ちくわブログ

ちくわの夜明け

レバノン取材記・3 納骨

2012-01-28 19:15:41 | 映画制作
シャティーラ地区の墓地。


この墓地全体ではないが、辺り一帯を「殉教者英雄墓地」というらしく、リッダ戦士のお墓の周りには、PFLPの名だたる指導者や戦士達も、共に眠っている。


しばらくすると、ぼちぼちとPFLPのオールドコマンドが集まってきた。
その中に、あの岡本公三さんがいた。緊張しながら「お会いしたかったです」と握手を求める。

岡本さんは人と話す時はずっと笑顔だった。独特の笑顔。何も話さない時は、どこか遠くを見ているような表情をしていた。
しかし、真っ先にお墓の前に行き、座り込み、両手を合わせ、目をぎゅっと閉じて、何事かを念じていた姿は忘れられない。


オールドコマンドは15人以上は集まっていたように思う。それに我々を加え、約20名での納骨となった。


促され、丸岡さんの妹さんが挨拶をする。
「こんなにたくさんの人に集まってもらい・・・」と感謝しながら「兄は生きていれば、明日、61歳の誕生日を迎えるはずでした」と。

Aさんのギターで妹さん、Bさん、Cさんで「時代」を歌う。
揃って泣いていたこともあって、うまくはなかったが、妹さんの声が少し、中島みゆきに似ていたからか?心に響いた。
そして、その歌詞が涙を誘った。


「めぐるめぐるよ 時代はめぐる 別れと出会いをくり返し 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩き出すよ」


その後、岡本さんを連れていたPFLPの幹部らしき人が挨拶。
そして納骨作業。
妹さんが持ってきた丸岡さん愛用のネクタイも納棺される。



終わる頃には日が暮れかけていた。残されたローソクの火が、ぬるい風にふかれてゆらゆらと揺れていた。


岡本さん、PFLPの幹部との食事会ということで、現地のOさん含めいくつかの車に別れて乗る。
丸岡さんの妹さんとは別の車中で、Oさんが言った。

「でも彼女かわいそう。彼女なんにも知らない」


恐らくレバノンでは「いいお店」なのであろう、レストランに到着。
隣にはPFLPの幹部。強面だが、「こうだよ、こうやって食うんだ」「これも食え」と、色々世話を焼いてくれた。
「ははは。愉快なオッサンだなあ」と思っていたこの時は、PFLPの幹部だとかそんなこと全然知らなかった・・・

前の席には岡本さん。うれしかった。

レバノン料理は塩辛いものが多かった。あと野菜をポリポリ生でかじったり。
日本でもなじみ深いケバブも出た。これを薄いアラブパンで野菜と共に挟んで食うと格別。


岡本さんもケバブは大好きらしく、普段どういったものを食べているのか分からないが、とにかくうまそうに食べていた。
見ていると、皿に乗せたものは、細かいものまで残らずたいらげていた。
ゆっくり、ゆっくり、几帳面な動作で皿が綺麗になるまで。

食事の合間にはタバコを絶えず吸っていた。
これもまた、根元までうまそうに。

岡本さんは熊本の生まれだ。
自分も名古屋の生まれではあっても、両親の血は熊本。そのことを話すと「わたしもです!」と声を上げてきた。

わたしは岡本さんに、彼自身の若い頃の写真を見せてみた。
リッダ闘争後の裁判所での写真。

「岡本さん、ほら、これ」

しかし、苦笑いをするのみだった。
ああ、なんか馬鹿なことをやってしまった、と思った。
岡本さんがどう思っているのかは分からない。けど、とにかく妙な罪悪感がわいてきて、胸が少し痛くなった。


夜のベイルート市街を走り、ホテルへ戻る。
爆撃で空洞のようになったビルが、街灯の届かない暗闇をさらに黒く染めていた。



レバノンへと渡った当時。
岡本さんも丸岡さんと同じく、決死作戦については何も聞いていなかったらしい。
しかし奥平さんに請われた彼は「僕が要るんでしょう?」と二つ返事で引き受けた。そして、「泣かせてもらっていいですか」と言った後、一時間ほど泣いたという。




続く

【前回まではこちら】
レバノン取材記・1 ベイルートへ
レバノン取材記・2 リッダの戦士達
コメント (5)
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ダンディ最前線

2012-01-16 19:33:03 | Weblog
みなさん、お正月はどう過ごされましたか?


