シャティーラ地区の墓地。
この墓地全体ではないが、辺り一帯を「殉教者英雄墓地」というらしく、リッダ戦士のお墓の周りには、PFLPの名だたる指導者や戦士達も、共に眠っている。
しばらくすると、ぼちぼちとPFLPのオールドコマンドが集まってきた。
その中に、あの岡本公三さんがいた。緊張しながら「お会いしたかったです」と握手を求める。
岡本さんは人と話す時はずっと笑顔だった。独特の笑顔。何も話さない時は、どこか遠くを見ているような表情をしていた。
しかし、真っ先にお墓の前に行き、座り込み、両手を合わせ、目をぎゅっと閉じて、何事かを念じていた姿は忘れられない。
オールドコマンドは15人以上は集まっていたように思う。それに我々を加え、約20名での納骨となった。
促され、丸岡さんの妹さんが挨拶をする。
「こんなにたくさんの人に集まってもらい・・・」と感謝しながら「兄は生きていれば、明日、61歳の誕生日を迎えるはずでした」と。
Aさんのギターで妹さん、Bさん、Cさんで「時代」を歌う。
揃って泣いていたこともあって、うまくはなかったが、妹さんの声が少し、中島みゆきに似ていたからか?心に響いた。
そして、その歌詞が涙を誘った。
「めぐるめぐるよ 時代はめぐる 別れと出会いをくり返し 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩き出すよ」
その後、岡本さんを連れていたPFLPの幹部らしき人が挨拶。
そして納骨作業。
妹さんが持ってきた丸岡さん愛用のネクタイも納棺される。
終わる頃には日が暮れかけていた。残されたローソクの火が、ぬるい風にふかれてゆらゆらと揺れていた。
岡本さん、PFLPの幹部との食事会ということで、現地のOさん含めいくつかの車に別れて乗る。
丸岡さんの妹さんとは別の車中で、Oさんが言った。
「でも彼女かわいそう。彼女なんにも知らない」
恐らくレバノンでは「いいお店」なのであろう、レストランに到着。
隣にはPFLPの幹部。強面だが、「こうだよ、こうやって食うんだ」「これも食え」と、色々世話を焼いてくれた。
「ははは。愉快なオッサンだなあ」と思っていたこの時は、PFLPの幹部だとかそんなこと全然知らなかった・・・
前の席には岡本さん。うれしかった。
レバノン料理は塩辛いものが多かった。あと野菜をポリポリ生でかじったり。
日本でもなじみ深いケバブも出た。これを薄いアラブパンで野菜と共に挟んで食うと格別。
岡本さんもケバブは大好きらしく、普段どういったものを食べているのか分からないが、とにかくうまそうに食べていた。
見ていると、皿に乗せたものは、細かいものまで残らずたいらげていた。
ゆっくり、ゆっくり、几帳面な動作で皿が綺麗になるまで。
食事の合間にはタバコを絶えず吸っていた。
これもまた、根元までうまそうに。
岡本さんは熊本の生まれだ。
自分も名古屋の生まれではあっても、両親の血は熊本。そのことを話すと「わたしもです!」と声を上げてきた。
わたしは岡本さんに、彼自身の若い頃の写真を見せてみた。
リッダ闘争後の裁判所での写真。
「岡本さん、ほら、これ」
しかし、苦笑いをするのみだった。
ああ、なんか馬鹿なことをやってしまった、と思った。
岡本さんがどう思っているのかは分からない。けど、とにかく妙な罪悪感がわいてきて、胸が少し痛くなった。
夜のベイルート市街を走り、ホテルへ戻る。
爆撃で空洞のようになったビルが、街灯の届かない暗闇をさらに黒く染めていた。
レバノンへと渡った当時。
岡本さんも丸岡さんと同じく、決死作戦については何も聞いていなかったらしい。
しかし奥平さんに請われた彼は「僕が要るんでしょう?」と二つ返事で引き受けた。そして、「泣かせてもらっていいですか」と言った後、一時間ほど泣いたという。
続く
【前回まではこちら】
レバノン取材記・1 ベイルートへ
レバノン取材記・2 リッダの戦士達
