ちくわブログ

ちくわの夜明け

日本海旅行記 【4】 秋田

2010-07-28 01:15:30 | 
フェリーでの睡眠は、あまり心地いいものではなかった。
起きたとき、あまりの寒さに全身の筋肉が痛んだ。
就寝時あんなに暑かったのに。寝ている間に暖房が切れていたらしい。

5時50分秋田へ到着。
バスで港から駅へ移動。
まだ早く、どこも開いていないので駅前をぶらつく。
特に何もない。新潟もそうだったが、基本的に地方の駅前にはなにもない。

一角にほとんど廃墟じゃないかと思えるような場所があり、そこにあるビジネスホテルが¥2500と格安だった。しかし滞在する気もないうえ、あまりにもボロかったのでびびって泊まりはしなかった。


近くには廃墟と思われる長屋もあった。
地方にはこういった駅前廃墟が多い。



駅ビルの喫茶店でモーニングを食べながら、秋田での予定を立てる。
すぐ五能線を目指すことにした。

奥羽本線にて東能代へ。東能代からいよいよ五能線に乗り換え、能代へ。

今日はとりあえずここに宿をとる。

周辺はとにかくさびれている。駅前に廃墟かと思ったら機能しているビルなどあり。

商店街がかろうじて残っている。近くにジャスコがあり、そこに客を奪われているのだろう。
地方を旅すると、こうした「地方の現実」ってやつを目の当たりにする。見かける人々も殆ど若者はいない。そこへきてこの厳しい寒さと吹き荒ぶ潮風で、人も建物も、発展するのを諦めているような退廃的な雰囲気を感じてしまう。




日本海が近い。風が海の匂いをはらんでふきつける。
とにかく寒い。
想像していた以上に寒い。風が吹く度に息を止める。
しばらくして体の調子がおかしいのに気付く。
どうも風邪をひいたらしい。

チェックインまで時間があったので、喫茶店のようなレストランで2時間ほど時間をつぶす。
背中がぞくぞくする。
寒い。体力が無くなっていくのが分かる。
バス宿泊、フェリー宿泊がたたった上、この寒風に一気にやられたらしい。

薬、食べ物、飲み物を買い込み、14時半、早めに民宿にチェックイン。

翌朝まで寝込む。汗にまみれ、何度も夢を見て何度も起きた。

Twitter「つぶやく」ボタン
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅とわたくし

2010-07-25 06:18:19 | 
なんだか旅ブログになっております。
こうして日本各地を転々として、リアルタイムで更新とかしたらカッコイイですね。
現代版寅さんのごたる。

今回はちょっとお休みして、そもそもなんで旅日誌をさらそうと思ったか、この誰も知りたがらない秘密を大公開しちゃおうと思います。


写真、見てください。
つげ義春先生の『リアリズムの宿』です。
舞台となった鯵ヶ沢は、実際に今回の旅で行ったのですが、それはまた別の話でして。

このいわゆるつげ義春の「旅もの」と呼ばれるシリーズは何作もあり、全て短編です。
主人公は先生ご本人が投影された「マンガ家」で、常に貧乏しながらうらぶれた僻地や、秘境の温泉などを訪ね歩きます。
それでこの主人公、『もっきり屋の少女』という作品で、こう漏らしています。

「精神的にはけっして遊んでいるんではないんだよ」

ただ気楽に旅を楽しんでいるのではなく、これは理由がある旅なんだ、と。
実際につげ先生自身が「蒸発」というものに強く惹かれる一方、これらを「取材」としていくつもの名作を世に送り出しているのです。


で、この写真ですが・・・
主人公は旅先で入っためし屋でラーメンをたぐりつつ、非常に「さみしい計算」をします。
旅にかかる取材費がいくらで、作品からの原稿料がいくらで・・・と。
わたしがこの漫画に出合ったのは、もう10年以上も前のことなんですが、その時からこのシーンに憧憬の念を抱いていました。
「見たことのない風景を旅して、そこからお金を生み出すってすげーなー、こんなふうに働きたいな」と。

とにかくお仕事で様々な場所に行くことに、憧れを抱いていました。
それから何年もたち、こうして映像をお仕事とするようになってから、西日本を中心にいろいろ行きました。
今でも年に数回ですが行きます。来月、再来月も行けるみたい。

ただこれは自主的な旅からなるものではないので、根本的に違うんですよね。
自主的ではないからこその発見は、それはそれで素晴しいものでしたが。

実際、今回の旅のテーマであった「日本海側の厳しさを体験する」っていうのも、一昨年あたり観光では絶対行かないような場所をお仕事として取材し、それがあまりにも印象に強く残ったからです。
「観光地じゃない、日本の地方を見たい」という思い。


