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ちくわブログ

ちくわの夜明け

北朝鮮 よど号グループ取材記・9 『北朝鮮という国』

2013-04-12 18:24:07 | 映画制作
訪朝4日目続き。



北朝鮮の記事とか非常にタイムリーだなぁ、と思うのですが、一方でわたしはいわゆる『表現者』といわれる方たちほど自分が強くもシッカリしているわけでもなく、いつもいつも迷いながらブラブラしている人間なので、正直に申し上げますと一連のこういった記事を書くのはちょっと怖い、というか、自分の「一市民」という匿名性を捨てているようで、おびえを感じながら書いています。
良くも悪くも、いや悪いんですが「俺はこういう立ち位置だ!」と叫ぶことに非常に恐怖を感じるんです。誰だってそうだと思いますが、これは何かを表現しようとしている自分にとって圧倒的な弱点だと常々思っています。
つうか確かに一般市民であり、実績も何も無い人間なんですが…


北朝鮮に対する見方が変わったのは完全に「訪朝してから」であり、はたから見ると平壌でいいもてなしを受けて思想的に懐柔された!と思われるかもしれません。
確かにそんな側面もあると言えばあります。ただそれは自分の中でよりどころにしている「見たもの、感じたものしか分からない」という考えと、「義理」という考えもあります。
この「義理」はレバノンに行き、パレスチナ人キャンプを見せてもらった時にも発生しており、わたしは以後少なくともこのパレスチナ問題に対し「義理を感じながらこの問題を考えよう」としています。
なんで義理かって言うと、世界のあらゆる出来事は情報や知識だけで処理できるものではない、と思うからです。ノンポリもいいとこな自分が拠るべきものとしてこの「義理」は数少ない根拠なのです。
正しい、正しくないという判断は自分には下せず、だからといって何も発しないわけにはいかない、そういうジレンマがあって、いつしかこう考えるようになりました。



つうわけで、4日目の夜です。
この日はムルコギ食堂というところへ。

調べてみると「ムルコギ」っていうのは「魚」という意味らしいので、正式な店名は今となっては分かりません。写真に書いてるのでハングル分かる方だけ了解していただければ。

店の周りは川のほとりの公園になっており、平壌市民がくつろいでおりました。


釣りをしながらタバコを分けるオッサン二人。

本を片手に川のほとりを歩く青年。

川の向こうには解体中のビル。


お店の前をキョロキョロとしてから中へ。
ムルコギと紹介された通り、お魚系のメニューが中心のお店です。
今日も大同江ビールがうまい!!!

一通り飲み物と料理がそろったら、ウェイトレスのお姉さんがカラオケを歌ってくれます。

お姉さん歌うまい。

向こうの人は歌も、踊りもうまい。赤木さん曰く「朝鮮は歌と踊りがやれないとやっていけない。だからレベルが高い」とのこと。
北朝鮮の「娯楽」ということなんでしょうね。

そしてこちらからも、植垣さん、よど号グループの皆さんらが肩を組んで『ワルシャワ労働歌』の合唱。


♪暴虐の雲 光をおおい
 敵の嵐は荒れくるう
 ひるまず進め
 われらが友よ
 敵の鉄鎖をうちくだけ…


『インターナショナル』もかっこいいけど、『ワルシャワ労働歌』もかっこよくて血が滾ります。



赤木さんとウェイトレスのお姉さんのデュエット。

次いで、安部さんも歌い「今日は赤軍兵士(植垣康博さん)がいるから特別だ」と、よど号グループ4人が肩を組み、今まで他人の前では歌ったことはないという歌をご披露してくれました。
革命歌なのか、朝鮮の歌なので内容は分かりませんが『ワルシャワ労働歌』などと同様、勇猛果敢なフンイキのメロディでした。

植垣さんも酔っ払い「こりゃあいいや!こりゃあ気合入った!」とゴキゲンでありました。



そしてまた、ウェイトレスさんが歌ってくれました。
悲しげだけど、美しいメロディで。
よく見ると、彼女は目にいっぱいの涙を浮かべて泣いていました。

え…なんだなんだ。

どういうことかというと、どうも『苦難の行軍』を歌った曲のようです。
以下ウィキぺディアから。

【苦難の行軍】
苦難の行軍(くなんのこうぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国で、1996年1月1日の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』の新年共同社説で使われた、飢饉と経済的困難を乗り越えるためのスローガンである。1938年12月から1939年3月まで金日成ら抗日パルチサンが満洲で日本軍と闘いながら行軍したことに準えている。朝鮮民主主義人民共和国では、1990年代後半に、飢餓により22万人から350万人が死亡したといわれる。



これについてガイドのKさんが当時を回想してくれました。
「(当時は)ロシアの、中国の支援も無い、一番苦しい時でした。本当に苦労して…生きるかどうかの瀬戸際だったんですね。それ(苦難の行軍)は一言では、一言では言えない…しかしそれは皆が要求したから。それは我々の生き方ですので。望みでした。もちろん死んだ人はたくさんいます。たくさんいます…、この……ね……苦労、苦労した……」
語るうちに涙で言葉につまって、席を離れてしまいました。


これはわれわれ世代が経験したことの無い領域で、「思想に生きる」ということのジレンマなんじゃないか、と思います。
個人的には非常に悲しいことがあった。周りの親しい人々もたくさん死んだ。
しかし大義のために、これは乗り越えなくてはならなかった。

そういうことなんじゃないんでしょうか。


もちろん、わたし自身はそんなの絶対「要求」しないし、そういう生き方もしたくない。
しかしだからといって彼らの生き方を誰が馬鹿にできるんだろう。

一番胸に刺さったのは「我々の生き方」という言葉でした。

それに対してどこの誰が馬鹿にする権利なんかあるのだろう?と思ったのです。
知らず知らず、日本人は北朝鮮の人々を下に見ているように感じます。
ウェブ上の北朝鮮旅行記なんかでも、たいていなぜだか「面白おかしく」書こうとしています。
どうしてそこでウケを狙う必要があるのかな、と思います。

例え北朝鮮、もしくは平壌の一部の人々でも、それを信じて命がけで思想に生きている人々がいる。
わたしが思ったのは、多くの日本人が北朝鮮をちょっと「おかしい人達」みたいに捉えている限り、国交も成せなければ、両国のさまざまな問題も解決しないんじゃないかな、ということです。

生きている人達をきちんと理解する、ということから国交のようなものは始まるんじゃないかな、と。


いろんな矛盾があり、国のどこかで人々は飢えているのかもしれません。
でも、敵のように蔑むような見方をしたところでどうなるものでもない、と感じました。


実はこれ、この時自分に向かっても思ってたのです。
最初にも書いたとおり、わたしだって北朝鮮といえば闇に包まれた独裁国家で、何をやるか分からない人達、そして文化は時代遅れ、という印象でした。
だいたいの日本人が持つ北朝鮮観と、そうずれてなかったと思います。

しかし訪朝を経て、こういった話を聞いて、日本という国はそういうフィルターで北朝鮮を見ているし、マスコミの報道もまたそうなってしまうのだ、ということを知りました。


どんな国であれ、馬鹿にすることはできない。
人の生き方を笑ったり、おちゃらかしたり、そんなことは誰もしてはいけないことで、ただ単に失礼だ、と、そう思った夜でした。




続く

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【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・3 よど号グループ帰国問題談話・平壌観光】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・4 人民大学習堂/万寿台の丘】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・5 主体思想塔と平壌の遊園地】
北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 北朝鮮のハンバーガー
【北朝鮮 よど号グループ取材記・6 祖国解放戦争勝利記念館】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・7 大同江果樹農場】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・8 『赤軍という現象の歴史的再定義』】
北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 「犬食った。」



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北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 「犬食った。」

2013-03-30 02:22:13 | 映画制作
よど号グループ事務所では、議論なんかの他にも普通に飯食ったりもしました。


特別に調理する方が来ているらしく、ことごとくうまかったのです。
写真はこれでも確か朝食だったかと思います。
朝食は他にパンの時もあり、それに果物ジャムを塗って食べたり。このジャムがまたうまかったので、たいそう高いものだったのかも知れません。

