。




こちらは新しく作られた石碑。「いのちの石碑プロジェクト」というものだそうです。


女川港の震災遺構前にあった数々の慰霊碑やお供えは、こちら側の高台に移し変えられていました。



そうした中で、女川交番は震災遺構としての「価値が認められ」保存が決まったそうです。


【2015年の写真】


【2013年の写真】

震災遺構有識者会議、旧女川交番など4遺構評価 宮城 - 産経ニュース
http://www.sankei.com/region/news/141219/rgn1412190021-n1.html


続いて、ここからすぐ近くの女川駅へ。
女川駅は震災によりほぼ全てが損壊・流失し、2015年3月21日に200メートル内陸側に移して新しく建てられました。



今風というか、オシャレ。
地元のタクシー運転手が観光客へ話した内容を聞いたのですが「車椅子が使いにくいって話だ。いい声はあんまり聞かない」とのことでした。

石巻線全線が復旧 女川駅再開からはじまる「まちびらき」 〈dot.〉|朝日新聞出版
http://dot.asahi.com/dot/2015032200013.html

駅舎からの風景





震災前は駅に隣接していた町営温泉「ゆぽっぽ」が併設。

路線図


めしを食いに「きぼうのかね商店街」へ移動。

ここにも前回訪れました。休日だからか、活気があまりありませんでした。というかほとんどの店が閉まっていた。めし食えなかった。
【2015年の写真】




【2013年の写真】



とりあえず八百屋で饅頭を買って飢えをしのぐ。
人もあまりおらず、ここにいても仕方がないので次の目的地へ。

移動中「ああ、復興してるんだな」という風景がちらほら見えました。

そしてこの風景が持つ意味が分かった時、これらが今回の旅で一番突き刺さるものになりました。

いわゆる“かさ上げ”です。

震災4年、変わりゆく祈りの場 かさ上げで撤去や移転:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASH3B5SQ8H3BUTIL03D.html

被災地で進む「かさ上げ事業」 廃れる街をよそに自治体は楽観的
http://news.livedoor.com/article/detail/9892193/

こういった風景がえんえんと続きます。
本当に途方もないくらい。
「え、これどうするの?」と思ってしまいます。

2年前、震災遺構を見たときに感じた「住んでいる人たちの気持ち」と「実行する側の思惑」を考えさせられました。


【2015年の写真】


【2013年の写真】
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被災地のその後 2015 その1

2015-08-02 22:31:40 | 東日本大震災
先日、2年ぶりに被災地のその後でご一緒したYさんと被災地を訪れました。
お仕事では去年仙台に来たのですが、こうして「観光客」として訪れるのは久しぶりです。


せっかく同じ場所に行くので、どうせならできるだけ同アングルで撮って比較してみようと思いました。
準備不足であまり同アングルじゃないのもありますが。


前日にレンタカーで仙台入り。SAに寄ると身元不明の方々のポスターが。

めしを食い、少し車中で寝る。

朝の濃い霧の中を海沿いに走りました。




復興した仙石線。


その後温泉に入りました。



とてもいい湯で寝不足脂ギトギトの中年男性二人はたいへん潤いました。
すごくいい雰囲気。








松島に到着。

【2015年の写真】


【2013年の写真】

変わらないですが、一応。

観光客も相変わらず多く、賑わっていました。
なんだかやたら腹が減っていたので穴子丼を食う。

南三陸に向かって進む。







石巻に到着。


避難所となっていた石巻市立渡波小学校。
【2015年の写真】




【2013年の写真】



校舎が塗り替えられ、鉄の柵が無くなり、開放された校庭で児童たちが遊んだり部活動に励んでいました。
ほっこりして嬉しくなるような光景。

復興は進んでないかもしれないけど、息づいているものの萌芽が確かにあるんだなぁと。

そして、今年全線復旧した石巻線。
【2015年の写真】


【2013年の写真】


現地に行き、訪れた場所について調べてみれば、リアルタイムでいろいろな復興がなされていることに気付きます。
その一方で、どうにもならないような虚無感に襲われる光景も目にしました。

やはり距離が離れていればそれだけ情報に対する鮮度も感覚も薄れていってしまう。
悲しいけど少なくとも自分の場合はそうなんだな、と思わせられました。

【2015年の写真】


【2013年の写真】
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被災地のその後 5

2014-03-11 13:46:18 | 東日本大震災
最後に向かったのは、石巻市大川小学校。


ここでは児童108名中・74名、教職員13名中・10名が死亡。
今も避難経緯などをめぐり、遺族が学校・市側を相手取り真相解明に向かって動いています。

大川小遺族が提訴へ 23億円の損害賠償請求 石巻市など相手取り - MSN産経ニュース

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140310/trl14031008090000-n1.htm

遺族の立ち上げたホームページ
小さな命の意味を考える会

http://311chiisanainochi.org/

到着してすぐ分かる、いわゆる『遺構』的なインパクトのある光景でした。






不謹慎かも知れませんが、カメラを持つ方としては「撮らねば」と思わされます。
撮影し、シクリと胸が痛むこともありますが、ここを訪れたことを自分の中で無駄にしなくない、とも思います。

大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html








こうして去年被災地を訪れたことは、そういった思いと、もっとしっかりと考えなければ、という思いを行ったり来たり、何度も反芻させる作業でもありました。










こんな大災害に対し、誰もがどう思っていいかなど分からないだろうけど、しかし一方でこうして自分の中でテーマを作り上げていく、という、あくまでも自己と向き合う作業こそが被災地を忘れないということなのかな、と感じました。

























宮城・石巻市の大川小学校周辺 震災37不明者の捜索
http://5.tvasahi.jp/000022899?a=news&b=nss







「被災地のその後」の更新も今回で最後になりますが、こうした記事を書くにあたっても、やはり迷ってばかりでなんか情けないものでした。
見えてきたのは「震災遺構をどうするか」という点に対して、自然に重きを置くようになっていたことでした。




遺構というドラマ性のあるもの、そしてそこからどれだけのものを受け取れるか。で、それはいいことなのか、悪いことなのか??

