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アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

「マルダヌキ物語」誕生の背景

2006-01-14 19:23:20 | マルダヌキ物語
昔はいっぺえヒヨドリがいたもんだ。今はどこに行ったんだべ・・・
山に入ってると鷹が一直線に舞い降りてな、行ってみっと雉を捕えてた・・・
針金でこう輪をこさえてよ、それを木の間に仕掛けっとウサギがかかる。あいつらは決まって同じ道しか通らねえ・・・
年寄りたちからよくそんな話を聞かされる。冬山の動物たち、凍てついた大地で雛を育てる鳥たち、そして山里で彼らとともに暮らす人間たちのドラマの数々。
でもそれらはもう懐かしい思い出と化して、もはやこの刹那語り繋ぐだけの物語となっている。どれもこれも今となってはすべて遠い昔の話になってしまっているのである。

かつて界隈でも名の通った炭の産地だったこの里でももう炭を焼く人はいない。山菜の季節でもなければわざわざ山に入る人もなくなった。そもそも炭自体を使う人がいないし山の木を集めて炊事や冬場の暖房に使う家ももうほとんど無くなってしまった。
だからもう里人の暮らしのために山の木は伐られない。
かつてこののみならず川沿いの町を含めて数多くの住宅の生活必需品であった燃料はとうに輸入品の灯油やプロパンガスに切り替えられている。
では山はどうかというと、雑木が金にならないこれからは建築材だというので一頃せっせと植林された杉や松の広大な林地だけがどの山でも主流を占めている。
だから年寄りたちが話す時代の山と、現在の山は大きく異なっている。まず雑木林が無くなったし、道路付けのよい所はほとんど杉か松の単成林になっている。それも枝打ちも間伐も行き届かず放置されたような状態で。
その結果山にはかつてほどの動物も鳥もいなくなってしまったようだ。

昔から山はここにあり、人も動物も山とともに生きてきた。
それは里の人々も同じである。
朝晩の煮炊き、作物が途切れる冬から春にかけて山の恵みは人々の暮らしに無くてはならないものだった。
だから山はムラの庭のようなものだったろうと思う。一年を通して山には人が入り木を伐る、草を摘むなどの暮らしの営みを続けてきた。
それでも年寄りたちが若かった頃の伐採、斧や鋸で伐れる木の量などは可愛いものだったろう。それがチェンソーが使われ重機が使われるようになってから局面はドラスティックに変化する、人が一度に伐採する規模は半端じゃなくなったし、広範な流通体制が更にそれに更に拍車をかけた。
一方先にも述べたようにここ半世紀に植林された杉や松林は手付かずでほとんど荒れ放題である。言うまでも無く海外からの輸入木材に価格面で対抗できないからだ。だからこの山でも伐採はもっぱら数少ない雑木山に集中する。それも炭材に使うとか椎茸のホダギにに使うとかではなくて、単に粉砕して一杷一からげのパルプにするためにである。

            ☆        ★        ☆

昔老いた母親とふたりっきりで暮らしている男がいた。彼の歳は既に還暦を過ぎて未だ独身である。里の人の話では頭が少し足りないのだそうだ。そしてその母親は今では完全に呆けてしまっている。
彼がある日突然私に言った。母親が苦しがってるから病院に連れてって欲しい。彼は車も持っていなければ運転もできなかった。私は事の重大さにとるものもとりあえず駆けつけた。
まずは彼の家の前の除雪から始める。屋根から落ちた雪が玄関先に積もってどうにもならないのである。それから当の動けない老母を抱き上げて車に乗せる。病院に着いてからは看護婦との連絡搬送の手配、再び抱き上げての患者の移送、すべて私がひとりで行った。なぜか当の息子はただ傍らに立って眺めているだけだった。
あいにくとその晩私は忙しかった。老母の検査の結果も確認できず、さる会合に出席すべく病院からそのままトンボ帰りにに戻ってきたのであった。
それから一週間ばかり経っても、気に掛かっていた彼女の容態については何の連絡も入って来ない。急患だった母はあれからどうしたのだろうか。彼からはあれ以降何の音沙汰も無かった。

そんなことがあって暫くして、とあるムラ人が私に囁いた。
あの彼ねえ、ほんとは頭いいんだよ。
あんたに言えばただで病院に行けると笑いながら言ってるの聞いたよ。実は彼の本家も隣近所も、もう彼の面倒は見切れないのさ。ああやっては何かと言って人をこき使う。そして自分は脇で何もしないでただ見ている。
彼の両親は立派な人だったんだけどねえ。でも彼はあんなだったんで、小さい時からたんだ甘やかして可愛がって育ててきてしまったんだ。
昔からああだったよ。いくらやってやっても、何の甲斐も無い人だ、あの人は・・・

つまり彼は知能は少し遅れているけれど、人並み程度の狡さは持っているということだった。
そういえば事の始終に彼の口から私に対して感謝の言葉が漏れたことは一度も無い。彼はただてんてこ舞いして立ち働く私を遠巻きに見ながら立っているだけだった。