初日の夜には豪勢に刺身なんかも出たりして、たまらんかったです。
ぶっちゃけると毎晩飲めや歌えややってました。


こういうことを書くと、やはり想像できるのが「よど号の連中はいい生活をしている」という意見。
実際、普段もそうなのか、わたしは知りません。そうかもしれないし、違うかもしれない。

ある方に「ご飯の話なんか書くと、そういう誤解をされてしまうのでは」という意見をもらったのですが、確かにそうで、でもこういった対偶を受けたのは事実で、だからこそ楽しかったし、また行きたいし、それも含めてわたしの訪朝記です。
当のよど号グループの方々が、これを書くなとか絶対言わないだろうと思います。


といったことは常に滞在中考えており、おりながらもムシャムシャと出てくるものを食っておりました。

そんなある日。


昼飯の時間になりワーイと食卓につき、肉スープに舌鼓をうっておりました。
朝鮮料理でスープはメジャーなので、こういったものは何度か食った覚えがあります。

ホホウ。筋っぽいがうまい。さすがホルモンの本場朝鮮。いろいろな部分を煮込んでいるのであろう。

と想像しておりましたら誰だったかが


「どう、犬」


とか言ってきて


「え」


となりました。


ああ。
さすが、朝鮮は本場だなあ。

犬……


わたしは犬が大好きです。
実家でも昔、マルチーズを飼っておりまして、ある方のお誘いで震災時、ペット関係のボランティアを手伝ったこともあります

そんなわたくしですので、状況を把握したと同時に「一線を越えてしまった」と思いました。

言われて気づいたので食いかけですが写真。



まぁ、おいしかったですよね。
今更どうともならないので食いました。
食ってると体がポカポカ温まってきて、植垣康博さんは汗だくになり、シャツがベタベタになっていたので誰かに「脱げば」と言われその通りにし、裸の大将のような状態で犬食ってました。


ちなみにここの事務所では犬を飼っており、よど号グループの赤木さんがとても可愛がっていたのを思い出します。

可愛がるというのも、田舎っぽい可愛がり方でビシビシ叩いてしつける、なのに犬は尻尾振って喜ぶ、という昔懐かしい「人間と犬」な信頼関係でした。

ハンバーガー食べに行った時も、みんなが食った後のフライドチキンの骨を赤木さんがせっせと回収しており、それを犬が大喜びで食うという塩梅でした。

そして、少し、ほんの少し、犬の将来が心配になりました。
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北朝鮮 よど号グループ取材記・8 『赤軍という現象の歴史的再定義』

2013-03-14 17:35:11 | 映画制作
訪朝4日目。


この日からわれわれ訪朝団は、よど号グループ『かりの会事務所』に宿泊し、対話中心の日程に移行しました。
といっても、この2日後の朝には帰国するのですが。


宿泊した部屋。



朝食の後、議論(談話)開始。

議題は『赤軍という現象の歴史的再定義』というもの。
『歴史的再定義』というのは、わたしが「救援」誌に書いた『歴史としての再定義を』からとった、とのことです。

植垣康博さんの連合赤軍問題総括から始まり、小西隆裕さんの発言を中心としたよど号グループの総括へ。

植垣康博さん

そこで議論になったのが、よど号グループの皆さんが口にする「人民」という言葉についてです。
よく「人民を愛し、信じる…」といった使い方をされていました。


ハテ、しかし…

人民とは誰のことでしょうか?
わたしも人民なのでしょうか?具体的に日本の人民とは、日本という国に住む人々のどの範囲を指すのでしょう?

愚直に「俺も人民ですか?」と聞くと「そうだよ」とのことでした。

というのも、人民というのは殆ど「共産圏が使用する言葉」というイメージがあり、なんとなく狭苦しさと思想的、反権力的な意味合いがはらまれているような印象を受けます。
そしてなにより、“上から目線”なイメージがして…。
なんか「偉そう」に聞こえてしまうような気がしないでもない。

このあたりになると、わたしもよど号グループの皆さんが「ガチガチの主体思想体現者」というイメージから「わりと柔軟なオッサンたち」と印象が変わってきていたので、そこらへんはズバズバと言いました。
そりゃ言ってて緊張しなかったといえば嘘ですが、だいたいは「そりゃそうだ、そう思うわな」などと相槌うってくれたりしたので喋りやすい雰囲気でした。
どちらかというと「意見を聞きたい」という接し方でした。

小西隆裕さん

若林盛亮さん

安部公博さん

赤木志郎さん


カメラを回すことでわたしの方からも質問をしました。
それは「連合赤軍事件を知った時」「リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)を知った時」それぞれどう思ったか、という大雑把なものと、議論後時間を作ってインタビューさせていただいた「グループ内の人間関係」「ヨーロッパ拉致疑惑」、そして「皆さんの過去と現在とこれから」等に関するものです。


この議論(談話)とインタビューについては、ここで書くとせっかくの映画内容の核心に触れてしまうコワさがあるので、ここらへんでご容赦を…


とはいえここは書いておかねば、と思う部分もあったので小西さんの発言から2点。

【ヨーロッパ拉致問題について】
「日本人が(我々に)怒るのはある意味いいことだと思う。新聞に書かれてあるようなことが本当だとしたら、怒るのは当然だ」

【ハイジャックについての総括】
「ハイジャックではいざとなれば人民もろとも、と思っていた。しかし後から考えて、人民を犠牲にする大義はないと思った」


わたしはここらへんの言葉を信じたいと思います。


「人民を犠牲にする大義はない」
めちゃくちゃ遠回りして掴んだ、当たり前といえば当たり前すぎる言葉。

心の中でツッコミつつも「ズシリ」ときました。




続く

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北朝鮮 よど号グループ取材記・7 大同江果樹農場

2013-01-23 18:58:07 | 映画制作
訪朝3日目 その2。


『祖国解放戦争勝利記念館』を後にした我々は、次に『大同江果樹農場』へ向かいました。
もともとここはトウモロコシ畑だったようですが、ご覧の通り膨大な土地を利用したリンゴ畑となっております。


苗は主にイタリア等から取り寄せたもの。
農場内にはリンゴジュース等を製造する工場や、スッポン、アヒル等の養殖場も併設されているとのことです。

迎えてくれたガイドのお姉さんによると・・・

「金正日総書記の直接的な提案で造られた総合的な農場」
「広さは全約1,000ヘクタール」
「周辺に化学工場も無く、肥料も科学的なものは一切使用していない」
「収穫されたものは、人民へ配給される」

曇っていて本当に残念なのですが、ウグイスが鳴いてて静かで、とても落ち着く場所でした。

ガイドのお姉さん、歌をご披露してくれました。「リンゴ娘」という朝鮮の歌。

前にも書いたかもしれませんが、こちらの方々は歌と踊りがうまい。
娯楽としてしっかり定着してるかららしいです。

そんなお姉さんの美しい歌声に、静かな風の音、時折さえずるウグイス。嗚呼自然の織り成すハーモニーよ。
・・・こう言ったらなんですが、映像的にとても「絵になる」ものでした。

お返しにこちらからは「リンゴの唄」をご披露しました。
しましたというか、オッサン達がしておりました。

こっちはなぜか自然がハーモニーしてなくてアレでした。


お姉さんにお礼を言い、次に土産物の買える商店へ。
わたしはこの日あまり買い物はしませんでした。ただ商店とその周りには興味があるのでキョロキョロと見ておった次第です。

ボーイスカウト的なものでしょうか。少年少女が列をなして闊歩しておりました。

これは射的ですね。こういった、平壌市民の普通の娯楽って興味あります。
ゲームセンターなんかもあるらしいのですが。

平壌市民とスト2で対戦とかしてみたい。


その後、『マンギョンデサーカス劇場』へ。

デカイ。
ここでサーカスを観覧しました。空中ブランコが失敗する場面もあり、レベルが高いかというとどうか分かりませんが、なんかやたらと「がんばれがんばれ!」と応援してしまった。
あと何より笑いをとるような芸は本当に面白く「こういうとこを日本でも放送したりすれば親近感わくのにな」と思いました。
こういうところなんですよね。思ったより堅い人達ではないんですが、そこらへんのユルさって、行ってみないと分からない。
例えば、歩いてる人でも皆胸に金正日バッジを付けているのですが、暑いからと胸のボタンを外してはだけさせてたり。こうした普通にだらしないオッサンもいたりして。