死にはドラマが無いものもあり、忘れられる死だってあると思います。
この未曾有の大災害には、そんな死もあり、あんな死やこんな死もはらまれている。

そういうことを忘れずにいたい、色々な死に対して冥福を祈りたい、意識を向けたい。

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被災地のその後 4

2013-12-23 22:23:43 | 東日本大震災
左翼は原発を目指す。



かどうか分かりませんが、やはりここまで来たからには案の定、女川原発に行くと言うので行くことになりました。
わたし自身はそれよりもっと被災地のその後を見てみたかったのですが。

女川原発は現在全て停止していますがそんな折も折、再稼動に向けぶわーっといっちょういきましょう皆の衆、とやっているようです。

女川原発、審査申請へ 東北電、再稼働に向け - 朝日新聞デジタル (http://www.asahi.com)
http://t.asahi.com/dits
12月19日の記事だから、4日前のものですね。

そんな女川原発さんですが、行ってビックリドン

ごたぶんにもれず海近い!!!

映画制作の過程でいくつかの原発を見て初めて知った、というか知らなかったのですが恥ずかしながら。
原発ってのは海がすごく近いんですね。

そりゃ家族でバーベキューのひとつでもしたくなります。

反対側に目を向けると津波の跡もなまなましい光景が。


なぜ女川原発は無事だった 津波の高さは福島と同程度【朝日新聞】 (インフォシーク)
http://www.mobara.jp/nisimori/newpage87.index.html

3・11その時女川原発はどうだったのか、 現地からの報告 2012.12高野博 講演概要
http://peace.sblog.jp/onagawa/shiryo/311genpatsu/311genpatsu.htm

原発っていうのは、考えてみれば神に似ていなくもないですね。
その昔、権力者は自らを神に仕立てて民衆を支配しましたが、原発神話とはうまくいったのもので、原発にまつわる権力と金、民衆のあり方っていうのは古来の「人が作り上げた神という偶像」と立ち位置が似ているかもしれません。

科学が発展していない時代は、人間の力が及ばないところに人々は今よりずっと真剣に神に対し願い、信仰していましたね。
科学の力がそれを凌駕した時、権力者は新しい神様を作る必要があったのかも知れません。



…なんてことを考えてみたんですが、わたしだってその神話を捨てきれずにいる民衆です。愚民です。いわゆる「段階的な脱原発」というのがお好きな人です。

PRセンターも見てきました。

先の地震で、いかに当地の原発が安全であったかもアピールしておられます。

停止しているくせによくいうよ…


受付のお姉さんが記念のボールペンをくれました。
ありがとう。
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被災地のその後 3

2013-11-21 20:44:56 | 東日本大震災
1日目の取材的な何かが終わり、本日宿泊する女川のトレーラーハウス宿泊施設『エルファロ』へ。

震災前、女川にて30年以上旅館を営んできた4人の経営者が共同で運営されているとのことです。

エルファロ(女川町トレーラーハウス宿泊村)
http://onagawa.me/%E5%A5%B3%E5%B7%9D/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AD%EF%BC%88%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E5%AE%BF%E6%B3%8A%E6%9D%91%EF%BC%89/

被災地初、トレーラーハウス宿泊村がオープン!【宮城・女川発】 : J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2013/02/18165740.html

実際に津波被害があった場所にあるため、のちのち公園が作られる予定があるとのことです。そのため、宿泊施設そのものが移動可能なトレーラーハウスにしたとのこと。
泊まり心地は、清潔でなかなかのものでした。
夜ご飯は海産物を楽しむことができます。




翌日、再び女川港を訪れました。快晴。

女川サプリメントを中心に。



やはり、休日ということもあり観光バスが何台か訪れていました。


「江島共済会館」「女川サプリメント」そして「旧女川交番」はそれぞれが近くにあるため、どうやら鉄板ルートのようです。



旧女川交番のみ、少し歩いたところにあります。

復興工事中で、付近は立ち入り禁止となっていました。

旧女川交番


倒れたままの鉄筋コンクリート・女川交番【東日本大震災パノラマ Vol.209】 - MSN産経フォト
http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2012/1118onagawa/

震災1年:写真比較(1)女川町の横転ビル群
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20120223/558809/?ST=rebuild



やはり繰り返しになりますが、『震災遺構』をどうするかは、われわれが決めるのではなく、そこに住んでいる人達で決めていけばいいことだと思います。
個人的にはもちろん遺して欲しいとは思います。けど彼らが育まれ、育んだ土地をどこか全然違うとこに住んでる人々が何か言うのはおこがましいことじゃないかな、と感じるのです。

写真で見る被災地 > 宮城県牡鹿郡女川町
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/higasinihonn_daisinnsai/miyagi_onagawa_syasin.htm

河北新報ニュース 保存か解体か 住民意向割れる 宮城・女川の「震災遺構
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20130708_02.htm

七十七銀行女川支店が無くなった 女川町役場も解体中 onagawanow 女川町の今
http://blog.livedoor.jp/hammer12/tag/%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E4%BA%A4%E7%95%AA


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被災地のその後 2

2013-10-28 19:36:55 | 東日本大震災
前回の記事、最後にリンクを貼りました、ここ
東日本大震災:女川の震災遺構保存 町長と生徒意見交換 /宮城
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20131008ddlk04040010000c.html
にも行ってきました。


到着し、まず初めに見たのは非常に象徴的な光景でした。
トップ画像(女川街道と女川港を見下ろす)ですが、あたりはほとんど何もなく倒壊した建物が点在し、後ろでは重機がちゃくちゃくと復興を目指し動き続けるという。

この写真は高台から撮影したのですが、近くには『津波の記録』としてこのような紙が柱に貼り付けてありました。

慰霊碑も。


降りて建物に近付けば、今もなお新しい花が供え続けられていました。こちらは有名な江島共済会館。









すぐ近くの女川サプリメント




河北新報ニュース 焦点/震災遺構 残すか否か/自治体板挟みに
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20120518_01.htm

震災から1年 女川町の横転ビル群を写真で比較 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2800X_Y2A220C1000000/