そういう経験から、やっと「精神的にはけっして遊んでいるんではない」旅をすることになったというのに、何も吐き出さないのはもったいない。
これからの人生経験にいかせるから・・・とかそんな曖昧なものじゃなく、即席でもちゃんとカタチにしたい。

かねてからのそういった気持ちが、この味気ないレポートとなりました。
これを残すことでどんな意味が自分に付加されるのか分かりませんが、とりあえずさらすだけさらしてみます。


『日本海旅行記』は次回から五能線に乗り、本格的に日本海入りします。
そんで、ちょっとえらい目に遭います。えろい目じゃないです。えらい目です。



Twitter「つぶやく」ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本海旅行記 【3】 新潟

2010-07-21 03:58:31 | 
5時40分に起き、朝風呂を浴びる。

宿を出て行きと同じ富山地方鉄道へ。
富山駅に向かうはずが、滑川で乗り損なう。どう考えてもドアが閉まるの早すぎる・・・

次を待っていたら新潟行きのバスに間に合わないので、滑川ICへタクシーで先回りする。
中で運転手さんがいろいろと話してくれた。なんでも山を見るなら滑川が一番、正面に見えるから、とのこと。
たしかに街から望む稜線が美しくデーンと向こうにあった。


無事バスに乗り、新潟へ。
8時20分~11時30分の3時間。


新潟駅近く定食屋にて日替わり定食。フライ定、コーヒー付き。
うまい。米がまたうまいのだが、新潟だからだろうか?
こういった地元のなんでもない店で食うものがうまい、ということに幸せを感じる。

駅前は特に何もなく、閑散としている。

新潟の目的地である「日本一海の近い駅」青海川駅へ向かう。
その車中、ツイッターでのやりとりから、Uさんと再会することになる。

青海川駅到着。
憧れていたが、写真で見るあの「海と駅名標」の不思議な光景以外は、本当に何もない。さらに言えば曇ってきて、雨まで降りだしてきた。

来る価値があったのかどうかは微妙だが、来たものはせっかくなので、写真を撮る。


その後Uさんと再会したが、この付近は本当に何もない、とのこと。
近くのドライブインで魚などをみるが、それでもしょうがないので少し離れた秘湯・栃窪温泉につれていってもらう。

ちょっと山の中に入ったところにあるその温泉は、まさにつげ的。こんなところが残っているのは奇跡に近い。
全てが古びていてなつかしい感触がする。


湯に至る木造の廊下に、お地蔵様がいらっせる。

お湯はあっさりとした入りやすい泉質。

帰ろうとしたら、湯のオババが「茶飲んでけ」と。
卓上にはどっさりとブリ大根、キムチ、漬け物の数々。
遠慮せずにたっぷりいただいた。


新潟駅に戻り、夜遅くバスがなかったのでタクシーにてフェリー乗り場へ。


23時30分発のフェリーにて秋田へ向かう。
その大きさに驚く。


しかし夜の海は暗く、何も見えない。
飯も売っていないので、酒のつまみで腹をごまかす。

たこ部屋のような部屋で、毛布にくるまって寝る。
微震、音でなかなか寝付けず。


つづく

Twitter「つぶやく」ボタン
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元日本赤軍・重信房子さん 懲役20年確定へ

2010-07-17 20:54:30 | 映画制作
第一報はある方からのメールでした。
全身から汗がふきだして、頭が混乱するほどショックでした。
あわてて帰宅し情報をまとめてみると、懲役20年で確定、未決拘留が10年だから、仮釈放なしで2022年ごろ出所とのこと。

面会は8月上旬まで可だが、希望者が殺到して受け付けられない、と。
郵便、差し入れの受付は可。


わたしがなぜこれほどショックを受けているかというと、今まさに重信さんについて調べ、取材していたからです。
正確に刑が決まったのが15日。わたしはその前日の14日に面会でお会いしました。
先月も会っていたので、これで二回目ということになります。

本当に不思議なことで、二回目に会うのをいつのまにか楽しみにしている自分がいました。
待つ間には、差し入れに対するお礼として、お手紙もいただきました。

とにかく笑顔を絶やさない、優しい雰囲気で、常にこちら目線で話を合わせてくれる方でした。
彼女が「日本赤軍」という組織のカリスマで、そのカリスマ性がどこからくるのかも、少しながら分かったような気がしました。