劇場前は市内でも比較的綺麗な住宅街でした。

そんな中にもスローガンを掲げた看板はあり。

街中でよく見られる「草むしり」作業も。これは当番制とのことです。



サーカスを見終わると日も暮れ始め、ご飯を食べに行きました。

明日、われわれ訪朝団の中で一人が先に帰るため、ちょっとした晩餐を『海運イタリア特産物食堂』というイタリア料理店で。

ここは本場イタリアで修行を積んだシェフが指導し、本格的なイタリア料理を提供するレストランで、確かにパスタ、ピザ共美味しいものばかりでした。
あとなぜか調理してるお姉さんたちがやたらかわいい。

撮ってないけど。

われわれが席に着くと、ピアノの演奏が始まりました。

するとよど号メンバーの方が「ああ、勘違いしてる」と。
どうも在日の方の集いと勘違いしたようで、朝鮮総連関係の曲を弾き始めたらしいです。

酒も回って盛り上がってきたところで、よど号メンバーの安部(魚元)さんによる「イムジン河」のカラオケが。ピアノ生演奏つき。
安部さんは歌がとてもうまいです。

続いて元・連合赤軍兵士 植垣さんによる全共闘替歌。
♪「赤く咲くのは赤軍派 白く咲くのは中核派 どう咲きゃいいのさノンポリは 夢は夜開く~」

よど号メンバー赤木さん、笑いながら「ああいうセンス、俺には無いなー・・・」


宴も終わり、せっかくだからとホテルへ戻る前に『羊角島ホテル』の展望室で歓談。

エレベーター内。赤木さんと。

ここが展望室。ゆっくり、ゆっくりと旋回しており、平壌の夜景を見渡すことが出来ます。

俯瞰で綺麗な夜景撮れないかな、と期待したのですが、前述の通り旋回している上、ガラスに反射してあまりいいものは撮れませんでした。




さて、これにて観光メインの日程は終わり、翌日から本格的によど号グループの皆さんと討論を始めます。
それに伴い、宿泊もホテルからよど号グループ「かりの会」事務所へ移ります。




続く

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北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 北朝鮮のハンバーガー
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北朝鮮 よど号グループ取材記・6 祖国解放戦争勝利記念館

2012-12-14 17:01:56 | 映画制作
訪朝3日目。


この日もまずはよど号「かりの会」事務所へ。
その後、午前中は皆さんと一緒に『祖国解放戦争勝利記念館』という施設を見学しました。

車を降りて施設まで歩く途中の街並み。

写ってませんが、子供がケラケラと笑いながら走り抜けていきました。
少し歩くと今度は軍人さんの行列、チマチョゴリを着た女性の行列が。

それらを眺め、撮影していると
「赤目さん、早く早く!こっち来て撮って撮って」
という植垣さんのせかすような声が。

何事かと施設前まで行くと、このような軍服美人さんが待ち受けておりました。

ワーイ!!!案内してくれるガイドさんです。

そして、これが『祖国解放戦争勝利記念館』。

いわゆる「朝鮮戦争」に関する施設で、「朝鮮戦争における北朝鮮の米国への勝利と、金日成の業績を称える」的な建物なんであります。

まずは金日成氏の凱旋を祝う様子を描いた絵。

なんでか、ずっと絵に向かって扇風機がかけられていました。
乾いてないのかな、と思ったのですがどう考えてもそこまで出来たてホヤホヤな絵ではなかったので謎です。

続いて、中では様々の資料や、朝鮮戦争で実際に使われた物、金日成氏が使用した物、米軍から奪った物品、兵器が陳列され、それをガイドさんが熱心に説明してくれました。



指し棒がいかしています。

途中、ビデオ鑑賞も行われました。しかしテレビに映らない。
あれ~?とガイドのお姉さんがやっていると、誰だったかが「ちょっと赤目くん、見てやってよ」と。
配線を見るとビデオ端子の差し口が間違っていたので、直しました。

はれて鑑賞開始。
お姉さんもこういったことにまったく動じず、誰かが「堂々としてんなぁ」と言ったのには笑ってしまいました。

戦車とかこれどうやって入れたんだ的などでかいブツも。

地図を指しながら作戦とか説明してくれるお姉さん。

ジオラマ。こういうの燃える。


さて、メインの展示会場から移動し、やたらだだっ広い駐車場のような展示場に案内されました。

ここには実際に使用された戦闘機や潜水艦、車両等がズラリと並べられていました。
こちらも北朝鮮側のもの、米軍側のものと両方が展示されておりました。


これは確か、撃墜した機体だったか。

とにかく展示物はけっこうな数で、兵器好きな人とかたまらんだろうなという。
銃とかバズーカ砲も。


さらに移動し、最後はパノラマ展示室へ。

奥が絵、手前がジオラマという按配でなかなか凝っております。

パノラマ絵がぐるーーーっと回り、米国の支配地域から北朝鮮が奪還するまでを描いた物語となっておりました。



史実がどうこうというのは置いといて。
プロパガンダだろうがなんだろうが、こういうのは行って観て楽しめばいいんだ、と思いました。ガイドさん美人だし!
あと、この地における「事実」をきちんと見ておくのって、けっこう重要なことだと思います。




続く

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北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 北朝鮮のハンバーガー

2012-12-08 01:27:38 | 映画制作
前も書いたとおり北朝鮮での飯はほとんどがうまかったのですが、それもあちらで色々とおもてなしされたからで、比較的豪華なものばかり食べていたからかもしれません。
しかしそうでない場合もあって、われわれが「そういう事」に興味あるというのを察してもらえ、いわゆる普通の平壌市民が行くようなレストランでも食事をしました。

中でも「北朝鮮にハンバーガー店ができた」というのは訪朝前から知っており、これは行かねばと思い、希望して連れて行ってもらいました。


ここがハンバーガーショップ。「三台星清涼飲料店」

向こうの飲食店は大体こんな感じの外観なので、何屋かちょっと分からないですね。
よく見るとこういう看板が立ってます。

ファーストフード屋だよ~ という控え目なアピール。
店の前は普通の街。交通量の多い大通りに面しています。

お店は2階にあり、窓から外を見渡すとこんな感じ。

店内は細長く、われわれ以外にお客さんはほとんどいませんでした。

建物に入り、階段を登ってすぐにあるカウンターで注文します。
選んでるのは訪朝団とよど号メンバーの小西さん、若林さん。

メニューはこちら。
なんだかよく分からないので、無難に普通のハンバーガーとポテト、コーラを注文しました。


あるニュースによるとキムチもあるとか。
シンガポールのワッフル店がパートナーとのこと。だからか、確かにワッフルも売っていました。
ちなみにハンバーガーの朝鮮式呼び名は「陥遭 社壱奄人 薩」(牛の挽肉焼きとパン)。


席についてしばらくすると注文したメニューが運ばれてきました。

開封した状態がタイトルの写真。バンズをめくると

なんかグーテンバーガー思い出した。

味は普通に美味しかったです。
ポテトも自販機的な思い出深い味わいでした。

ただ、北朝鮮人民向けにローカライズしたハンバーガーということで、バンズが甘いのが気になりました。帰りの飛行機でも機内食でハンバーガーが出たのですが、この時は本格的に甘く、ちょっと気持ち悪くなってしまいました。
他でプレーンなパンを食べた時も「甘い」と感じたのですが、そのほのかな甘さが日本にはないもので、ロールパンだったかを食べた時は逆に「これなんてパンだ?うまいですね」と話題になったりしました。

訪朝団の編集者・椎野礼仁さんはフライドチキンも頼んでおりました。

パリッとジューシーでいけました。


店員さんは若い女性ばかりで、可愛かったから「撮っていいですか?」と聞いたらイヤイヤされたので無理やりカメラを向けたらプクッと頬をふくらませ、くるりとそっぽ向いてしまいました。

・・・・・・

おいおいおいおいおーーーい!!!
なんだね今のは!か、かわいいいい!!!