世界的にも珍しい、津波で基礎ごと倒されたビル-宮城県女川町… - ジョルダンニュース!
http://news.jorudan.co.jp/docs/news/detail.cgi?newsid=JD1381588420571



七十七銀行女川支店 跡

こちらでは、屋上に避難した行員13名中、4名が死亡、8名が行方不明となっています。

【東日本大震災】女川支店の被災現場視察 七十七銀行訴訟で仙台地裁 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130606/dst13060618460009-n1.htm

東日本大震災:七十七銀女川支店損賠訴訟 元部長ら6人証言 地裁、頭取の尋問は認めず /宮城
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20131002ddlk04040173000c.html

東日本大震災:七十七銀女川支店、津波不明 漁港で再び捜索 遺族ら「あきらめない」 /宮城
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20131021ddlk04040061000c.html

『震災から2年7カ月』
http://amba.to/1eZ2sNQ



付近の風景は、復興への思いの力強さと、現実的な「死」を想起させる厳粛さが混ざり合っていました。







これらの建物がいつかは解体されるのか、もしくは保存されていくのか、まだ決定していない段階で、やはりわれわれは確実に残っているうちにひと目でも見ておくということは、決して無駄なことじゃないんだなあ、と思いました。
こうしてその地に立ってみると、まったく終ってなんかいないことが「分かっていた」という意識を上書きしてくれるようです。のんきな話ですが、人間はそれくらい忘れやすいし、関係しないと意識から遠のけてしまうような気がします。



【続く】
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被災地のその後 1

2013-10-23 17:06:41 | 東日本大震災
先日、とある方に誘われて一泊で宮城県に行ってきました。


その方はなんでも被災地の定点観測をしているとかで、この訪問ですでに何度目かになるようです。

夜行バスで東京から仙台へ。

震災の前年に仕事で訪れたことがあるので、約3年ぶりでしょうか。
ネカフェに入り、小一時間寝てシャワーを浴びる。

待ち合わせ場所で落ち合い、レンタカーを借りて石巻へ。
途中、松島に立ち寄る。



なんか普通に観光しちゃいました…
カキの殻焼きがすごくうまかったです。

観光客も多く、「ここも被災地だ」とほぼ感じることがありませんでした。
海がきれいで、ニギニギしてて、カキがうまくて。

日本三景襲った津波 国宝に避難、観光客も泥掃除 松島
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103160090.html



石巻に入り、避難所となった門脇小学校へ。まだ建物に生々しい被災のあとがうかがえます。


あたりは花などが咲き、有志によってきれいな花壇なども植えられています。


不謹慎かもしれませんが、いろんなものが無くなってしまった後に自生した花や植えられた花壇が妙に綺麗に映えて、天国のようだなーと思いました。


【本音の意見特集】 石巻市立門脇小学校は「震災遺構」として保存するべき?
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/2013/06/kadoshohozon.html



次いで、こちらも避難所となった石巻市立渡波小学校へ。


先ほどの門脇小学校もそうですが、校舎の標語が頼もしくもなんか切ないです。


みんな仲良し渡小っ子・石巻 No.2【東日本大震災パノラマ Vol.172】 - MSN産経フォト
http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2012/0327watanoha2

NEWS石巻かほく:石巻・渡波小、防災機能強化 災害復旧工事が始まる 来月から校舎改修|メディア猫の目
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2013/07/20130719t13007.htm



女川に向かっていると、途中「おさかな市場」という道の駅的な建物が。

こちらでふるまわれていたさんまのすり身汁がものすごく美味しかったです。これはちょっと感動しました。





【続く】


2日間の感想を先に言ってしまえば「被災地って観光地になっているんだな」ということでした。
団体さんがバスで被災した建物に訪れるんですね。知ってたけどあそこまで盛んに行われているものだとは思わなかった。

わたしはこういった現象に対して特に何も思わないし、第一われわれがほぼ観光客なので何も思えないのですが…
上記
【本音の意見特集】 石巻市立門脇小学校は「震災遺構」として保存するべき?
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/2013/06/kadoshohozon.html
にもあるように、当事者の方々にとっても複雑なことのようです。

ただ、知識人が「〇〇観光地化計画」とかやってるの見るとフライパン投げたくなります。
彼らの土地の未来は彼らが決めることであって、われわれが計画するようなことではないと思うので…

仙台に向かう前日、こんな記事も目にしました。

東日本大震災:女川の震災遺構保存 町長と生徒意見交換 /宮城
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20131008ddlk04040010000c.html

この記事に書かれている建物にも行ってきたので、次の更新でアップしようと思います。
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FUKUSHIMAにて

2012-07-03 00:14:24 | 東日本大震災
初めて実物を目にするガイガーカウンター。
そのアラームがピーピーとなった時、恐怖というより「この国の一部はもう、こういう地帯になってしまったんだなあ」という諦めに近い「慣れ」のような感情しか沸いてきませんでした。

今考えると、現地に行って変に気が張ったせいで麻痺していたんでしょうか。

何とも言えない、複雑な気持ちになりました。
というより、今もなっています。


ライラ・ハリドさん来日時、福島にも行くとのことで取材兼記録係としてついて行きました。


震災から2週間後、最初に被災地を訪れた時の、あの地獄のような風景とはうってかわり、静寂の中、それでも確実に被災地を蝕んでいくとらえどころのない地獄を見たような気がしました。
わたしはジャーナリストでもマスコミでもない、ただの一市民なので、ここでうまいこと自分の言葉で見たものを表現できればいいな、と思ったのですが、事態があまりにもあんまりで、ちょっと自分には荷が重い、というのが正直な気持ちです。