            ☆        ★        ☆

人は果たして賢いのだろうか。
雑木山が無くなり鳥や動物たちがどんどんいなくなっていくのを誰も気づかないでいたわけがない。
そんなことはみんな知っていたのだ。山の木を伐ればどうなるか。雑木林が無くなればどういう変化が山に起きてくるか、長い間山裾に暮らす人が知らないはずはなかった。
けれどその変化が現金収入に繋がるのだったら、それでもいいと思った。それから先はそれなりにどうにかなるとも思った。

賢いということはどういうことなのだろう。
お金をたくさん獲得した人が果たして賢いのだろうか。
自己顕示欲を満たすに足る目立つ事業をした人が賢いのだろうか。
他を攻撃し勝ちを収めるに足る術を身に付けた人が本当に賢いと言えるのだろうか。
私にはそれらがなんだか先の老母を抱えた彼の行動と五十歩百歩のような気がする。どちらも同じ発想の世界、基本的に同じスタンスに立って生きているに変わりはないのではないだろうか。
真に自戒を込めて、そう思う。
本当の賢さとは何なのだろう。
人間は山に暮らす動物たちよりも、本当に賢いのだろうか。
食べた知恵の実は腸壁を通して消化吸収されたのであろうか。もしそうならばでは具体的に何がその賢さの証左として挙げられよう。有史以来人は他のいかなる動物たちより遥かに広範に徹底的に自らの存立基盤を壊して来たに過ぎない。それに対して異議を唱える人がいるだろうか。
知恵の実を口にしたというその行為は、単に知恵を身に付ける「可能性」を手に入れたに過ぎなかったのではなかろうか。私たちはまだ本当の意味で知恵深くはないのである。

            ☆        ★        ☆

北上山系の山裾の我が家には四季を通して動物たちが現れる。
夏にトウモロコシを食べに来るタヌキ、秋が深まると下りてくるカモシカ、
積もった雪が無いかのように一直線に駆けるキツネ、雪原の朝に決まって足跡を残していくウサギ。
どれもこれも毎年同じ頃同じ時期に姿を現しては裏庭や道路端にその存在の証を残していく。それはもうこの地で暮らす私にとっては当たり前のものになってしまった。彼らはひとつ屋根に住まないにしても、もう私の家族も同じようなものたちなのだ。

山並みでは毎年のように雑木山が伐採されている。それもかなりの規模を僅かな日数で。あそこに住んでいた動物たちはいったいどうするのだろう。ただでさえ限られた居住環境に細々と生を繋いできた彼ら、今生きているその場所さえも追われたならば、後はいったいどこへ行ったらいいのか。
それでも来る年毎に庭に現れる彼らを思い遣りながら私は考える。
彼らはこの冬の間何をしてるのか。
何を食べてこの日を生きているのか。
どうしてこの道を通り、我が家の庭先を通って里に降りてくるのだろうか・・・

そんなことを思いながら雪解けの水の流れのように緩慢にけれど着実に、私の胸の中でこの物語は育っていった。
かつての山が5分の一に、10分の一に削られても私のマルダヌキは生きていく。生きていかざるを得ない。仮にその行く手で人間に追われ殺されるかもしれなくても、彼女はその日その時まで精一杯生きる。この山の動物たちと同じように。

そんな生のひとコマを私なりに。そして少しだけ人間の視点を離れて描いてみたのが、この物語です。
「マルダヌキ物語」。これは薪を切り炭を焼いて暮らす、私の暮らしのひとつ自己表現なのです。







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2 コメント

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OH NO!(笑 (cacho)
2006-01-16 09:33:56
>そんなことはみんな知っていたのだ。



この一文、深く心に突き刺さりました。

そんな自分も、山がどう変わったのか、今何が起きているのか、知らずに生きている一人です。



マルダヌキの生きてゆくカタチには、いつもくすりと笑わせてもらってます。

現実には、どうか彼女のユーモアが「せめてもの救い」で終わりませんように。

第二部のこれからも楽しみにしています♪
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どんなに貧しくても・・・ (agrico)
2006-01-16 17:06:21
楽しく幸せに生きれるものですよね。マルダヌキも猫家の面々もそんな風に日々生きてます。

その意味では私の理想も反映されてると言えるでしょうね。猫たちを見ながら「どうしてこんなに幸せそうなんだ?」と思ってしまいます。持ってるものは私たちの方がずっと多いのですけどね。それは他の動物たちにも同じことが言える。私たちはわざわざ「不幸せ」になっているに過ぎないのではないかと・・・



今までの前半は少なからず飛ばして描いてしまった感があるので、これからの後半はひとつじっくり行こうと思うのですよ。だから少し時間がかかるかもしれません。それとともに私のBLOGも「じっくり型」に転向です。数打つよりもひとつひとつの記事を大切に書いてみたいと思ってます。

年が明けて私の心境も少し変わって来ました。



変わることが悪いことではないのですけれど、ただ何をすればどう変わるのか、知った上で生きたいと思うだけなのですよ。
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