まぁでも。

実際日本で同じことやられたら「え・・・」と引いてしまうんでしょうけど。北朝鮮の化粧の薄いあのなんつーかスレてなさそうなおぼこっぽさが可愛さを引き立てるんでしょうなあ・・・・

という北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のハンバーガーに対する現実とその考察をお伝えしました。




続く

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北朝鮮 よど号グループ取材記・5 主体思想塔と平壌の遊園地

2012-10-21 20:44:38 | 映画制作
訪朝2日目続き。


2日目も3回目ですが、今回で終わりです。次回からやっと3日目行きます。
この日は本当に盛りだくさんで、1日目は歓迎会、2日目は観光がメインという感じでした。
実際他の日にも観光はしたのですが、この日で殆どの観光地をまわりました。

2日目で顔合わせも済み緊張もほぐれたところで、ひとまず平壌見とこうかー って感じのコーディネートでしょうか。
今回われわれ訪朝団の目的である各種談話等は、日程の後半に詰め込まれていました。

それでは。


北朝鮮・平壌で思い浮かぶ情景はいろいろありますが、前回の記事で書いた【万寿台の丘】の金日成・金正日両主席の銅像がインパクトありまくり&有名すぎて影に隠れがちなのがこの主体思想塔。

The 高い。
170メートルだそうです。

中に何があるのかっつうと、これが特に何も無い。
ただエレベーターで展望台まで登ることができ、ここから平壌を見渡せます。
入り口を入ると、すぐ世界各国の主体思想研究会等の碑銘が並べられております。


こちらが展望台からの眺め。前回の人民大学習堂からの眺めとは変わり、わりと素のままの平壌が見れます。
こういった古いアパートのような建物が非常に多かったのが印象的でした。これは上から見ても、地上から見ても感じたことです。


実際に行ってみるとこうしたどこの国でもある「生活臭」を、彼らは全く隠していません。
これを「ほらみろ貧しい」と見るか「そりゃこれが普通だよな」と見るかは人によって違ってくるのでしょうが、わたしはこういう風景にこそ親近感をおぼえます。

こちらはさっきまでいた人民大学習堂です。

例のどでかい噴水も見えます。相変わらずヒヤヒヤします。

ここにもチマチョゴリを着たガイドのおばさんがおり、「平壌は朝鮮戦争で焦土と化しましたが、ご覧のように復興したのです」と言ってました。

下に降りて、正面の大同江からの景色です。

向こう岸に見えるのは、万寿台地区の新興住宅街。

ここは希望があれば、観光客含め人民が部屋を見学することが出来るそうです。
しかも部屋に人が住んでるのに。
当たり前の話ですが、住人達はちょっと嫌がるとか。


さて、ここで夕方までの観光ノルマは終了し、少し買い物と休憩に向かいました。

平均的な平壌の景色でしょうか。ここは店の多い地区でしたが、だいたいこんな感じです。
少し裏道を見ると、このように生活臭ありまくりな場面も。

生きた平壌って感じです。こうして見ると東南アジアの風景にも似ている。

日用品を買いに入った商店。日本製のものもたくさんありました。

買い物を終え、喫茶店へ。
確かアイスコーヒーを頼んだかと。味は普通でした。

植垣さんとガイドのKさんは昼間っからビールあおってました。
で、なぜかカラオケがありまして。労働者のお兄さんが熱唱してました。

また上手なんですよね。向こうの歌だから内容は分からないけど、だいたい国や英雄を称える詩でした。
いつだったか赤木さんに聞いた話ですが、こちらでは娯楽が多いわけじゃないから「歌と踊りがうまくないとやっていけないんだ」とのことでした。
上手い下手はともかくとして、確かに皆さんそれぞれがそれぞれ、歌と踊りとなれば楽しむすべを知っていて、ノリがいいんです。
「恥ずかしがらない」んですよね。若い男女のふれあいも、歌と踊りを通じて行われたり。

超健全。

ちなみにこちらのお兄さんがお召しなのは金正日氏と同じ服。軍服かと思って「あの人、軍人さんですか」と聞いたら「あれは工場労働者の服だよ」と。
つまり金正日氏は労働者の服を着ていたんですね。


さて、いったんよど号グループ事務所に戻り、夕食まで休憩です。
ちなみにこちらは事務所で飼われていた犬。
すごい人懐っこくて、近づくとジョバーーーッってうれションしてました。



この日の夕食は特に豪勢でもない、街中の普通の焼肉店にて。
ここに至る道がまた普通っぽくてよかったです。


いいですね。ほっとします。

で、料理の写真は撮り忘れたのですが、うまいうまい。
北朝鮮行った、ていうとよく「料理うまかった?」て聞かれるのですが、はいうまかったです。
全体的に味が濃いですが、それで酒もすすむ。


ここで印象的な出来事が。
われわれが飯食ってると、さっきまで忙しく働いていたウェイトレスのお姉ちゃんたちがパッといなくなっている。「あれ?どこだ」とばかりに後ろを振り返ってみると

え、サボってる。


やい!なんだ!!いったいどういうことだね!!支配人を呼びたまえ!!!

で。
お姉さん達がキャアキャア言いながら観ているテレビにはニュースが。なんのニュースかというと・・・
あ、金正恩氏だ。

つうわけで、どうも本当に金正恩氏は人気があるようなのですね。
よど号の皆さんに聞いてみたら、やはり新しい指導者には皆興味があるし、若いので人気があるとか。

こういうの見てしまうと、どうしても日本の報道だって偏ってるな・・・と思います。

賛美するつもりはありませんが、見ちゃったもんはしょうがない。
彼らには彼らの本心があり、それはわれわれが日本でニュースをチラと見たり、読んだりしたところで分からないんですね。


その後、お待たせしました遊園地(凱旋青年公園)へ。
遊園地入り口の様子。

遊園地入り口でポーズを取る植垣さんの様子。

入り口からしてすでに人も多く、ニギヤカです。歌が大音量で流れていました。

中に入ると、敷地そのものは広くありません。簡単に歩いて回れる程度。そこに各種遊具がおかれています。
絶叫マシーンも3つ程アリ。


ジェットコースター。寝そべって乗るタイプです。普通に怖い。

上にギョーーンと逆バンジーするやつ。普通に怖い。

左右に大きく揺れながらぐるぐる回るやつ。めちゃくちゃ怖い。絶叫した。

ゴーカート?みたいな。ガシガシぶつけあって楽しむやつ。わたしは乗りませんでした。

確か遊具はイタリア製だったと思います。もちろんしっかりとした綺麗なものです。ここではなかったかもしれませんが、最近ニュースにもなりましたね。

ちなみにどの遊具もことごとく市民が行列を作っており、たいへんな人気でした。
しかしわれわれは「外国人特権」というやつで、並ばずスッと、いい席に入れてもらえました。
もうなんだか悪くて悪くて・・・
ある遊具では、金正恩氏が視察の折座った席につかせてもらえました。


27年の獄中生活を送った植垣康博さんは、今回初めて「絶叫マシーン」に乗ったとか。

ワタシ「いやあ怖かったですね」
植垣さん「うーん、怖かったっていうかなんつうか・・・イヤハヤ」

数分後

植垣さん「ああ怖かった・・・」


怖いんだ。


ちなみにこの凱旋青年公園、平壌市民はタダで入れるとか。
地区ごとに入れる日が決められており、今日はどこどこ地区、今日はなになに地区、といった按配で入れる仕組みになっているとのこと。
こんなところも配給制。

園内を歩きながら説明してくれる(左から)安部さん、若林さん。
ちなみにお二人は、われわれが遊具に乗っている間、荷物持ちなどしてくれて・・・わたしの荷物なんか私物にカメラまであって重いわけです。「いいからいいから」と持ってもらい、よど号グループに荷物持ってもらって絶叫マシーンに乗る人という謎の恐縮シチュエーションを経験しました。

写真撮影に応じてくれた平壌市民の若者グループ。



一通り楽しんだ後、遊園地付近にいくつもあったプレハブ式の売店へ。
ガイドのKさん「いやあ楽しい楽しい。どうです楽しかったでしょう。ここで少し飲みましょう。ホラホラ」
と小瓶の焼酎とピーナッツをおごってくれました。