ただ、その一市民が何を感じたかより、何を聞いたかは「記録」として残っていますので、そこから掘り起こせる言葉を、以下に写真と共に羅列します。





【仮設住宅にて 若者数人の言葉】



「飯舘村でも(家に)戻る、戻らないでモメている。放っておいたら、この(放射線量の)レベルが世界基準になってしまう可能性が出てきてしまう」


「飯舘に入ったら肌がピリピリする」


「家はもう荒れ放題。あと2年避難生活を続けていれば、家はもうダメになる」
「(被曝どうこうではなく)あれから髪は抜け、顔は皺だらけになってしまった」

「飯舘村では3号機爆発の時『ド、ドーン』という音がした。当時は何かと思ったが」

「双葉厚生病院にいた姉は、一回目の爆発の時揺れて、余震かと思っていた」
「その後白い、破片のようなものがパラパラと落ちてきた」


ガイガーカウンターについて
首都圏の通常時は0.05μSv/h(マイクロシーベルト/時間)ほど
飯舘村は2μSv/h以上


ガイドしてくれた方の家、ホットスポットの地面の雑草近くでは70マイクロシーベルトを超えた。
「国はここに『除染して戻ってきて住みましょう』と言っているが・・・」



「ここらへんの人達が所得が低くても暮らせていけるのは、水は井戸水、野菜は作れる(作れた)ので、現金を使わなくてよかった。その生活が壊されてしまった」


除染区域にて

「除染当時は少なくなったが、今はほとんど元に戻ってしまっている」

「この除染に約6億円かかっている」






その日の夜、旅館にてネットのニュースをチェックしていたら、こんな記事がトップに出ていた。

一時帰宅の男性、遺体で発見 福島・浪江町、自殺か

28日午後0時半ごろ、東京電力福島第1原発事故で警戒区域に指定されている福島県浪江町の倉庫で、男性の遺体を消防団員が発見した。

 県警は、27日に行われた浪江町民の一時帰宅で行方不明になっていた自営業の男性(62)と確認。首をつった状態で見つかった。「生きていても仕方ない」「夜よく眠れない」などと話していたといい、自殺とみている。

 政府の原子力災害現地対策本部によると、男性は27日午前10時ごろ、荷物の持ち出しなどのため、妻と自家用車で、浪江町の自宅と経営していた商店に一時帰宅。午前10時50分ごろ、男性の姿が見えなくなり、妻の親族が警察に通報した。






【エム牧場にて 浪江農場長・吉沢正己さんの言葉】



浪江町。原発から14キロ地点。



「(国から)殺処分指示に従わなければご近所迷惑にもなる、と言われた」
「300軒の畜産農家、60~70軒の酪農家は、殆どの人が二度と牛飼いなんか出来ないというくらいの精神的な挫折感を味わった」
「今も20キロ圏内の警戒区域には約1000頭の牛が生きている」

「2万1千人の浪江町民は追い出され、もう二度と浪江町で米作りは出来ない」
「米作りの出来ない浪江町に、農家が帰る意味が無い」


「浪江町はいずれ、崩れていく」


「ここで300頭の牛達に餌を与えるということに、経済的な意味は無い」
「この牛達は放射能汚染を正確に伝える生きた証人。絶対に殺処分指示には従わない」
「残りの人生を賭けて、国・東電と闘っていく」


自殺した一時帰宅の男性について
「170人で捜索して見っかったんだよ。首つってた」
「そういう、『死にたい、死にたい』『(生きてても)意味が無い』と言ってる人たちはいっぱいいる。アンケートにもいっぱい書かれてあった」

「日本のチェルノブイリになったが、故郷を復活させるために、放射能とも闘っていく」
「仮設住宅で人生終わっていいのか」
「お年寄りが仮設住宅にいっぱい居るが、あれではそのうち死んでしまう。なんとかしていかなければならない」


「絶望的情況に負けないためには、抵抗するしかない」







【昼食で立ち寄った定食屋にて あるおじいさんの話】



「息子夫婦と一緒に仮設住宅に住んでる」


「狭いから、寝起きの時間も一緒にしないといけない」


「こんな生活はもう耐えられねえ」





【南相馬市・小高区津波被災地 ガイドしてくれた方の言葉】



「ここらへんは畑も家もたくさんあった」



「地震で1~2メートル、場所によってはもっとだが、地盤が陥没しているため水が引かない」



「家が残っても、『ちょっともうここには・・・』と住みたがらない人も多い」









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「右から考える脱原発集会&デモ」に行ってきた

2011-08-03 18:02:41 | 東日本大震災
7月31日にこのようなデモが行われました。主催は「右から考える脱原発ネットワーク」。
(主催は「新右翼の統一戦線義勇軍」と書きましたが、「右から考える脱原発ネットワーク」が主催とのことです。お詫びして訂正いたします)


新右翼って何かっていうと、わたしの中では一水会のこと、そういう思想の人たち、て認識です。
そういう思想ってどういう思想かは簡単に言えば反米保守的な。それでもって、民族主義。
もう、大雑把にしか分かりません。すいません。
その昔、既製の右翼に権力側が多かったのに対し、キッパリと反権力であり、また、反共でもあったのが新右翼です。

その源流をたどると、浅沼稲次郎暗殺事件の山口二矢、楯の会・三島由紀夫と森田必勝が挙げられると思います。

実はわたくし、三島由紀夫からけっこうな影響を受けてしまっておりまして。
というのも、学生運動を調べ始めた20代の前半で『葉隠入門』と『若きサムライのために』を読んですっかり酔っ払った時期があったのです。
そして今に至っても自分の考えにシッカリと根付いてしまっています。
決定的だったのは以下の一文。


「私が言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬けの味とは縁の切れない、そういう中途半端な日本人はもう沢山だということであり、日本の未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。」


後に割腹自殺を遂げ、自衛隊のクーデターを画策するほどの理想主義者が、リアルなところではこんなことを考えていた。
読んだ瞬間、涙が出てしまいました。

ただ単に、もうちょっと文化というものを大事にしよう、意識しよう、と。
そういう大らかさに惹かれました。
そして三島は、死の前に楯の会会員に向けて以下のような最後の指令を送ります。

「三島はともあれ、森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」

森田とは、三島と共に自決した楯の会・森田必勝。
三島は作家として名が知られている自身の死より、若き森田の死にその価値を置いたんですね。
こういった血筋を担っているのが新右翼です。多分。


さて。
本当のところ、行くかどうか迷っており、なんとなく「どうしようかなあ」と考えていたのですが、前日になり急に「右」という言葉が気になり始めました。
「これに行かなかったら自分の思想的営為は嘘になるなー」と。

