アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

言葉のエネルギー・1

2004-06-19 21:03:38 | 猫家
今日は一日中パラパラ雨。台風が来ると言うので「これでゆっくり休める!」と思いきや、外に出ては雨の具合を見て帰ってきて、また外に出ては帰ってくるの繰り返し。
こんな日にちょっと思い出した昔のことを書いてみます。


私の生まれ育った家は街中で店屋をしてました。今から40年も前のことですから、まだ日本中のほとんどの家がそんなに豊かではなかった頃です。私の家もどちらかと言えば豊かではありませんでした。ご飯のおかずは毎日のように納豆か塩じゃけだった記憶があります。それでもこうして背が高く健康に育ったのは、貧しければ貧しいなりにも親が身体に良い物を食べさせてくれたからなのでしょう。

私の父は世にいう暴力親父でした。酒は飲まないのですがすぐ怒り、怒鳴り散らして暴力を振るいます。赤ら顔で「このバカ野郎!」と罵りながら折檻する父は、まるで鬼のようだと思いました。
今考えれば相当の借金を背負って苦しい生活だったこともあったのだと思います。母は幼い私たちを連れて何度も実家に帰りましたし、私たち子どもはそんな時には父親の目を伺い逃げ回るのですが、すぐに捕まって殴り倒されるのでした。
ビクビクしながら生きていた私にとって、「家庭」は時に逃げ場の無い地獄のようになりました。

私には兄がひとりいます。小さい時から勉強もスポーツもとてもよくできました。いわゆる優等生で、誰からも褒められる兄でした。
かたや私はといえば、することなすこと親の気に入らないことばかり。マンガばかり描いていて勉強はしない、先生にはしょっちゅう怒られる、女の子をいじめたりする、・・・どうしてこうも産み分けられたんだろうと、大人になっても暫くは当時を振り返って疑問に思っていたものです。
子どもの時に寝床の中で、父が母に向かって私のことを「できそこない・・」と言うのを耳にしたことがあります。今では子どもの頃父の言ったことなどほとんど憶えてないのですが、不思議とこの事だけは忘れることができません。

小さい時からなぜか絵がうまかった私は、良い美術の先生に恵まれたこともあって将来美大に行きたいとの夢を持っていました。中学の時に描いた絵を先生が方々のコンクールに送ってくださって、合計30枚近い賞状や記念品をいただいた憶えがあります。当時「できそこない」の私の唯一の心の支えでした。

その夢は当然のことながら親の反対で押し潰されてしまいます。
「この家には、私の生きる場所は無い」と思いました。私には小学の時に自殺未遂、高校の時に家出をした経験があります。だから子どもが自殺するというようなニュースを聞くとたまらなくなります。
高校3年の秋から、それまで劣等性だった私は猛烈に受験勉強を始めました。それまで英語は赤点、偏差値は39くらいだったような憶えがあります。

家は貧しいながらも、父は私たち2人を(条件付きでしたが)大学まで行かせてくれました。そのことには今でも感謝しています。毎日アルバイトに明け暮れたような日々であっても、大学での5年間(1年余分に通っている)さまざまな経験をしたし、奨学金をいただいて海外に留学したこともありました。それがその後社会人生活を始める私の大きな基礎にもなってくれました。

社会人となり、当時自分の最もしたかったこと(可哀想な子どもたちのためになることをしたい、と思っていました。)に近いことを仕事として持てた私は、それこそ仕事一筋に打ち込みました。「人」を相手にすることでしたし、開発途上国の経済発展にも結びつく有意義な仕事でした。時間はかかりましたが、何年かするうちに自分でも次第に思うとおりの仕事ができるようになり、ますます面白くなっていきました。
その反面上司や同僚、思いを寄せる人などの、「大切な人」とはあまり良い関係が作れなかったように思います。自分でも仕事はできる方だと思っていましたし、それなりに思いやりもあったと思うのですが、なぜか大切な時に相手を傷つけたり怒らせたりすることをしてしまうのです。後から振り返って、どうしてそんなことをしたかわからないようなことで。
そんな時決まって口をついて出て来る言葉があります。自分に向かって「バカだなあ」と。

男女を問わず、今までに何人もの素晴らしい人たちに巡り会って来ましたし、みんな価値あることをひとつずつ私に残して行ってくれました。その鎖のような絶えざる縁に恵まれ続けて今日私がいます。けれどその中で自分がこの人は、と思った人には必ずしも好かれませんでしたし、一番愛した人は私から離れて行くのです。
それは今振り返ればまるで、自身が幸せになるのを許さない自分がどこかにいたかのように思えるのです。

今ではもうほとんど無いのですが、20代、30代まで、体が弱ると必ず見る夢があります。急に胸が苦しくなり、目の中で無数の火花が飛び交い、乱暴な幾何学模様がフラッシュのように現れては消えするのです。それはものごころついた頃からありました。幼い頃は毎日のように、成長するにつれて間遠になり・・・。
その夢の正体に気づいたのは14~15才の頃だったと思います。
小さな私を母が抱いていて、障子をガラリと乱暴に開けて父が怒鳴るのです。母の腕の悲壮な圧力。髪に滴る涙。恐怖と混乱。まだ頭では理解できない幼心にインプットされたものがあるのでしょう。心の奥底からなかなか消えてくれない刻まれた記憶・・・。中学生の私はある日突然にそれを思い出すことができました。

小さい時から怒鳴られ、罵られ、殴られ続けた子どもの記憶は今もどこかで生きているのでしょうか。もちろん日頃はそんなこと何も意識しないし、今までの道程の中でかなりの部分を昇華させてきたとは思うのですが、いまだ私のどこかに住みついているものがまだあるのかもしれません。
もしかしたら今日思い出した「できそこない」という言葉などとともに。黒い大きなエネルギーはまだ私の心のどこかに。


今日はパラパラの雨の中、ちょっと昔のことを思い出したりしました。


猫家はそんな生い立ちを持つ私が、幸せになろうとして生きている所です。今ここで、この猫たちと、つき合う人々みんなと幸せになりたい。



【写真は青空に向かって伸びる麦。下の写真は私の好きな花、マーガレット。】




『言葉のエネルギー・2』に続く
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