Kさんは何も乗ってない上、荷物持ったり写真撮ったりしてくれただけなんですけどね。こういうところは来るだけで楽しいのでしょうか。


遊園地の夜景を眺めながら、平壌市民と路上で飲む焼酎はまた格別でした。




続く

前回まではこちら
【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・3 よど号グループ帰国問題談話・平壌観光】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・4 人民大学習堂/万寿台の丘】
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若松孝二監督 逝去

2012-10-19 00:55:41 | 映画制作
若松監督には、自分が制作している映画の関係もあり、集会などで何度かお目にかかりました。


最後にお会いしたのは、半年ほど前だったか・・・都内のとある小さな映画祭において。
A監督に用事があったので、探して声をかけようとすると、その隣でワインを飲んでニコニコしている若松監督がいました。


「監督、覚えてらっしゃらないでしょうけどお久しぶりです」
「ああどうもどうも。最近は色んな人に会ってるから・・・」
「お忙しいですね。三島も海燕ホテルも控えてて」
「そうなんだよ、次に『千年の愉楽』もあるからね」


上機嫌でお話してくれて。
そう、まさに自分が撮っている映画でいつかはインタビューをさせていただこうと思っていました。
撮ってきたパレスチナの映像を観てもらい「ヘタクソだなー」と言ってもらえたら、と。



数年前とある集会で。
「赤軍のドキュメントを撮っています。先日ある方から『なんだ君は、興味本位か』と言われてしまいました。興味本位といえば返す言葉も無いのですが・・・」と自己紹介した時。
参加者の中にいた若松監督が「そんなもん、興味本位でいいんだよ!!」と叱って下さいました。

その一言が、素人の俺をどれだけ勇気付けたか。

写真は、その時監督からいただいたサイン。パレスチナのスカーフ、ハッタに。


近くにいた者ではないけれど、わたしにとってとても影響力のある監督でした。



ご冥福をお祈りします。
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北朝鮮 よど号グループ取材記・4 人民大学習堂/万寿台の丘

2012-10-11 00:19:28 | 映画制作
訪朝2日目続き。


玉流館の冷麺を堪能した後、平壌の中心に位置する「人民大学習堂」へ。

何かと言いますと、ものすごくデカい図書館であります。
階段を登った丘の上にあり、まぁとにかく大きい。
どういう身分の人が使えるのか聞いたら、誰でも使えるそうです。

ガイドさんが言うには、「平壌の真ん中の真ん中なので、政府庁舎を建てようという案があったが、主席はここを人民のための施設にしようと提案して下さった」とのこと。
学習堂の入り口から見た街並み。


中央ホール。
綺麗だ。左上に写っている電光掲示板には新刊入荷等様々な案内が。

上から見るとこんな感じ。

閲覧室。
静かな中、勉学に励む若者達の姿が見られました。



入ってくる人達を見ていても、だいたい若者が中心だったように思います。
いわゆる平壌のインテリ層と、その卵が集うんでしょうかね。
しかしこれら施設がタダで使えるのはうらやましい。

机は形こそ昔ながらのものでしたが、工夫をこらしてあり、高さや角度を調節できるようになってます。
「これこのように」と実演する若林さん


カウンターにいた案内のおばさんに「日本の本もありますよ」と何冊か見せてもらいました。
医学とかそこらへんの本だったかと。わりとあたらしいやつ。
ラノベはないようでした。
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』とかあったら愉快ですね。北朝鮮に妹属性とか存在するのか分かりませんが。

続いて質疑応答室。
各専門の先生が、自習者の質問に直接答えてくれる、とのことです。
この日は哲学の先生がお相手して下さいました。

植垣さんがヘーゲルのなんちゃらかんちゃらについて質問していましたが、わたしにはとんとわけが分かりませんでした。
無念。

電子閲覧室。
若者が電子書籍で漫画を読んでおりました。

昔のアメコミチックな絵柄で、ちょっと読んでみたかったですね。

ここは何だったか、大会議室的な部屋です。
デケー

もうことごとく広いんですね、あらゆる部屋が。
机もいい感じで間隔が空いてるし、無駄なものもなく。心地良いです。
だから、移動もわりとたいへんっていう。


全て見終わる頃にはみんな疲れてました。

視聴覚室ではお姉さんが待機していて、『津軽海峡冬景色』をかけてくれました。
笑ってしまったんですが、つられて笑うお姉さんかわええ・・・

他にもオンライン会議室等見せてもらえました。


最後は屋上の展望台から平壌を一望。これが圧巻でした。

平壌の真ん中から見る、平壌。
目の前にそびえるのは「主体思想塔」。向かって左側に見える国旗を冠した建物は、閲兵式なんかでよく見る「金日成広場」だそうです。

右側

左側

住宅街とその周辺の人々。

奥に見えるのはテレビ塔だったかと。

映像を撮りに来たものとしてはこういう画も欲しいわけで、非常にありがたかったです。
一目で平壌と分かりますよね。
曇っていたのは残念でしたが。

気になってしょうがなかったのですが、ところでこの噴水は大丈夫なんでしょうか。

けっこう近くをボートがスイ~と渡っていたのですが、めちゃくちゃに高く噴水が上がっていたので、帰ってくる水でびしゃびしゃになったり、また誤って触れたりしたらボーンと吹っ飛ばされたりしないのでしょうか。
終始、ヒヤヒヤして見ておりました。
だって建物よりぜんぜん高く上がっているわけですよ。

この展望台近くには土産物屋もあり、小さな写真集や国旗Tシャツなど買いました。
しかし冷静に考えて国旗Tシャツ、国内ではちょっと着れないな・・・・けっこうかっこいいんですけどね。

缶ジュースや缶コーヒーなんかも売っていたので、ここでみんなで一休み。一服しました。
先ほども書きましたが、とにかく疲れたので。



その後間髪入れず「万寿台の丘」へ。
あの有名な金日成・金正日両主席の銅像がドーンとあります。

奥の建物は「朝鮮革命博物館」。

印象的だったのは軍人さんはもちろん、そこらに住んでいるような普通の親子まで、花を捧げ、直立して黙祷(?)しておりました。

なんかブラッと来てカメラ構えてる俺なんかは不謹慎な奴に見られるのかもな、と思ってしまいました。


こうして日本では感じることの出来ない彼らの愛国心を、誰も馬鹿にはできないよな、と。感じた次第でございます。

大学習堂のガイドさんが見せてくれた、腕に自ら彫ったという刺青。

南北統一を願い、朝鮮半島が描かれています。
「統一は絶対」とのこと。




続く

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【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・3 よど号グループ帰国問題談話・平壌観光】
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北朝鮮 よど号グループ取材記・3 よど号グループ帰国問題談話・平壌観光

2012-09-30 18:23:55 | 映画制作
訪朝2日目。

前回までレポート形式でやってましたが、ちょっと堅苦しい上に自分がそういう文章に慣れていないので本来の書き方に戻ります。
つうのも、前回分までは夜にいそいそと「本日のデキゴト」的な記録を書いてたのですが、以後毎日夜は飲んだくれて書く暇が無かったので、思い出しながら書いていきます。

なにしに行ったんでしょうね俺は・・・・


朝、ホテルの食堂で飯を食います。
高級ホテルなので朝鮮風、洋風、と色々メニューがありました。

わたしは朝あんまり食べれないのでそう嬉しくはなかったのですが、味の方はなかなかうまかったです。こっちのロールパンって独特の甘みがあるんですよね。特にそれがすごく美味しかった。

その後よど号グループの方々が迎えに来てくれ、車で事務所へ。
この車移動も、ただ移動するだけなのですが外の景色が物珍しく、終始楽しいものでした。わたしはよく赤木さん運転の車に乗ったのですが、ガイドのように色々と教えてくれ、街並みや平壌の人々、風俗(エロイ方でなく)についてお話してくれました。