思想的営為、とかそれほどのことはしてませんが・・・て言うか、その営為とは「自分は右にも左にもいたくない」ということであり、そうあるためには今の現実(主に原発に関して)に応じてコロコロと転がる必要だってあるってことです。

今まで脱・反原発のデモって、いくつか見たり取材したりしてきましたが、どれも主催側はやはり左の力が大きなものでした。
一方で、そのどちらでもない、右や左の分からない人が「参加者」において多数を占めているのは事実です。
過去三回の大きなデモ「高円寺」「渋谷」そして「新宿」は、いずれも自然発生の要素が強く、60年安保的な「市民の力」が支えていました。

これと同じ事を右からやると、どうなるのだろう。


で、前日の夜、取材申請の締め切りは過ぎていたのですがダメ元で申請し、当日朝に許可が下りるという迷惑なことをしつつ向かいました。
集会は東京タワーにほど近い芝公園。



正直、この時点では人があまりいませんでした。
日の丸がはためいていたり、そこはやはり右ですね。しかし国旗というものは、見ると一種のすがすがしさと血の躍動を感じます。

この集合場所でちょっと面白い体験をします。

わたしは今までこういうところに出入りしても、公安っていうのをあまり意識せずにいました。
一緒にいる人が「あ、あそこの公安だ」とか、2次会の飲み屋で「会場の外に何人かいたよ」と言われて気付いたり。
もちろん意識して見ればだいたい分かりますが、それでも自分から見るようなことはあまりしてませんでした。

現地に到着して、取材許可証を貰うと、声をかけられました。
「あのー、マスコミの方?」
「いや、違いますよ。なんでですか?」
「どういう人が取材に来てるのかな、と思ってね」
「え?マスコミの方ですか?」
「いいえ、警察です」
「うわあ」

という。

首から下げた許可証に「ちくわブログ」と書いてあったので
「へえー。ちくわブログって言うんだ。それは検索すれば読める?」
「そりゃ読めますけど・・・なんでですか?」
「いやあ、興味あるから」
「なんですか!マークしないで下さい!」

怖い!!!


というのはともかくとして。
今まで声をかけられたことなんてなかったので。いつも左翼系に出入りしてるからでしょうか。公安と言えばすみっこでひたすらメモとってたり、カメラ向けると顔を隠したり、そういうイメージでしたが、どうもこういったやりとりが生まれるところも、やはり「右から考える脱原発」という言葉の新しさ、驚きを感じました。


しばらくして集会が始まりました。

統一戦線義勇軍・議長 針谷大輔さん
「この非常時に、右も左も無い。左がやってきたことが受け皿になるならば、それにのってもいいんじゃないか」


一水会・顧問 鈴木邦男さん
「我々(右)こそが国土を守る最前衛を担っていかなければいけない」


デモの時間が近づくと徐々に人が増え、のぼりがはためき始めました。


新右翼の教祖的存在・野村秋介さんの言葉からとられた「友よ山河を滅ぼすなかれ」「麗しき山河を守れ」。
これぞ右翼。頼もしく感じました。
大きな力を持った権力から、弱き者のために国土を守るのが右翼の仕事だ、そういう気概が伝わりました。

会場で配られたシュプレヒコールの文。

これらはどれをとっても右左関係なく、まっとうな内容であると思います。

そう、この「まっとうさ」こそが、このデモの要であり、素晴らしい部分でもありました。
後述するリンクからの動画を見ていただければ分かると思いますが、デモの途中、病院の前を通りました。すると針谷さん「病院の前なんで音はやめましょう」と。
警備にあたっていた年配のおまわりさん「お、気が利くなあ」「当たり前じゃないですか」というやりとり。


余談ですが・・・
わたし個人としては一般化してきた、いわゆる「サウンドデモ」というのがあまり好きではなく、取材しながらも「ああ・・・なんかこれ音がデカイだけだよな。この歌って、誰の心に響いてるの?」といささか懐疑的でありました。
しかし、ここもまた面白かったのですが、件のサウンドデモにおいて先頭の車両で歌っていた女性が、ここでは一人の、普通の市民としてデモの隊列に加わっていました。

こういった「立ち位置の表明」ができることも「右から考える」ことの意義なんではないかな、と思います。


さて。
途中参加もあったのか、デモはそこそこの隊列となっていました。





やや歩き、経済産業省前へ。

警備が立ちふさがる中、針谷さんによる抗議演説。
「勉強してキャリアになったら、国家を守るというプライドを持て。国家を守るとは人々、子供を守るということ」

「利権を守るのが官僚の仕事ではない」


次に東京電力本社前へ。
「東京電力!誰か出てきて話しなさい」


「責任の所在なき東電救済法案 断固反対」


いずれも、怒りのこもった明確な意思表示でした。
スッキリとしていて、見ているこっちも気持ちの良いものでした。こういう分かりやすさって、もっと左翼に必要だよな・・・と思った次第。

デモの隊列は銀座に流れ、その後ゴール地点の公園で流れ解散。




参加人数は、最終的には200人程との事。
数は確かに少ない。

わたしはデモの意義って、意思表示によって街の風景を変えることだと思っていました。そしてそれには圧倒的な数が必要だ、と。
しかし今回のデモに参加してみて、そうではないことがよく分かりました。少なくとも自分にとっては。


これって立ち位置を変えなければ見えてこなかった。
さて、これを受けて反・脱原発の現場は変わるのか。これから楽しみになってきました。



当日の様子を動画でどうぞ。約10分。
最後に一水会・顧問 鈴木邦男さんへのインタビューもあります。

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渋谷・反原発デモに行ってきた

2011-05-08 18:46:49 | 東日本大震災
先日渋谷にて行われた「原発やめろデモ」に行ってきました。

結果としては1万5千人が集まったものの、デモは分断され、やや盛り上がりに欠けるものとなったように思います。
個人的には「デモ=街の風景を変えること」なので、これはかなり痛かった。
もちろん警察がそうさせたからであり、あらためて警察ってもんはすげえなーと感心いたしました。