この墓地全体ではないが、辺り一帯を「殉教者英雄墓地」というらしく、リッダ戦士のお墓の周りには、PFLPの名だたる指導者や戦士達も、共に眠っている。
しばらくすると、ぼちぼちとPFLPのオールドコマンドが集まってきた。
その中に、あの岡本公三さんがいた。緊張しながら「お会いしたかったです」と握手を求める。
岡本さんは人と話す時はずっと笑顔だった。独特の笑顔。何も話さない時は、どこか遠くを見ているような表情をしていた。
しかし、真っ先にお墓の前に行き、座り込み、両手を合わせ、目をぎゅっと閉じて、何事かを念じていた姿は忘れられない。
オールドコマンドは15人以上は集まっていたように思う。それに我々を加え、約20名での納骨となった。
促され、丸岡さんの妹さんが挨拶をする。
「こんなにたくさんの人に集まってもらい・・・」と感謝しながら「兄は生きていれば、明日、61歳の誕生日を迎えるはずでした」と。
Aさんのギターで妹さん、Bさん、Cさんで「時代」を歌う。
揃って泣いていたこともあって、うまくはなかったが、妹さんの声が少し、中島みゆきに似ていたからか?心に響いた。
そして、その歌詞が涙を誘った。
「めぐるめぐるよ 時代はめぐる 別れと出会いをくり返し 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩き出すよ」
その後、岡本さんを連れていたPFLPの幹部らしき人が挨拶。
そして納骨作業。
妹さんが持ってきた丸岡さん愛用のネクタイも納棺される。
終わる頃には日が暮れかけていた。残されたローソクの火が、ぬるい風にふかれてゆらゆらと揺れていた。
岡本さん、PFLPの幹部との食事会ということで、現地のOさん含めいくつかの車に別れて乗る。
丸岡さんの妹さんとは別の車中で、Oさんが言った。
「でも彼女かわいそう。彼女なんにも知らない」
恐らくレバノンでは「いいお店」なのであろう、レストランに到着。
隣にはPFLPの幹部。強面だが、「こうだよ、こうやって食うんだ」「これも食え」と、色々世話を焼いてくれた。
「ははは。愉快なオッサンだなあ」と思っていたこの時は、PFLPの幹部だとかそんなこと全然知らなかった・・・
前の席には岡本さん。うれしかった。
レバノン料理は塩辛いものが多かった。あと野菜をポリポリ生でかじったり。
日本でもなじみ深いケバブも出た。これを薄いアラブパンで野菜と共に挟んで食うと格別。
岡本さんもケバブは大好きらしく、普段どういったものを食べているのか分からないが、とにかくうまそうに食べていた。
見ていると、皿に乗せたものは、細かいものまで残らずたいらげていた。
ゆっくり、ゆっくり、几帳面な動作で皿が綺麗になるまで。
食事の合間にはタバコを絶えず吸っていた。
これもまた、根元までうまそうに。
岡本さんは熊本の生まれだ。
自分も名古屋の生まれではあっても、両親の血は熊本。そのことを話すと「わたしもです!」と声を上げてきた。
わたしは岡本さんに、彼自身の若い頃の写真を見せてみた。
リッダ闘争後の裁判所での写真。
「岡本さん、ほら、これ」
しかし、苦笑いをするのみだった。
ああ、なんか馬鹿なことをやってしまった、と思った。
岡本さんがどう思っているのかは分からない。けど、とにかく妙な罪悪感がわいてきて、胸が少し痛くなった。
夜のベイルート市街を走り、ホテルへ戻る。
爆撃で空洞のようになったビルが、街灯の届かない暗闇をさらに黒く染めていた。
レバノンへと渡った当時。
岡本さんも丸岡さんと同じく、決死作戦については何も聞いていなかったらしい。
しかし奥平さんに請われた彼は「僕が要るんでしょう?」と二つ返事で引き受けた。そして、「泣かせてもらっていいですか」と言った後、一時間ほど泣いたという。
続く
【前回まではこちら】
レバノン取材記・1 ベイルートへ
レバノン取材記・2 リッダの戦士達