15分ほどで事務所着。
事務所では毎朝、コーヒーをふるまってくれました。これがまたうれしい。


この日は一日、平壌を観光する予定なのですが、その前に午前のひと時を『帰国問題談話』とし、主に小西さんの主張を軸に、帰国問題をどうするか、また、それへの見解を話し合いました。
彼らにしてみれば、既に何度も話し合われていることなのですが、今回はここに元・連合赤軍兵士 植垣康博さんが参加しています。
写真奥から植垣さん、赤木さん、安部(魚本)さん


よど号グループの帰国に関する主張は一貫していて、主にはいわゆる『八尾証言』の偽証を暴くということ。
これまた大雑把に言えば、「よど号グループが日本人妻と共にヨーロッパで日本人3名を拉致した」という嘘と闘う、てことです。

まず、公然とされていることも含め、小西さんはよど号グループの歴史を語ってくれました。

「朝鮮(北朝鮮)に渡った目的は国際根拠地を作るため。軍事訓練を受けたのち、秋には帰って武装蜂起するつもりだった。当時は朝鮮をオルグして帰国するつもりだった」
そこで植垣さんが一言「よう言うわ(笑)」
こういった合いの手もありつつ、基本的には自由な発言の中に、よど号側の主張を聴く、というものでした。

「人民(日本国民)を信じていなかった。だから我々が、自分が、となってしまった。人民を愛し、信じなければならない」

「自分達の想いを人民に伝えたい。そのためには合法的に、公然と帰らねばならない。だからこそ日本政府と合意帰国をしなけらばならない。一方で手を上げて帰ることは出来ない。それをやったら終わり。日本の運動にも悪影響を与え、自分達も駄目になる」

「僕らがここにいるのは、日本にとってもよくない」

「吉田(吉田金太郎・85年病死)に我々の帰国のために(前段階として)非合法で帰国させた。彼にはしんどい思いをさせてしまった」

「柴田(柴田泰弘)、田中(田中義三)(共に故人)も逮捕される中で、次に我々に『拉致』攻撃のキャンペーンがはられた。この中で出てきたのが『八尾証言』。これに基き小泉が訪朝し、朝鮮側は日本人拉致を認めた。そこで安部に逮捕状が出された」

「アメリカは朝鮮へのテロ指定国家の根拠を我々においていた(96年2月23日 朝日新聞紙に米国務省幹部発言:「朝鮮に対するテロ支援国家リストからの削除」条件に「よど号犯に対する適切な措置」要求、と報道)。よど号グループを国外追放すれば、テロ指定国家を解除、経済制裁を解く、とした」

「これらキャンペーンと闘うために、八尾証言の偽証をあきらかにしていかなければならない」

「これは、40年前の我々の闘いの延長。亡くなった5人の同志たちの意志もふまえてやっていきたい。それは赤軍全体の闘いの意志を担っていく闘いでもある」


これに対し植垣さんからは「『人民を愛し信じる』って具体的にどういうこと?もう少し具体性が欲しい」といった意見も出ました。

話を聴く若林さん


談話とはいえ、時間もそんなになかったので、主に我々は聴く事に重点を置く内容となりました。
これら談話や種々総括に関しては、訪朝期間後半に多くの時間を設けているためさわりだけとし、午後からは普通に平壌観光に向かいました。
普通と違うってったら、よど号のみなさんが案内してくれるってとこでしょうか。



まず向かったのは有名な「万景台」。
万景台は金日成氏が生誕した地、とされている場所です。ガイドパンフには「敬愛する金日成同志が誕生され幼年時代を過された由緒深い所です」とあります。
そこにある資料館「万景台革命事績館」へ。内容は金日成氏の少年時代を中心に、いかに優秀な少年であったか、そして父母や祖父母の話も交え、いわゆる抗日戦線へどのように関わっていくかが各種資料と共に公開されています。


入り口。
ガイドのおばさんに金日成氏の絵に「礼をしましょう」とうながされ、一礼。
植垣さん「え?え? あ、お邪魔します」と。
お邪魔します・・・実に植垣さんらしいご挨拶。

ガイドさんは常に「金日成主席」の前に「偉大なる」をつけていました。

「偉大なる金日成主席は少年時代、いつも軍事ごっこをして遊んでおられました。その時は常に大将役となり、軍事ごっこを導いておられました。
大人たちはその様子を見て、この子は必ず民族の大将になれる、と口をそろえて言いました」


「日本軍に捕まり、拷問された父の姿を見て、悪魔のような日本の存在を、身をもって知ることができました」


捉え方はさておきうーん・・・・色々な意味で勉強になる。
北朝鮮では、日本人ってこういう過去を持った人間なんだ、てことです。現実として。


次に「金日成 生家」へ。
当時のままの、農機具などが展示されていましたが、この日は雨で(というか我々が訪朝した期間、ちょうど北朝鮮は梅雨でした)ほとんどビニールで覆われていました。残念。

万景台の中を移動中、井戸を案内してくれました。これは何だったか、金日成氏が子供の頃汲んで飲んだ水だったか。革命の水という名前がついていたような。
ガイドさんは「日本人のお腹にはあわなくて、下す方も多いみたいですので・・・」と言ってましたが、わたしと植垣さんはほとんど聞かずに「うまい!!!」とか言ってがぶがぶ飲んでました。



続いて「万景峰 展望台」。
ここからは平壌が一望できます。

ただ綺麗に見せるだけではない、本来の平壌という感じです。
赤木さんが運転中の話で教えてくれたのですが、「平壌は城塞都市。日本は下町とかあるでしょ。こっちは城塞都市として、全てが中に入っている」と。

成程、住宅や工場、様々の施設が渾然となっています。遠くに見える煙突は火力発電所とのことです。

ちなみに電気と言えば平壌は停電が多いとよく聞きますが、今回の訪朝では一度もありませんでした。あるレストランでショーのためにガンガンに電気使ってたら、そのお店のヒューズが飛んでしまった、てことはありました。

反対側を見ると、大洞江からの平壌。




昼飯は冷麺で有名な「玉流館」へ。

ものすごく並んでました。
平壌の方々はここの冷麺を食うために相当時間をかけるのだろうな・・・

店内の様子

店内でポーズを決める植垣さんの様子


こちらはしかし「外国人特権」で、少しの待ち時間でありつけました。

ものスゲーうまかったです。
多分今まで食った冷麺の中で一番うまかったかと。

よど号の方々も42年前、ハイジャックでこの北朝鮮に渡った折、その1年後くらいにやっと食わせてもらったとのこと。
皆感激し「なんでこんなうまいものをもっと早く食わせてくれなかったんだ!」と言ったそうです。




続く

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【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面】
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北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面

2012-09-12 00:29:30 | 映画制作
13時発の便で平壌へ。機内はまるで昭和の飛行機。狭く、古めかしいつくり。
子供の頃乗った飛行機を思い出した。
クーラーなのか何なのか、上部からもくもくと涼しげなけむりが出ていた。


離陸すると北京周辺の様子が上空からよく見えた。


機内食がかなりおいしかった。あんのかかったご飯、甘みのあるロールパン、鮭のソテーあんかけ、フライドチキン、フルーツポンチ。



着陸前。
上空から平壌近郊を見る。見渡す限りの山と緑。

着陸時は「ここが空港なんだ…」と思うほど緑の中にあった。すぐそこに家もある。
濁った川で作業していた労働者が、ニコニコと手を振ってきたりして驚いた。

2時間弱で平壌国際空港に到着。

機から空港建屋の短い距離を歩いた。スタッフのお姉さんが美人だった。後に何度も見て分かることだけど、基本的にこちらの女性はスタイルがいい。服もくびれを強調するようなものが多く売られていた。

空港施設内はとても狭かったが、金日成氏、金正日氏の写真はしっかりと飾ってあった。イミグレーションでは荷物を調べられ、カメラもチェックされる。

一眼レフに関しては「GPSは入っているか?」と聞かれた。「ノーノー」と言ったが、入っていたら預かりをくらったのだろうか。
撮影に来たのに、カメラを持っていかれたらシャレにならない・・・
ここで全員、携帯を預ける。携帯を預けるってけっこう不安だ。帰るときに返してもらうとのこと。
余談だが、北朝鮮国内にはエジプトの携帯電話会社が入っている。そのためホテルでよくエジプト人を見かけた。