組織された力ってやっぱり強い。いわゆる自然発生の限界を見た気がします。
しかしここから組織化を画策すると、学生運動と同じような道をたどるのは目に見えてるので、それも考えものですね。


わたしが参加したのはいくつかある隊のうち、サウンドデモをやっている部隊でした。
そもそもいくつに分断されてて、いつ始まって、今どうなってるのかなど、全体像をつかむのが非常に困難な状況でした。
なんとなく集合場所から動き始めたから、それに乗っかる感じ。

正直、サウンドデモって表現の側面があまりに強いのでちょっと好きではないのですが、乗ったものはしょうがないのでそのまま撮影もしてきました。
しかしこれはこれで、非常に渋谷らしいというか、おしゃれな若者も参加してたり踊りながらねり歩いたりして、この街ならアリだ、と感じた次第。



以下、写真をアップします。































以上です。
動画も撮影してきましたので、よろしかったらご覧下さい。約5分半です。





今回のデモで、逮捕者が4名出たそうです。しかも誤認逮捕も。
これが抑圧じゃなくてなんなんだろう。何にもしてない人間とっつかまえといて「あのデモは極左だ」と言われたとか。

警察ってそんなもんだと思うし、そこにいるお巡りさんや機動隊員が憎いっていうんではないですが、それは上がそうであることの何よりの証明なので、結局日本って昔からあんまり変わってないんだな、と思いました。

お上にたてつくと怖いぞー、と。
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犬猫救援ボランティアのお手伝いに行ってきた

2011-04-27 13:38:10 | 東日本大震災
わたしは9歳の頃から、上京する19歳までを、犬と共に過ごしました。

飼っていたのはマルチーズのメス、ナナ。
父、母、兄、わたし、と4人いる家族内の序列ではわたしが一番下らしく、よくケンカをしていました。とにかくなめられまくってた。
しかし子供の頃、親に怒られて泣いたりすると、必ず心配して顔をペロペロしに近寄ってくるような優しいやつでした。
そういう関係なんで、犬とはいえナナとは兄妹に近い感覚がありました。もちろん人間の妹とか、そういうのとはまた別ではありますが。

こういう気持ちが分かる人は動物を飼ったことがある人など限られていて、あかの他人であるところの人間との関係や命そのものより、よっぽど大事だったりします。
ペットというのは、その人にとってみれば自分の命より大切なものなんです。


先日、ツイッターでお知り合いになった、作家・TVディレクター・映画監督であらせられる山田あかね監督のお誘いを受け、福島へ犬猫の救援活動ボランティアをお手伝いしてきました。

実はわたしもキロ圏内の動物たちが気になっていて、報道やネットなどでその悲惨なありさまを目にし、動揺していました。
いま一度、もし福島へ行くことがあるとしたら、今度は動物のためだろう、と思っていた矢先のことでありました。


当日。
まだ暗い朝の4時から新宿を出発し、約4時間かけて福島の目的地へ向かう。
メンバーは山田監督の他、30代の男性ディレクターの方、運転担当としてプロデューサーの方。
8時に到着すると、現場の方々に指示を仰ぎ、準備やルールなどを教えてもらう。
ちょうどその日、20キロ圏内の立入り禁止が確定し、できるだけのエサをまいてくる、とのことで何台かの車が現場へと向かっていた。
われわれの方は、テント内のゲージにいる犬を外に出して繋ぎ、ご飯、水を与え、散歩させました。

とにかくなんやかんやとやることがあって忙しく、「いつ休憩すればいいんだろう・・・」と迷うほどでした。実際にはボランティアなんで、そこらへんはもっとゆるくやっても良かったのかもしれませんが、何しろ初めての経験でして・・・・

特にきつかったのは散歩。
「男性はできるだけ大型犬を」とのことで、連れ出すともう喜んじゃってたいへんです。ぐいぐい引っ張られるは他の犬とケンカしだすわ。つうか、オス犬ってなんであんなに気性激しいんですかね。見つめあってると思ったら次の瞬間憤怒の形相で相手に噛み付こうとしてたり。


しばらく忙しくしていて、混乱も多かったので気付きませんでしたが・・・目の前を見渡すと、広場に繋がれたたくさんの犬がなんともいえない光景に思えました。
それぞれの犬にご主人との別れがあり、今、彼らの見ているものってなんなんだろ、と思うと、なんだか無性に悲しくなりました。

中には元気が無く、ずっと死んだように寝ている犬もおり、このままほんとに死んでしまうんじゃないか・・・と思ってしまいました。
繋がりが強いほど、犬も人間もダメージが大きいのは、きっと人間同士と変わらないんじゃないでしょうか。

今回お邪魔したベースにいた犬は、全部で約40匹とのことでした。


昼休憩を適当にとり、車で蕎麦屋へ。
お店のテレビでは、20キロ圏内立ち入り禁止のニュースが流れていました。


戻ってからはゴミ捨てやテントの掃除、救援物資として送られてきたゲージの組み立てなどをし、再び散歩へ。
すでにこの頃はクタクタだったのですが、最後だ、がんばれ、となまった身体にムチ打ちました。本当に情けない。


朝、夕の散歩はそれぞれ約2時間半。そこにいるボランティアメンバー全員で全犬を散歩させる。一人当たりだいたい5~6匹でしょうか。
それぞれ性格があって、面白い。犬って、名前呼ばれると喜びますよね。だからみんなの名前が分からないのが少しくやしかった。
一匹だけボランティアの方からたまたま聞いたクロという犬。
もう年寄りっぽいんだけど、おりこうさんで、「クロ、クロ」と呼びかけると散歩中でもスピードをゆるめてこちらを見つめ返してくる。お前の名前を呼んでたのはこの声じゃなかったんだけどなーごめんなー。頑張れよ。と、話しかけてみる。

他に、クロとは正反対の真っ白い犬。
ベースの広場では殆どの犬がワンワンほえていたんですが、こいつは穴を掘ってそこに腹をうずめ、じーっとしていたのが印象的でした。
散歩に連れて行くと他の犬にほえられビックリしてしまう優しい性格。おいおい大丈夫だよ、と背中をなでると「キャインキャイン」とおびえた声。恐らくご主人がそういう育て方をしたのかな、と勘ぐってしまう。
耳もふせていたので、いったんしゃがんで犬を呼び寄せ、顔を近づけてナデナデし、抱きしめてあげました。
人の体温を忘れないで欲しい。