さて。
日本赤軍とはどのような組織なのか、ここで簡単に説明させていただきます。
まず、赤軍派という元になる党派がありました。
赤軍派は失速する学生運動の倦怠から生まれ、先鋭化した、「武装闘争で革命を」という党で、首相官邸占拠などを計画していました。
しかし1969年11月5日、大菩薩峠事件とよばれる一斉検挙によって指導部が一気に逮捕されます。
この後に議長である塩見孝也さんも逮捕され、残るメンバーの一部は「よど号ハイジャック事件」によって北朝鮮に飛びます。

指導者を失い、弱体化した赤軍派は、後に「あさま山荘事件」を引き起こす森恒夫さん(後に獄中で自殺)を代理的にリーダーとして立てますが、これに離反するかたちで重信さんはパレスチナに飛びます。
ここに京都パルチザンの奥平剛士さんらが合流し、PFLPと共闘することで、日本赤軍の元となる日本人ボランティアがうまれます。

奥平さんらは、のちにPFLPの「アウトサイドワーク」(域外活動局)の義勇兵となり、安田安之さん、岡本公三さんと共に1972年5月30日「リッダ闘争」(テルアビブ空港乱射事件)を闘い、奥平さん、安田さんは現場にて自決、岡本さんは自決に失敗し、イスラエル当局に拘束されます。

この日を起点として、このリッダ闘争の意思を受け継ぐ日本赤軍の前身組織が形成され、その後の1974年末、重信さんらは日本赤軍を名乗るようになります。
これはPFLPと「共闘」しつつも、それとはまた別個の組織でした。

ちなみになぜこのような特殊な立場に立てたかというと、アラブ世界では奥平さん、安田さん、そして岡本さんも英雄なのです。



70年代を中心として幾多の武装闘争(日本政府から見ればいわゆるテロ)を闘いぬき、2000年日本に戻っていたところを逮捕された重信さん。

わたし自身は思想的に日本赤軍の活動に同調する者ではありませんが、彼らのやったことには、非常に歴史的な意義がある、と思っています。
ここがすごく重要で「世界の中の日本」を、なんのフィルターも通さずに見るには、こうした歴史的事件をもっと、あらゆる目線で解体する必要があると思うのです。

ちなみにリッダ闘争はウィキペディアによると「テルアビブ空港乱射事件」となっています。
内容も「無差別乱射」となってい、どう考えても「イスラエル寄り=米国寄り=日本政府寄り」の見方です。そして多くの文献や情報もそのようになっているのが見受けられます。


話を重信さんに戻します。
確定の1日前、14日に面会した時のことです。
わたしはこの日、メル斗さんからいただいた、重信さんに関する昔の新聞のコピーを持っていきました。
その見出しにはこうあります。

「アジサイの好きな娘がゲリラに飛びこむまで」

これを見て重信さんは、とても嬉しそうな表情をされ「この記者さん、わたしがアジサイ好きなことよく知ってるわねえ」と笑っていました。
そして「これ、こっちに入れ(差し入れ)てもらえますか?」と。

そうか、こういうの嬉しいんだ、と、ちょうどいろいろな資料を探している折の刑確定でした。

あと一回、あと一回だけでいいから会いたかったです。


これからは面会も郵便のやりとりも、いまよりもっと難しくなるみたいです。
わたしの方は、まさにこれから書いて出そうと思っていた「手紙によるインタビュー」を試みようと思った矢先でした。
ただ、郵便も差し入れも可能なので、帰ってくる期待はしないまでも、手紙だけは出そうと思っています。



アジサイの好きな娘がゲリラに。
日本に住む一人の可愛らしい女性が、なぜ世界を相手に闘うに至ったか。
その軌跡を少しでもつかむため、これからも出来る取材は続けていこうと思います。



Twitter「つぶやく」ボタン
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本海旅行記 【2】 金沢~富山・宇奈月温泉