出ると、すぐ小西隆裕さん、若林盛亮さんのお出迎えが。
植垣さんとの初対面をカメラにおさめる。
この時印象的だったのは、若林さんが植垣さんに握手した時、そっとかけた言葉。

「苦労をかけましたね」


よど号と連合赤軍は決して無関係ではない。よど号事件の後、赤軍がより先鋭化し、革命左派と共に山に入る過程に深く影響を及ぼしている。
国際根拠地建設のため北朝鮮へと渡ったよど号グループのハイジャック作戦自体は成功したが、それにより国内に残る赤軍派への警察によるしめつけは、いっそう強化されていく結果を生んだ。
この40年を経た出会いは、横っちょでカメラを回すわたしなんかには想像もつかない、年月と想いが積み重なった邂逅なんだろうと思う。

わたしもすぐに自己紹介。握手すると小西さんはギュッと力強く返してくれた。



赤木志郎さん運転の車で宿泊地のポトンガンホテルへ。
車から見る平壌の町並みは、いかにも「共産主義圏」という感じで、看板がほぼない。電線も無い。
たまに見る看板は、スローガンや金総書記親子のものだった。
人々は農村地帯ではゆったりとした雰囲気。たまに、羊だかヤギだかを見た。
市街地に入ると巨大な建物が多い。一般にわれわれの想像する平壌。記念館やどでかい運動場に学習施設・・・・
人々の服は普通のつつましいもの。


ホテルに到着後、荷物を解いて再集合。部屋は最高級クラスなだけあり、とても良かった。しかしなんでベッドが二つもあるんだろう。

ちなみに帰国後知ったが、ここは統一教会が経営するホテルらしい。


ロビーで人が揃うのを待つ間、ガイドのKさんが話しかけてきた。「若いね」「いえ、若くないです。誕生日を一昨日迎えまして、34になりました」「若いよ、まだこれからじゃない。大丈夫、万事うまくいく」
どういう意味か分からずあせったが、人生のことだろうか。

ロビーで談笑する小西さん、植垣さん


再び赤木さん運転の車でよど号グループの事務所へ。
ここでいわゆる「よど号妻」のお二人と、そして安部(魚本)公博さんが迎えてくれた。
応接室でコーヒーを出していただき、われわれ訪朝団とよど号メンバーとで少しお話をする。



小西隆裕さん


若林盛亮さん


赤木志郎さん


安部公博さん


その後すぐに宴会。
豪華な朝鮮料理がドンドン出てきた。刺身もあった。
肉あり、魚あり、粥も出た。酒は焼酎とビールが中心。北朝鮮のビールはスッキリしててうまい。大同江(テドンガン)ビールというらしい。滞在中何度も飲んだ。


皆さんとお話し、だんだんと緊張がとけてきた。
「よど号妻」のお二人は、喋るとホッとするような、これまた普通の「優しい日本のおばちゃん」。

お前洗脳されてんなよ・・・と思われるかもしれないけど、わたしが北朝鮮の滞在においてそれほど緊張しなかったのは、よど号メンバーと妻の方々が本当に普通のオッサンとおばちゃんだったから。

植垣さんは話も酒もガンガンいき、いい具合に酔っぱらっていた。途中、カクテルを作ってふるまうという場面も。
さすがスナックバロンのマスター。

小西さんが感心し「ホウ、そうやって作るんかぁ。お前らっ ちゃんと見とけよ!」と。


2時間ほどで解散し、ホテルへ戻る。
ライターがどこかに売っていないかと言ったら、ガイドのKさんが一緒に探しに行こうとホテル内をついてきてくれた。あてにしていた店は閉まっており、諦めかけたところ「一度こうと決めたらやりぬかなきゃ!」とライターへの情熱をたぎらせ、ホテル内のバーへ突入。
「ここならあるかも。一杯飲んでいこうか」と二人で飲むことに。
思惑通りお店のネーム入りライターがもらえた。しかしこの店は高いらしく「飲むのはやめておきましょう」とのこと。ありゃ。
Kさんはママさんに何事か言い、「飲まないけど少し話そうか」という流れに。
するとママさんは気を使って無料で紅茶を出してくれた。

話の内容はお互いの国のこと、お互いの国の人々が価値観を分かり合えたらいい、という事など。
さらに身辺のことも聞いてきた。ここらへんは本で読んだ「了解活動」に似ていて「あ、これはw」と思うことも。

北朝鮮のことも立てて話すと「あなた、若造と思っていたがすごい。東大か早稲田でも卒業しているんじゃないのか」・・・・
すいません、高卒です。
ちなみにそんな難しい話はしてないし、自分にはできないので、「立て」返してくれたんだろう。
「東大早稲田」には正直笑ってしまったけど。


Kさんとの話は面白かった。価値観の違う相手なのでなおさら。
この滞在を通して北朝鮮、正しくは「朝鮮民主主義人民共和国」の人民と話せる機会は限られていた。
わたしは滞在中何度かKさんの話を通して、彼らが持つ独自の愛国心を知った。それは「労働党員」だからではなく、レストランのウェイトレスの態度からも見て取ることができた。

ちなみにレストランは予定されていたものもあれば、そうでないものもあった。
なぜそれが分かったかというと、あるレストランでピアノ演奏をするお姉さんが、われわれが日本人だと気付くと総連関係の曲を演奏し出したから。
よど号グループの方が「あ、勘違いしてる」と笑っていた。


そこらへんのことはまた続きで。




続く

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【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
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北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京

2012-08-19 12:34:23 | 映画制作
北朝鮮から帰って、はや一ヶ月が経ちました。
この間、素材の整理・編集や、よど号支援組織「かりの会」機関紙「かりはゆく」への原稿書きなどをしておりました。

そうしているうちに、だんだんと体験したことを客観的に見ることも出来るようになってきました。
映画『かぞくのくに』を観たり、横田滋さんの写真展へ行ったり。

「国交が無いお隣の国」という、近くて遠い国をどう考えるか、今まで使ったことない脳味噌を使ったりしてちょっとものの見方が広がった!
ならいいんですが、こんがらがって実は今に至ってもよく分からないでいます。


ただ、率直に言って平壌の滞在は非常に楽しく、また“全体的に”フランクで自由なものでした。
恐らく一般的な日本人と同じく、訪朝前のわたしが抱いていた北朝鮮に対するイメージは「拉致をする怖い国」・・・というものだったのですが、今は違って見えます。
ちょっとこういう意見も言いにくいところが、「国交がない」ということの悲劇なのかなーとも。

それはよど号メンバーも同じで、どんなお堅く、話の通じないような人達だろう・・・と思っていましたところ、拍子抜けするほど普通のオッサン達でした。
ほぼ毎晩、一緒に酒を飲み、歌って踊って。なんつうか、愉快な方々でした。


では以下、当日付けていた取材記を元に。
北朝鮮へは北京を経由して行くので、北京での1日から。




ギリギリまで荷物を纏めて朝6時過ぎの電車で羽田へ。
あまり眠れなかった。

搭乗手続き済ませ、集合場所のカフェで朝飯。
なぜだか急に、日本にいながらにして日本食が恋しくなり、卵かけご飯定食を食う。

今回のメンバーはわたしの他、救援連絡センター局長・山中さん、元 連合赤軍兵士・植垣さん、椎野企画・椎野さん、Sさんの計5名。


搭乗。約4時間で北京空港へ。機内ではチーズチキンカツ出たがほぼ食べられず。胃の調子が悪い。
映画観たり、田宮高麿さんの本を読んだりして時間をつぶす。


12時50分頃北京空港到着。気候は晴れ。日本と同じく蒸し暑い。時差は1時間。

車から見る北京の景色は、上海に比べると劣るかもしれないが十分都会。なんかでも、中国ってへんな形のビルとか好きだね。





○○北京支局の方がこちらでいろいろとタクシーなど手配してくれた。ホテルに到着し荷物をといた後、朝鮮大使館へ。ビザ、無事取得。
北朝鮮のビザはパスポート大のカードで、実際のパスポートにはスタンプ等何も残らない。