散歩が終わり、犬をゲージに入れれば完了。全ての作業が終わったのは、夜6時でした。
引き続き残る常駐ボランティアの方々にお礼や挨拶をし、別れる。



こうしてわたしの人生初ボランティアは終わりました。
相手が犬とはいえ、災害時の救援活動ボランティアがどんなものなのか、その一端だけでも知ることができたのではないか、と思います。
ボランティアっていうのは、あくまで無償である。それが意味するところはとても深い。無償って、人の優しさだと思う。
優しさにだって、いろいろな表現方法がある。そして、優しさを表現するのはものすごく難しい。

だから、今も被災地でボランティアをしている方々には頭が下がる。誰にでもできることではないと思います。



その後、このベースの犬たちは、次々と引き取り手(ホストファミリーと言うらしい)が決まり、ベース撤収が決定したようです。

一方でこんなニュースも。


【NHKグローバルメディアサービス】
原発事故で立ち入りが禁止された警戒区域内の家畜について、福島県は、飼い主の同意を得て、衰弱した家畜を処分することになりました。
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あれから一ヶ月

2011-04-12 03:28:49 | 東日本大震災
震災から一ヶ月が経ちました。


一ヶ月前と今とでは、世界が変わったように見えてしまいます。
感謝や憎しみや恐れや悲しみ。人を信じたり、信じられなくなったり。
いつも感じるそれらの普遍的な感情が一度に押し寄せてきて、知らず知らず疲弊し、混沌の中に置かれているような感覚をおぼえます。

じっさい、まだ悪夢の中にいるようです。

そういう人は多いのか、それでも日常を送り、送ろうとする中で、ふと客観的に日本の状況を見てみると、この国は破滅の時が来ても、ゆっくりとその事実を受け入れて行くのかもしれない、と思いました。


先日。
救援物資を届けた際に見た被災地の景色が忘れられなく、あれから「なぜあそこまで『被災地に行く』という思いに駆られたんだろう」と何度も反芻していました。
行き所のない無力感をぶつけるための自己満足。それも正解かもしれない。ただ、それだけじゃない、自己嫌悪とも奇麗事とも違う、何かがあるはずなんだけど。
知人と話していて、自分の心情を吐露する中で、やっと感情の形が見えてきました。

頑張れ、とか日本は強い、とか。そういう言葉への違和感。
のっぴきならない絶望的な状況を、ホンの少しでも共有したい、と思ったのかもしれない。
つらい、死にたい、生き残ってしまった、死んでいればよかった、というあらゆる感情は、決して頑張ったり日本が強いだけでは乗り越えられない。

今でもありありと思い出す。
無数に舞うカラスはなんのために集まっていたんだろう。それを意味するところを想像した時、想像してしまった自分も嫌だったし、その先にあるものを考えるのも嫌だった。

被災地の人々は、そういう現実の中で生きている。
それは多分、テレビやネットでは共感できないレベルのものだし、極めて個人的な想像の力に帰結するものだと思う。



今、この時もいつ余震に襲われるか分からず、また、原発も予断を許さない状況。
そんな中、先日高円寺にて反原発のデモが行われ、一説によれば1万5千人が集まった、とのことです。


なんだかとりとめのない文章で、自分でも何を書きたいのかイマイチよく分からなくて恐縮ですが・・・・


復興も、原発も・・・
これらを子供世代、孫世代に向けてどうしてゆくべきか。
今、われわれが傷を負ってでも、生活レベルを落としてでも何とかしなければいけないんじゃないか。
「経済大国」なんてもはやどうだっていい。若い人たちに、経済大国であることが、なんらかの希望を与えてきたんだろうか。
オッサンであるところの自分も含め、今、世代的な総括をきっちりして、若い人たちに、後世に、残すものを謙虚に考えていかなければいけない、そう思いました。
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自分にできることというのをやってみると

2011-04-01 14:51:37 | 東日本大震災
地震の後、恐らく誰もが「無力感」にさいなまれたのではないでしょうか。
わたしもそうで、ニュースを見ながら一日中確定申告の計算にソロバンはじいてる自分は、いったいなんなんだろー・・・と思いました。

一方で、経済をまわす必要がある、日常を生きなければならない、というごもっともな意見、事実もあります。



正直言って、わたしは東京の電気が福島で作られていることを知りませんでした。
ものすごく情けないことに、今回の事件で初めて福島の原発が、東京の、あの莫大な電力を担っているという事実を知りました。

東京という日常を生きる者として、この事実は、なんと形容すればいいのか分からない感情を巻き起こします。
イエスかノーか、泣いたり励ましたり、謝ったりとか、虚無感に苛まれたりとか・・・・そういったものでは割り切れない、ものすごくモヤモヤとしたもの。しかしながら感傷で済まされない、もっと現実的で厳然としたもの。


どうしようもないことの連続に押し潰されそうで、頭の中では決まり文句である「自分にできること」という言葉が幾度も巡り、果たして自分にできることとは、「募金して、節電して、仕事する」ということだけなのだろうか、とひたすら考えました。


ツイッターで情報を集めると、文字の上では、そこに困っている人がいる。
物資が溢れているのに届かない、という被災地がある一方、原発近くの南相馬市では、物資が無い上に届かない。特に個人宅に留まる方々になかなか行き渡らない。そういった現実がありました。
そしてとある場所では個人からの物資を受け付けている施設がある。気をつけて、少し耳を傾けるだけで、こんな情報が得られました。

もの凄く困っている人がそこにいる。しかも東京という街の結果として、それがある。


それで、行動しよう、と思いました。なんというかこういった動機は自己満足といわれても仕方がないのですが・・・・
情けない話、こんな時「一緒にやろう」という友人もおらず、とりあえずボチボチと水、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、カップ麺等を買いだめすると言うセコイとこから始めました。
そして、届ける前日に施設へ電話。必要な物資を改めて確認、東京からの道順を聞いてレンタカーを借りに行きました。

