アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

言葉のエネルギー・2

2004-06-20 10:00:11 | 猫家
『言葉のエネルギー・1』を読んでいない方はそちらから読まれた方が良いかもしれません。


昨日からの雨は今朝から土砂降りになって地面に降り注ぎます。このところ旱魃状態で溜池の水位が下がり、猫家の田にもこの5日間ほど水が引けないで困っていたところでした。まさしく恵みの雨です。後は全国各地で台風の被害が少なければ良いのですが。


私は高校3年の夏に家出をしました。リュックにバーナーと飯盒、米を入れ、徒歩と野宿の旅です。どこか自分が住める場所を見つけ、もう家には帰らない覚悟でした。
歩く道々、いろいろな人と出会いました。歩き疲れて初めて試みたヒッチハイク。男の一人旅に停まってくれる車はなかなか無いものですが、親切に乗せていってくれた行商人。初めての野宿。神社やお寺の軒下に寝袋を敷き、朝目覚めたら墓場の側だったこともあります。塀を乗り越えて学校のげた箱の脇で寝たこともありました。(明け方出るときに見たら、女子高でした。)

そして10日ほど経った頃でしょうか、とある秋田の田舎道を歩いている時に、小さな畑で草取りをしているお婆さんと出会いました。多分向こうから話し掛けてくれたのだと思います。私が野宿で旅をしていることなどを話すうちに、畑から大小たくさんの瓜やトマトをもいで来てくれて、「食べらっしゃい」というようなことを言ってくれました。
あの時食べた形の不揃いなトマトは、涙が出るほど美味しかったことを憶えています。
それからそのひとり暮らしのお婆さんは私に、うちに泊まるか、とも言ってくれるのです。
折しも見知らぬ人に親切にしたばかりに殺されたり盗まれたりしたお年寄りの話をニュースで見たばかりだったので、「お婆さん、物騒な世の中なんだから、そんなことしちゃ駄目だよ」と言って断りました。それがとても嬉しかった私の精一杯の誠意でした。

この出来事は私の胸に焼きついて消えません。ありがとう。お婆さん、ありがとう!と歩く道々心で繰り返すうちに、私は次第に家に帰ろう、という気になって来たのです。
家出してから3週間後に、私は真っ黒に焼け痩せ細って帰宅しました。それでも出た時に比べたら気持ちがとても晴れ晴れしくなっていました。

上京して社会人となってからも、私は折に触れいろいろな人たちに助けられてきましたし、また一方、なぜか自分でも人を助ける機会がたくさんあるのです。
駅のプラットフォームで貧血で倒れた女性は「助けて」と言うように私に手を差し伸べました。空港のエスカレーターでは私の目の前でお年寄りが転倒します。仕事柄外国人とよく接するのですが、私の周りには精神病や神経衰弱、病気などで大変な境遇に陥った人たちが常にいました。
そんな時に私はまるで自分の存在価値がそこにあるかのように、働き甲斐を感じるのです。
ある時は自分自身を犠牲にしたりもするし、またすべての場合に必ずしも相手の役に立てるとは限らないのですが、でも人のために動けた、働けたと思った時に、私の心に必ず浮かぶ言葉があります。「ありがとう」と。それは実際相手の口から言われる場合もあるし、誰からも言われない時もあるのですが、どのような時でも必ず心の中にその言葉は浮かんで来ます。

脱サラしてあちこちの田舎を点々とした末に、今の猫家に引っ越して最初の冬。折しも大雪の続く年でした。雪掻きというのはとても疲れます。自分の家の分だけでも2時間以上はかかるし、その度に下着を替えなければならないほど汗びっしょりになります。
さてやっと車を出せるようになったと思って町に出かける途中、隣りのお婆さんが地面に屈みながら雪を掻いているのが見えました。80を越え背中はエビのように丸まり、歩くのもやっとの方です。とても黙って通り過ぎることができず、当時我が家に住んでいた友人とふたりで雪掻きを手伝いました。
「申しわげねがす」お婆さんは繰り返し繰り返し、いつまでも言い続けます。日本の年とった方はまずはっきりと「ありがとう」とは言わないのですが、他の表現でありがたい気持ちを表してくれます。
そんな時は疲れなど吹っ飛んで、却って嬉しい気持ちになるのです。

「ありがとう」この思いが今までの私を支えてくれたように思います。苦しい時には必ず誰かか、何かが助けてくれました。だから私も同じような状況にある人に対して無視して通り過ぎることができなかったりします。私の苦しかった経験というのは、ある意味ではこのためにあったのかもしれません。

思えば今の暮らしではこの言葉を言う時がとても多いのです。猫にも「一緒にいてくれてありがとう」、鶏にも「無事に育ってくれてありがとう」、野原で摘む一本一本のワラビにも、心の中でありがとうと呟いていたり・・・。
私にも鬼のようだった時代がありましたし、今でも修羅の心を併せ持っています。でも、それでいいのだと思うのです。だからこうしてたくさんの人と巡り会い、深く心を通わせることができるのですから。