夜までは自由時間のため、ホテルに戻った後、椎野さん、Sさんの3人で天安門広場へ。
バスで向かう車中、添乗員のオバサンが椎野さんに「あなた、こっちの席に座って、座ってるあなたは譲りなさい」と。若者も素直に応じていた。すごい親切。

天安門は有名な毛沢東の肖像があるあの門をくぐった。あとはあまり面白くもなく。奥に行っても門的なものが続いてるだけで。ただ、「天安門広場に来た」というだけでとりあえずの達成感。


門の中では、みんなが食っていたアイスキャンデーを買って食う。1元。ものすごく硬い。
暑い事もあり、他にもジュースの屋台などが出ていた。




帰りは地下鉄を使う。ものすごく混みあっていた。東京以上かもしれない。

地下鉄の通路にあった謎の自販機。なんだろうこれ。



夜、某ホテルにて火鍋をごちそうになる。
以前、上海で食べたものとは違うタイプだった。うまい。ビールがすすむ。

このホテルではエントランスで3人の女性がずっと楽器をひいており、それもまた素晴らしかった。




宿泊するホテルに戻り、借りていたよど号グループの陳述書を読む。
iPhoneでブログ更新。
ホテルにネット回線が繋いであるが、すごく遅い。そして、ツイッターは繋がらず。
iPhoneからはなぜか繋がる。


いよいよ明日、北朝鮮へ向かう。
日本にいた頃よりは、なぜか大分緊張が和らいでいる。もう来るとこまで来てるし、あとは成り行きにまかせつつ、いい画を撮るのみ。





続く
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北の国からただいま。

2012-07-28 18:01:44 | 映画制作
例によってとっくに帰ってきているのですが、ひとまず報告まで。


北朝鮮から帰ってまいりました。
今回の訪朝は約5日間。目的は「よど号メンバーへの取材」でした。

もちろん北朝鮮に行くのは初めてでしたが、平壌での滞在は、驚きの連続でした。
今改めてしみじみと振り返るに「あ~ いい街だったなぁ。また行きたい」というノンキな感想なのですが・・・

まぁでもほんとに楽しかった。
楽しかったんだからしょうがない!!!


というわけでわたくし、洗脳されて戻ってまいりました。


取材が目的とはいえ、観光に半分は費やしておりまして。
そこらへんのコントロールはこちらでは効かなかったのでしょうがないのです。
だいたい「平壌観光」といわれるコースで行く場所は殆ど訪れたと思います。



それではざっと、向こうで何をしてきたかを箇条書き。

・平壌観光
・よど号グループとの連合赤軍総括(今回、元・連合赤軍兵士 植垣康博さんが初訪朝)
・絶叫マシーン乗った
・サーカス観覧
・犬食った
・中学校参観
・よど号グループの帰国問題。欧州拉致疑惑とどう闘うか
・よど号グループインタビュー



おいおい、詳細はブログにて書いていきます。

先日交番の前を通りましたら、つい先週まで一緒にいた「よど号グループ」の方々の手配写真ポスターが貼ってありました。
なんだか不思議な気分だなーと思いつつ眺めておりましたが、なるほどこうして見ると反社会的な人達と映るかもしれない。

でも向うで会った彼らは、まったく「普通のオッサン」で、いい人で・・・。
今でも複雑な思いはあれ、訪朝時「拉致をした人達に会いに行く」と警戒して行ったものの、帰国時には「いや、彼らはやってないんじゃないか・・・」と率直に思いました。

そこにはもちろん、約一週間共に過ごしたという「情」もありますが、それだけではない「理由」をインタビューで語って下さいました。
それについてはいつか完成する映画の方で。
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北朝鮮へ

2012-07-14 01:26:02 | 映画制作
こちら北京の赤目です。


というわけでただ今北京に来ております。
日本と変わらず、じめじめと非常に暑いです。

今日は天安門広場をみてきました。
なかなか壮観でありました。

さて明日は・・・

実はこちらは経由地でありまして、明日からは北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国へ向かいます。
一週間弱、取材のため滞在してまいります。

平壌は非常に素晴らしいところと伝え聞いております。
自分の目で見、いろいろ体感してこようと思います。

もちろん、北朝鮮ではあの方々に会ってきます。



滞在中はネット環境にはおれませんので、ツイッターもストップします。

それでは、行ってきます。
コメント (2)
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「シンポジウム 浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」に参加して

2012-07-12 19:00:23 | 映画制作
もうかれこれ2ヶ月経っておりますが、今更ながら書かせていただきます。
というか、前回の3月に行われた追悼会と同じく、救援連絡センターの機関紙『救援』に書かせていただいたものを転載いたします。


追悼会があくまで純粋に事件後40年からの「追悼」を目的としたものに対し、このシンポジウムでは事件後40年を経た当事者の今、そして事件をどう考えるかを改めて様々な世代、層と語る場にすることが目的でした。
その「当事者」は以下4名の方々。


元・革命左派 雪野建作さん

元・革命左派 前澤虎義さん

元・赤軍派 植垣康博さん

元・赤軍派 青砥幹夫さん



わたしは今回も運営から携わらせていただき、「第1部 映像でふりかえる」の映像制作と当日の記録係を兼任しました。




では、以下『救援』の原稿より転載します。



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『歴史としての再定義を』



5月13日「シンポジウム─浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」が行われました。

前回の「連合赤軍殉難者追悼の会」に引き続き運営の側から携わらせていただき、第1部の「映像でふりかえる」を制作しました。
以後はシンポジウム形式で約4時間、第4部まで多彩な世代、立場の方々が当事者4人と意見を交わしました。

ゲストパネラーの方々が様々な立場であるがゆえ、観覧者の方々も様々な世代、層が集まりました。

今までどうしてもこういった内容から、内にこもった参加者で、内にこもった議論をえんえんと展開しがちでしたが、今回はそこから大きく脱却していたのではないかと思います。

東京新聞の田原牧さんは事件の映画化、漫画化等からくる現象を指し「連赤事件に市民権を与えるような雰囲気を感じており、非常に嫌な気分。事件が市民社会に回収されるのは危うい」と問題提議。

作家の雨宮処凛さんは「2012年“今”の生きづらさと連赤事件は繋がっている。私が育った80年代~90年代は社会への回路が切断されていた。それを辿っていくと連赤事件に突き当たる。社会と切断されると“怒り”が自分や内(自殺や家庭内暴力 等)に向かう」と持論を展開していました。


こうした意見にその場で当事者4名が応えていく。その様子に40年という時間と、当事者それぞれの積み重ねを見た気がしました。

そろそろこの事件を“歴史”としていかなくてはならない。
そのために当事者や周辺にいた方々が語っていくことが、40年という歳月を経た今だからこそ、必要とされているのではないかと思います。

私自身当事者への取材を重ねている身ではありますが、やはりどんどん語っていくべきだと思っています。彼らは社会、あえて大きく言ってしまえば“世界”に向けて運動・闘争を展開しました。そうであればこそ、あの体験を社会に向けて語っていって欲しい、と願っています。

ゲストパネラーの映画監督 森達也さんに聞きました。「彼らは表に出て語り続けるべきでしょうか」
森監督はしばらく考えた後「それは僕が決めることじゃない。語って欲しいとは思うけど、語りたくないという気持ち、筋の通し方も分かる」と。

また、こうした公の場に初めて参加した元・赤軍派の青砥幹夫さんに、なぜ参加する気になったのか、その心境を伺ったところ「そろそろ息子に父親がどういう人生を送ってきたのかを知らせるために(考えを)纏めていかなければいけない」とカメラの前で答えて下さいました。

具体的な「理由」を目の前にすると、たじろがざるを得ないものがあります。そうした時、改めて一人一人の当事者を“歴史”としてひとくくりにしてはいけない、とも思います。

しかし歴史は想いとは別に、時間が作り上げる側面もあると思います。現状、あまりにもネガティブな側面しかもたらせていないこの事件、引いては「赤軍という現象」をどう捕らえ直すか。

それは今ではない、未来に繋がる歴史への再定義に、必ず繋がると確信しています。


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以上。

コメント (2)
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