さて、借りたのはやや大きめの軽ですが、もちろん買いだめした物では車内が埋まらない。これは非常にかっこ悪いこと(というのもアレですが・・・)なので、比較的何でも売ってるドンキ・ホーテに行くことにしました。
必要物資のメモを片手に約2時間ほどの買い物。車とお店を3往復すると、車内はまあまあな感じに埋まってきました。


そして翌日(27日)。
東北自動車道を北上し、福島へ。
福島に近づくにつれ「災害派遣」とプレートの付いた自衛隊の車両や救急車両が目立ち始めました。

そしてインターチェンジを降り、相馬市方面へ。
福島の市街地はほとんど日常と変わらぬ雰囲気でした。損壊した建物も殆ど無く。ただ、やはりガソリンスタンドにものすごい車の列ができていました。それを見てやっと「被災地に来た」という実感がわきました。

市街地を抜け、山の中をひたすら走る。
反対の車線には自衛隊の車両と共に、こちらより多くの車が走っていました。みんな避難するのだろうか。
畑では作物を耕すじいちゃんやばあちゃんの姿。これから、あの人たちはどうなるんだろう・・・・

山を越え、しばらく走ると、目的地の相馬総合地方卸売市場が。ここに「南相馬市東北地方太平洋沖地震救援物資受け入れセンター」があります。
ここでは個人からの救援物資を受け付けており、南相馬の避難所及び在宅の方々に届けられるそうです。

受け付けをお願いする。事務所には十数名の男性が暖をとっていました。元々市場の関係者の方々だろうか?今や機能していない市場の後を、物資センターとして活用し、守っているのだろうか。

言われたとおり、パレットに荷物を置き、名前と住所を書いてお別れしました。
ほら、バカだから考えるじゃないですか。すごい有難がられたり「頑張ってください!!」とか言って握手したり。そんな「ドラマ」想像してたんですが、恥ずかしいです自分が。
同時にかなり大きな自衛隊のトラックも入ってきて・・・その救援物資の多さを見て、またまた自分のものが恥ずかしくなりました。
もうなんだか、早く立ち去りたい気分www



そこから走ること数キロ。
海に近づく畑道を走っていると、急に景色がにごって見えてきました。
境目は、すごくはっきりしているようで、見えないような。見慣れないものに脳がついていけなかったのか。この、未曾有の大惨事を語るには饒舌すぎる光景が目の前に広がりました。

畑にまじるさまざまな瓦礫。全方向から押しつぶされている車。映画のセットのように曲がった電柱。道に突き出す鉄柱、舞い上がる赤い砂塵、無数に飛び回るカラス。

地獄にいるみたい・・・としか思えませんでした。


その先に海辺の町があるはずなのですが、目の前はえんえんと瓦礫の丘が等間隔に広がっていました。

ここは俺のいていいところじゃない、と思い、すぐさま引き返しました。
実は、少し写真も撮ろうかと用意していたのですが、とてもそんな気になれませんでした。
自分は報道関係者じゃない。そういう覚悟も無い。
そして仕事柄、映像を切り取ることは、そこから何かをいただいていく、という感覚も持っているので、写真に収めることに罪悪感を感じたのも事実です。


再び山を抜け、東北自動車道に乗り、帰路につきました。
ガソリンは栃木に入ったら大丈夫、との情報通り、高速のガソリンスタンドで2千円分入れることができました。



以上。
これがわたしの「自分にできること」でした。
どう伝えたらいいのか、そもそもこんな個人的なこと知りたがっている人はいないんじゃないか、と、何回か記事化するのをためらいましたが、そもそもこのブログの存在自体そんなもんじゃないか・・・と今更感をしたたらせつつの更新でありました。

今回気をつけたのは、分かりきったことではありますが、「行く」と決めたその時から常に現地情報をチェックしていたことです。
状況は日に日に変わる。そして、何より自分が行ってマジで役立つの??っていうことです。だから電話して確かめました。
そしたらもう「是非是非」って感じだったんですね。そこで初めて行動を先行させることにしました。
先走り汁はかっこ悪いじゃないか。



もう一点。
これは、肯定も否定もできない、主観の問題としか言いようの無いことなのですが。
わたしは今回の福島行きで南相馬市には入っていません。目的地が相馬市だったから。だから30キロ圏内にも入っていないのですが、どういう道で行くのかもあまり分かっていなかったので、そういったことを事細かに他人に説明できないでいました。

今回行くにあたって、なんとなく話のついでに知人2人、両親に「福島行き」を話しました。知人の1人は、福島に入るということで放射線を心配し「行かないで」と泣きながら訴えられました。うわあ漫画みたい、と思いつつも、実際にやられるとものすごく「悪い、心配かけてしまっている」と感じます。
説得するのに心が折れそうになるくらいです。粘って粘って意見交換し、やっとなだめました。
それでも「親に言って。言わなかったらわたしが伝える」とまで言うので、自分からしぶしぶ電話しました。
母はやはり心配しながらも、「どうせ止めてもきかないから。気をつけて行ってきなさい」と、まあ予想通りの返事でした。

何が言いたいかって、特に被ばくの恐れが全く無いと言っていいような場所に行くにも、近づくだけでこれなんですね。「実際の行動」という段階では発露する状況が思いっきり変化してきます。小市民の実感ですが、「行く」となった人間とそうでない人間には、隔たりがものすごくあると感じました。
それを思うと30キロ圏内の住民、とりわけ原発で作業している方々、そしてその後方にいる無数の家族、親類の方々はどんな思いでいるか。

これを思うとき、住民はむろん、ボランティア、公務員、自衛隊員、救急・レスキュー隊員、東電関係各社の人々、そして東電社員にも一人残らず無事でいて欲しい。
そう思わずにはいられません。



最後に。
あの景色を見て、長崎原爆資料館で出会ったこんな詩人の言葉を思い出しました。


「もはやこの惨状に対して今日かぎり あらゆる語彙が私にとって無力となった」

東潤   
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