2010-07-09 02:31:12 | 
金沢駅に朝6時着。
観光案内も開いてないので、ネットで調べた東茶屋町へバスにて向かう。

昔ながらの町並みが素晴らしい。
朝の凛とした空気。早い時間、観光客は外に誰もいない。

こけむした石に、猫が目を細めて座っている。

ここには生活もある。
ただ観光地というだけではない、しっかりしたリアリズムもある。

坂を登った古い神社からは、街が一望できる。





続いて兼六園へ。歩いて10分ほど。

門近くの土産物・茶屋にて兼六団子というのを食べる。
ふつうの団子餅に、きなこのような粉をつけて食べる。
特になんとうことはない。


兼六園はデカい木や風流な滝は良かったが、そもそもこういった文化財的なものに何も感じないたちなので、そうそうと出てきた。


11時。駅に戻り、各駅で富山の宇奈月温泉を目指す。

ローカル線の富山地方鉄道からの車窓が素晴らしかった。
古い町並みに、遠くに広がる峰峰。

駅舎などはことごとく古い。各駅に停まって、しっかりと見たくなる。
それは廃屋のようなものから、昭和から形を変えていない鉄筋コンクリートのつくりのものまで。

まるで時が止まったよう。この感じも旅の醍醐味だ。



3時間かけ、宇奈月温泉駅へ。

近くなるとどんどん雪が多くなり、景色も自然豊かなものになっていた。


駅近くの保養所に宿をとり、そこでバッタリと2時間ほど寝てしまう。とにかく疲れていた。


17時から街を見回る。
とても小さな街。すぐ見終われる。




しかし実は目当てにしていた黒部渓谷は、電車が休み期間中で見ることができなかった・・・。
(※無計画な旅というか、ただ単にマヌケです。)

近くの定食屋でビールと焼き肉丼。


帰ってバッタリまた寝てしまう。

起きて温泉につかる。無色透明・無味無臭で、とても入りやすい。
疲れが取れた。


つづく

Twitter「つぶやく」ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本海旅行記 【1】 天橋立

2010-07-07 01:56:47 | 
今年の3月中旬、お仕事がなくて暇だったときに旅をしました。
ただなんとなく、帰る日も決めずにどっか行こう、と。


最初考えてたのは、行ったことないから北海道に行くか、というもの。
なんの計画も予備知識もなくフト思い立ち実行しようとしたのですが、少し調べたら寒くて死ぬのではないかと思いとどまり、断念しました。

それじゃあということで、これまたなんとなく「日本海側から本州を北上しよう」と考えました。
目的は五能線に乗って、日本海の厳しさを体験しよう、というもの。
厳しさっつったって見るだけですが。
しかし体験者から言わせてもらいますと、見るだけでもあの季節、なかなかのもんでした。この不定期連載が飽きることなく続けば、【8】でおわりなのですが、その道中で「厳しさ」を身をもって知らされることになるので請うご期待です。


今回の旅行記は出来るだけ「思ったこと」系のめんどくさい文章ははぶいて、旅行しながらPomeraでつけていた「旅の記録」的なものをコピペしていこうと思います。
そいではどうぞ。



9時50分、大阪発のバスにて天橋立へ。
「日本海なら」ということで、友人に勧められて行くことにした。
(※帰って調べてみて初めて知ったのですが、日本三景のひとつなんですね・・・)

約3時間半かけて到着。
駅前のボロい定食屋にて牛丼をむさぼる。朝からなにも食べてなかったので腹ぺこだった。



駅近くから出ているリフトに乗り、天橋立ビューランドへ。


すごい高台にある遊園地。
そこから天橋立が一望でき、壮観。コーヒーのんで一服。曇っているのが残念。
男一人旅で、果敢にも股のぞき台にも挑戦。

これはミニスカ女子もやっており、それこそ壮観であったと言わねばならない。

降りて、智恵寺へ。
日本三文殊のひとつだという。



そこから、船を通すために橋が回る「廻旋橋」を渡り、宮津湾に出る。

今回の旅、初めての海。風が冷たい。


近くの茶屋で智恵の団子というのを食べる。いわゆる焼き饅頭。

帰りは各駅を乗り継いで大阪に戻る。


大阪から夜行バスで車中泊。
金沢へ向かう。


つづく

Twitter「つぶやく」ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青春

2010-07-06 03:18:43 | 映画制作
いくら俯瞰しよう、俯瞰しよう、とがんばってみても、どうしても近づくにつれて、目線が近くなっていく。

歴史として総括する必要、とふんばってみても、どうしても感情移入して見たり読んだりしてしまう。


某日。
取材先のとある会合に参加されていたことから、元連合赤軍の植垣さんに取材の申し込みをさせてもらった。
それにあたって著書である『兵士たちの連合赤軍』を購入した。
その帯にこう書かれてあった。


「壮絶な青春」


青春。
ああ、この響き。わたしは中学時代、ジョージ・ルーカスの出世作である『アメリカングラフィティ』を観てからというもの、青春という言葉が持つ独特の響きに、過剰なくらい敏感になってしまいました。
それは今でもそうで。
「後悔のない、すばらしい青春を送るんだ!」とか息巻いてたのが「あーーーーー」とのたうちまわるのに変わったくらいです。

