goo blog サービス終了のお知らせ 

アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

トーマス・パー

2010-03-01 19:24:28 | 思い
 今日は君に、今から400年前、長生きしたことによって一躍イギリスで国民的ヒーローとなり、またそれゆえに不遇にも寿命を縮めてしまった、とある男の話をしようか。
 彼の名はトーマス・パー。15世紀から17世紀にかけて生きた実在の人(1483~1635)と言われている。当時イングランドはアルマダ海戦で最強国スペインを下し、同じく海外進出新興国であったオランダと世界の覇権を賭けて争っているさ中だった。その状況を日本に例えれば、日清日露・第一次大戦に大勝した大日本帝国、または戦後の高度成長時代のど真ん中と捉えてもいいかと思う。新大陸からは砂糖・綿・コーヒー・タバコが運び込まれ、他方アジアからは香辛料や紅茶が流入する。それらはすべて当代の貴重品であり、しかも軍事力と奴隷売買による「搾取」の賜物だった。それらを背景にイングランドは世界で一等豊かで文明的な国へと変身を遂げていったのだった。
 
 さて、トーマス・パーはそんな時代、イングランドのとある片田舎、ウィニングトン村に生まれた。彼の家は貧しい小作農家で、彼自身若い時は奉公に出たり軍隊に入ったり、その後は父の後を継いで小作をしたり、頑固なのか変わってるのかずうっと独身を通し、なんと齢80にして初めて結婚したという。そして二児をもうけるもどちらも幼くして他界。なんとまあ不運!・・・と普通は思うところだが、しかし当のパー爺さん、ちっともそうじゃないみたいなんだな。その後105歳のときに、当地において美女の誉れ高かったキャサリン・ミルトンという女性と姦通し不義の子をもうける。それが原因でアルバーバリー教会の公衆の面前で白衣をまとい懺悔させられている。
 後にチャールズ1世がパー爺さんに対して、他者に較べ特筆する何かを成したことがあるかと尋ねたところ、なんと彼は、女性問題に絡んで教会から課された贖罪を成したもっとも年老いた人間だと答えたというのはこの事を指している。しかし羨ましいというか相手も相手というか、そんなこと実際にできる人って、ホモ・サピエンス20万年の歴史の中でそうはいないと思うよ。
 しかし住民票も十分に整備されていなかった昔のことなのに、なぜ彼の生没年が証明できるのかというと、これが面白いことにパー爺さんが小作農だったことによるみたいなんだな。当時イングランドの小作農は決まった期間ごとに農地の貸借契約の更新をする義務があって、残されたその契約書から出生が辿れてしまうのだ。
 さて話を戻して、その後パー爺さん112歳の時に妻が他界する。爺さんではなくて年若き妻の方が早く死んだというのだからお間違えないように。その後122歳で近くのモントゴメリーシャー村の未亡人ジェーンと再婚(一説によればこれらを含めて、パー爺さんは生涯に4度の結婚をしてるという話もあるが、よくはわからない)。
 しかし130歳を過ぎても、常に年若き妻を持ちながら元気に農作業をしているパー爺さんを世間は放ってはおかなかった。噂は流れに流れて、いつしか当地を訪れたアロンデール伯爵トーマス・ハワードの耳に入った。なんの野心か下心か、彼はパー爺さんをロンドンに連れて行って時の国王チャールズ1世に会わせようと思いたったのだった。
 さっそくパー爺さんのために寝台車から道化師までが用意され、一行はウィニングトンからロンドンまで3週間の旅に出た。
 しかしこの旅はスムーズにいった訳ではない。行く先々で「時の人・パー爺さん」を一目見ようと多くの群衆が押しかけ群がり、てんやわんやの大騒動となった。それでも何とかロンドンに無事辿り着いてホッとしたと思いきや、そこには爺さんにとって何から何までガラリと変わった新生活が待ち受けていたのだった。
 名士に相応した身なり、髪も調髪、幾種類かのカツラ、そして贅を尽くした貴族の食卓。それにどこに行くにも大群衆と歓呼の声が出迎える。パー爺さんの名前は長寿と幸福の象徴として数多くの商品の宣伝に利用され、「オールド・トーマス・パー152才」と彫られた記念メダルまで発行されるしまつだった。
 パー爺さんはかねがね自らの長寿の秘訣を、「菜食主義と道徳的中庸」にあると答えている。この「菜食主義」はわかるけど、「道徳的中庸」ってのはよくわからないな。まさか道徳もほどほどにしてたまには不倫をするのもOK!なんてことじゃないだろうに。でもなんとなく、しがない小作農である爺さんは日々野菜や木の実、穀物を食べ、大きな悪事も野望も持たず質素につつましく生きてきたんじゃないかってことくらいは想像できる。おそらくそんな彼の死期を早めたのは、食事と環境の激変だったろう。その年の秋バー爺さんはチャールズ1世に拝謁した後、11月にロンドンのアロンデール候の館で華麗なる長寿の幕を閉じたのだった。郷里を出発してから僅か半年後のことだった。
 チャールズ1世は彼の死を心から悼みウェストミンスター寺院に埋葬させた。碑文にはこう書かれている。
サロップ郡のトーマス・パー、主の年1483年に生誕せり。十代の英君の御代に生きたり。則ち、エドワード4世王、エドワード5世王、リチャード3世王、ヘンリー7世王、ヘンリー8世王、エドワード6世王、メアリー女王、エリザベス女王、ジェイムズ王、而してチャールズ王なり。齢152歳。1635年11月15日、ここに葬られたり。

 日本の酒屋でも市販されているスコッチ・ウイスキーの銘柄「オールド・パー」の名前は、彼にちなんだものなんだ。ラベルの原画は、チャールズ1世が画家のルーベンスにパー爺さんの肖像画を描かせたものが基と言われている。それに彼はワインを飲む時四角の容器を愛用していたので、「オールドパーの角瓶」はそれを模したものとされている。
 しかしパー爺さんは実際、ウイスキーなんてものを常飲してたのだろうか。僕には多分、どぶろくワインなんかを飲んでたに思えるんだが。きっとこれも元はと言えば、彼の名前にあやかった「パー爺さんグッズ」の一つだったに違いない。



【写真は画家ルーベンスの描いたトーマス・パー。なんだかモーセの十戒みたいだね】



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。