わたしは名古屋に帰省しておりました。
しかし30をおおいに過ぎた息子こと、わたくしは親と大喧嘩。
母には泣かれ、「俺はなんと親不孝な人間であることか・・・」と反省したところでまたメソメソしている母に向かって「泣くな!!」と一喝。

もう、帰らないほうがよかったんじゃないか・・・と暗澹たる気持ちでおった次第です。


やることも例年と変わらず。
ひいばあちゃんと犬の墓参りに行き、長野の温泉につかり、大須観音へ参拝。
撮るものも例年と変わらず。


ですが、せっかく撮ったので見ていってやって下さい。どうせタダですから。


まずは犬の墓参り。

動物のお寺。毎年行っているのですが、まあだいたい同じ猫が同じところにいます。
この子は新しい子かな。子猫っぽかったです。


今年のおせち。
貧相だけど、こういう「食える」おせちってわたしは好きです。
お神酒とおせちに、雑煮で腹いっぱいになった後、名古屋駅近くの新しくできた(?)シネコンへ映画を観にいきました。

母の希望で『ワイルド7』が観たいと・・・深キョンが好きらしいのです。

どこでやっているのかな、と新聞の劇場欄を見てびっくり。もはや殆どの劇場がシネコンに。
シネコンができればしぜん単独の劇場は潰れるわけで、わたしが青春時代をすごし、さまざまな思いを馳せたスクリーンはほとんどが無くなっていました。

時代の趨勢という言葉で簡単に納得できてしまうけども、それが尚更寂しい。

劇場からの帰り。

この、後ろに見える名古屋駅前の「大名古屋ビルヂング」。
「大名古屋」も「ビルヂング」も時代を感じさせます。

その時代を感じさせるビルヂングも、まもなく建て替えられるとのこと。
ウィキペディアには、建設された経緯が以下のように書かれています。

“当時の三菱地所社長渡辺武次郎が被災直後の名古屋を訪れた際、その被害の惨たんたる状況から、地方進出の第一号として名古屋駅前に大型ビルを建設することを決めた。1965年5月の完工記念式典で配布されたパンフレットには、『伊勢湾台風災害の御見舞にまいりました時であります。名古屋駅に着く前、汽車の窓から見ますと、罹災後1カ月を経ているのに一面に海のようにまだ水が溜まっており、人々が戸板に乗って家から出入りしておりました。(中略)ひとつここに耐震不燃の高層ビルヂングを決意致したのであります』と、その経緯が記されている。”


翌日、たたき起こされて朝から長野の温泉へ。

長野へ近づき山道へ入るにつれ、雪が本格的に降ってきました。

水車が意味の無い何かに変わり果てるほどの極寒。
ここまで寒いといよいよ温泉が楽しみになってくる。ゾクゾクする。

写真では青空ですが、天気がちょくちょく変わり、ちょうど温泉につかった頃雪が降り始め、たいへん気持ちのいい露天風呂となりました。

さて、浴場の洗い場で身体をゴシゴシと洗っておりましたところ、クソガキがふざけてシャワーをひっかぶっておりまして、わたしの背中に水がかかりました。
こいつは一喝してやろうか、と後ろのほうを「ジロ」と睨んだ所、その父親とおぼしき実に体躯のご立派なお方が。
その背中にはビッシリと刺青が入っており「やあ絶景かな」と思うと同時にわたしは目をそらしました。「ごめんなぁ」と、背中越しに謝罪の言葉が聞かれたのですが、わたくしは返答をすることもなく、ただただ、自らのご子息がしんなりとするのを見守っておりました。


初詣は両親と別の場所で済ませ、そのまた翌日に、わたしの最も思いで深い場所である大須観音に一人でやってきました。



ここでも同じく、やることは一緒。
参拝して、お守り買って、屋台で串カツ食べて、喫茶店でコーヒー飲んで、大須演芸場で寄席をみる。


今年も五木ひろしのそっくりさん、三木ひろしさんが来てた。
場内はお客さんも含めて完全に昭和の雰囲気。なごむ。

後はだんご食って帰りました。



しかしなんで毎年同じことやってんのかなー。
行く場所も、やることも、撮るものも一緒。
だいたい同じアングルで同じものを撮っています。

こういうことって、かれこれ5年以上続けているんですね。

あまり馬鹿みたいに繰り返すので、さすがに考えてみたら、ウーム・・・これがわたしなりの望郷の念なのかな、と思い至りました。
今年もこの場所は同じだったよ、今年もこのアングルで同じ風景が撮れたよ、という確認というか。
なんか犬っぽい確認作業。


変わるものもあれば、変わらないものもありますね。
有形、無形問わず。

去年は家族に大きな変化がありました。
そういうのを乗り越えるために、変わらなければいけないこともある。
どう変わったらいいかなんて分からないけど、とにかくいろいろ、変わらざるをえないものなんだな、と。

こうして、一人のオッサンはまたひとつ大人になったのです。

コメント (6)
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賀正更新

2012-01-07 23:54:44 | Weblog
なんか調べてみると、わたしはだいたい毎年この賀正更新というのをやっていたらしく、慌てて書いております次第です。


もうぜんぜん賀正ではないのですが、一応。

今年もよろしくお願いいたします。


抱負は・・・・
映画の完成を本格的に目指します。
今年が赤軍にとって節目の年なので、それらの活動を追いかけつつ、編集も進めていこうかと。


あと、金がアレなのでしっかり稼ぎます・・・・。

そんな感じです。


実家に帰り、さまざまなことが自分や親の年齢と共に変わっていくのを実感しまして、これはヤバイぞと。
20代後半から続けてるこの作業に、いよいよケリをつけなければいけない、と思うようになりました。



よし、飛ばない程度に空気入れていこう。
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