折に触れ心に浮かぶ「ありがとう」の言葉が、今でも徐々に徐々に時間をかけて、頑なな私の心を溶かしていってくれています。
今では心臓を患い、脳の一部が壊死している父をたまに思い出す時も、ありがとう、と。



【写真は以前の同居人が植えていってくれた(私には名前がわからない)花。この春もきれいに咲いてくれました。下は雪に埋もれた猫家。】




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(スペシャル・ありがとう)「アンの日記帳」詩『ひかり』
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4 コメント

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どうもありがとうございます。 (アン)
2004-06-20 23:48:26
agricoさん、こんばんは。トラックバックどうもありがとうございました。

『言葉のエネルギー・1』『言葉のエネルギー・2』を読み、agricoさんが幼少時代を過ごした家庭環境、家出から学んだ感謝の気持ちなど、agricoさんがどのようなお考えを持った方かというのがよく分かったように思います。

私は家庭内での大きなトラブルはなく、家出をした経験もありませんので、世間一般に言う恵まれた家庭環境で育ったことになります。そのような私も、一度だけ父親にひどく叱られたことがあります。その夜には怖い夢を見、トイレに行くにも大泣きして行けなかったことをよく覚えています。幼少の頃の恐ろしい体験と言うものは、こころに深く根付いているものですね。親が幼児虐待するというニュースを見ますと心が痛みます。もし自分が親になった場合、自分はそういう親にはならないよう、親としての責任というものを改めて考えることが出来ました。

私は普段、両親に対して「ありがとう」という言葉を使っていますが、本当に言わなければいけない「ありがとう」ではありません。母親に対して産んでくれてありがとう、父親に対してここまで育ててくれてありがとう、と面と向かって言ったことはないように思います。今日は父の日ですね。両親に対して言わなければいけない、本当の「ありがとう」を言ういい機会なんですよね。少し照れくさいですね。

最後に、そのことに気付かせて下さったagricoさんにありがとうという言葉を贈ります。素敵なお話をどうもありがとうございました。

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Unknown (agrico)
2004-06-21 10:57:50
自分が親から受け継いだもの、というのは誰しもたくさんあるでしょう。目に見えるお金や財産もそうですが、却って目に見えないものの方がとても大きな意味と大切さを持っているかもしれません。

「業」と呼ぶものなのでしょうか。人生のスタートラインで自分の備えた性質、癖、習慣は、両親からの一番大切な贈り物なのでしょう。それと同時に幼い時から家庭内で身につけた「言葉」も・・・。



言葉は自分の手足のように常に身につけている素晴らしい道具でもありますが、一方自分の出した言葉が逆に自らを規定していくという、両刃の強い力を持っているように思います。

今回言葉の持つエネルギーの一端に気づかせてくださったアンさん、本当にありがとう。あなたとあなたの作品を傷つけてしまったことを心の戒めにします。



長い間両親を憎んできた私ですが、今日は(もう父の日の翌日ですが)父を思い出してありがとう、と言います。
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ありがとう (海猫)
2004-06-22 12:00:42
ありがとう、と言う気持ちは、自分が一番淋しい時や大変な時に感じるものですね。あなたみたいに、猫がいてくれてありがとう、と感じる、または、普通のこと、あたりまえのことにありがたさを感じれるのは、人間としての心ができたからだとおもいます。私は、人間の心”と言うのは、温かい心、許せる心、認める心、憎まない心、がポイントだと思っています。心”は、深い物だと感じます。私には、まだこの深さがよく分からないけれど、あなたには分かるんでしょうね。縁があればゆっくりお話したいですね。私も自分の心をあなたみたい育てて生きたいです。

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あなたも私も同じだと思います。 (agrico)
2004-06-22 14:52:14
海猫さん、長い物語を読んでくれてありがとう。

人間ってなんだろう、と思うときに、温かさも寛容さもそうですが、憎むことも拒絶することも等しく人間らしさなのかもしれないな、と思うことがあります。



猫や犬は知能が少ない分だけ直情的に判断して行動するけれど、同時に私たちの持っている「愛」らしいものも確かにあるように思います。

この「愛」らしいものがあるから、時に冷たくしたり許さなかったり、憎んだりする部分もあるんじゃないだろうか。



植物はすべてを受け容れて生きているように見えますね。動物のように速く行動しないからそうも思えるけど、彼らは彼らなりの行動の制約の中で「愛」と「厳しさ」を持って生きているように思えます。

植物でも動物でも、彼らの持っているものは恐らくすべて私たちの中にある。みんなこの世界で同じような基礎の上で生きているんじゃないだろうか。



その中で人間は、知能があって相手の心を洞察することができる。そして「愛」を深く掘り下げることができる。

人間はこの世で最も愛情深い存在なのかもしれません。

だから同時により深く憎んだり、許さなかったりもできるんでしょう。



今許せなくてもいいんです。憎んでしまってもいいんです。

そう思うことで、今の私も成り立っているんですよ。
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