現実は「精液」と「自意識」と「きまずさ」がその殆どを占めていたんですね。

はは・・・・


青春。
話を元に戻します。

「壮絶な青春」とは鮮烈な一言でした。

そうだ。
生きる死ぬまで最終的に追い詰められた、追い詰めた、彼、彼女らも、それはまぎれもなく「青春」だったんだ。
距離を置くのも大切だけど、革命運動に身を投じた彼らの大半は「青春時代」をそこで過ごしたんだ。

希望、情熱、恋愛、後悔・・・・

青春という切り口、誰だって持っているもの、その前提と普遍性があったからこそ、あの時代があったんだ。


なんというか、そういう頭から水ぶっかけられた思いでした。



今でも、作家・倉橋由美子の言葉「彼女は、人知れず微笑んでなどいない」という言葉には同意です。
しかし一方で、そうそう冷たくもあしらえない、「微笑まぬ理由」も考えるようになりました。

Twitter「つぶやく」ボタン
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京拘置所に行ってきた

2010-07-02 04:15:11 | 映画制作
元日本赤軍最高指導者・重信房子さんの面会に、小菅の東京拘置所に行ってきました。
重信さんのことはまた別に書くとして、今回は体験記的なものを書いておこうと思います。

また、こういった情報はなかなか集めにくい、リアルタイムな情報が入りにくい、という面もあるので、他の人はともかくとして、わたしが体験したことをありのままお伝えします。


まず東京拘置所(以下、東拘)への行き方。
電車の場合、小菅駅で降りるか、綾瀬駅で降りるかの2パターンあります。
東拘入り口まで小菅の場合約10分、綾瀬の場合約20分くらい。
普通は小菅ですが、綾瀬からだとこのように、遠くから拘置所を見ることができてお得。


ちなみにこの辺まで来ると活気のある綾瀬駅周辺から少し離れるため、人通りの少ない寂しい風情となりますが、わたしは好きな雰囲気です。

綾瀬川を渡り、間もなくすると外壁と拘置所が見えてきます。

外壁は取り壊し工事が進みつつあり、この歴史をきざんだ古い壁が今に無くなってしまうのか、と思うとちょっと残念な気持ちになります。


しかし遠い。
入り口に行くためには、このようなこれ、なんて言うんでしょう。池?みたいなのをぐーーっと回らなければいけません。なんの意地悪だこの作りは。

デカイ鯉やカメがおり、近所の人に親しまれているのか人になれていて、手をパンパン叩くと近寄ってきます。
そういうどうでもいいプチトピックス。


さて。
ここまで来ればもうちょっとです。「東京拘置所前交差点」

ガゼン雰囲気出てます。足元ガン見されてます。

有名な差し入れ屋さん。わたしはここでは買いませんでした。


そしてこれが門。

なかなかに恐ろしげな威容をたたえるこの外壁も、ここを残して殆ど取り壊されており、今は仮設の工事中みたいな壁がしつらえてありました。


さて、中へ。
冒頭の写真が東拘を正面から見たところです。
この日、面会には3人で行きました。一日一回、一回につき3人までの面会が可能みたいです。
さらに、これは最近改定されたのか分かりませんが時間がたったの10分しかとれませんでした。ちょっと前まで30分だったのに。
面会って、このように半日がかりなんですね。なのに10分はないよなー。


中に入り、とりあえずわたしは差し入れをしたかったので、拘置所内の差し入れ屋さんに行きました。
ここはすごく便利です。
差し入れるものを書類に書かなければいけないのを、店のおばちゃんが注文を聞きながら代行して書いてくれます。なにより、そこにあるものは全て、審査を受けなくても「絶対入る」ものだから、余計な考えをしなくて済みます。初心者には助かる。

その後受付で名前等を書き、番号が呼ばれるまで待ちます。
呼ばれたらボディチェックを受けに行き、服以外のものはほとんどロッカーへ。もちろん腕時計や筆記具なんかはいいですが、携帯などは絶対ダメです。


チェック後、ドアを開けてさらに中へ進みます。建物が新しいからキレイで、コンクリート打ちっぱなしの味気ない内装が、ややオシャレに感じられます。
そして指定の階、部屋番号へ行き面会、と相成ります。

3人で10分なので、ほとんど喋れませんでしたが・・・



以上です。
全体としてはやはり、ずーんと沈んだ空気があり、なれないと雰囲気に酔うなーと思いました。ただしかし、建物が現代的なのには驚きました。

また来月行く予定なので、その時は重信さんのことについて書こうと思います。

Twitter「つぶやく」ボタン
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする