土手に坐って、眼下の田んぼを見下ろし、
空を仰いで、何となく草をむしる。
今むしった、ひと握りの草を手にして、
ふと、今自分は、
なんで草を、
むしったんだろう。
指の間にはさまった
クローバーやシバクサ、
花開いたスズメノテッポウを見ながら、
あぁ、どうして自分は、
草を
むしってしまったんだろう。
この草たちは、死んでしまって、
これからどこへ行くんだろう。
そんなところから、
このお話は、始まります。
この春亡くなった あの山のお爺さん
去年の暮れ亡くなった 一軒向こう隣りの
お婆さん
わずかな間の 出会いだったけど
振り返ると
みんな いい人だったような気がする
死に逝く人の顔は優しい。
生きていた頃は、
誰も良いことを言わなかった
あの人だって、
棺の中で
とても穏やかな顔をしていた。
生きるときは 例え
般若の面をしようとも
死に逝く時は 仏の顔に
人間の生って、
いったい何なのだろう。
生きて、死ぬ。
それはどういうことなんだろう。
死んだ後は
もしかしたら
とてもいいところに行くんじゃないだろうか
生きてるときは地獄でも
死んでからは それこそ本当に
安らかに暮らせるところに
だから
無造作に摘まれた草も、
みんな穏やかな顔をして、
みんなにありがとうと言いながら、
静かに、枯れていくのだろうか。
もし、死後の世界があるとすれば、
もしそうならば、
今の生よりも、
長くて生き易いのかもしれない。
だから、みんな
穏やかに死ねる。
死ぬということは
怖いのだろうか
あの世というのは
本当に 嫌なところなのだろうか
みんな等しく この地上に生まれて
いろいろな生を生き
さまざまな体験をして
それぞれの状況で
死んでいく
その共通性に比べれば
少しの生き方の違いや
死に方のちょっとした差に
どれほどの 意味があるというのだろう
草や木の生と
私たちの生とに、
違いはあるのだろうか。
みんなやがては 元のところに帰って
わはは と笑って
また出直したりするのかもしれない
死後の世界を信じないのは
人間だけ。
だから
一生懸命お金を貯める。
この世で自分だけ良ければ、
いいと思う。
他の生き物たちは、
そんなことはしない。
でも、本当に
死んだ後も私たちは、
どこかで生きているんじゃないだろうか。
このクローバーたちと、また一緒に
暮らせるんじゃ
ないだろうか。
【写真は、いつかどこかで写した木。我ながらダイナミックです。】
空を仰いで、何となく草をむしる。
今むしった、ひと握りの草を手にして、
ふと、今自分は、
なんで草を、
むしったんだろう。
指の間にはさまった
クローバーやシバクサ、
花開いたスズメノテッポウを見ながら、
あぁ、どうして自分は、
草を
むしってしまったんだろう。
この草たちは、死んでしまって、
これからどこへ行くんだろう。
そんなところから、
このお話は、始まります。
この春亡くなった あの山のお爺さん
去年の暮れ亡くなった 一軒向こう隣りの
お婆さん
わずかな間の 出会いだったけど
振り返ると
みんな いい人だったような気がする
死に逝く人の顔は優しい。
生きていた頃は、
誰も良いことを言わなかった
あの人だって、
棺の中で
とても穏やかな顔をしていた。
生きるときは 例え
般若の面をしようとも
死に逝く時は 仏の顔に
人間の生って、
いったい何なのだろう。
生きて、死ぬ。
それはどういうことなんだろう。
死んだ後は
もしかしたら
とてもいいところに行くんじゃないだろうか
生きてるときは地獄でも
死んでからは それこそ本当に
安らかに暮らせるところに
だから
無造作に摘まれた草も、
みんな穏やかな顔をして、
みんなにありがとうと言いながら、
静かに、枯れていくのだろうか。
もし、死後の世界があるとすれば、
もしそうならば、
今の生よりも、
長くて生き易いのかもしれない。
だから、みんな
穏やかに死ねる。
死ぬということは
怖いのだろうか
あの世というのは
本当に 嫌なところなのだろうか
みんな等しく この地上に生まれて
いろいろな生を生き
さまざまな体験をして
それぞれの状況で
死んでいく
その共通性に比べれば
少しの生き方の違いや
死に方のちょっとした差に
どれほどの 意味があるというのだろう
草や木の生と
私たちの生とに、
違いはあるのだろうか。
みんなやがては 元のところに帰って
わはは と笑って
また出直したりするのかもしれない
死後の世界を信じないのは
人間だけ。
だから
一生懸命お金を貯める。
この世で自分だけ良ければ、
いいと思う。
他の生き物たちは、
そんなことはしない。
でも、本当に
死んだ後も私たちは、
どこかで生きているんじゃないだろうか。
このクローバーたちと、また一緒に
暮らせるんじゃ
ないだろうか。
【写真は、いつかどこかで写した木。我ながらダイナミックです。】
もし死ぬことが一方的で悲劇的なものだったら、死んでいく人たちの哀しみ、憤り、恨みは晴れることがないでしょう。いつまでもいつまでも、その思いのエネルギーは堆積して行くだろうと思います。
確かに表向き、安らかに死んでいったような人もいれば、非業の死を遂げたように見える人もいます。そこに本質的な差があるとすれば、こんな不平等はありません。
生きている私たちの存在の価値は、「死」ひとつのありようで根底から変わってしまいます。
「死に方」という、いつ、どのような形になるかわからない不確定なもので、私たちの存在する価値は、そんなにも左右されるのでしょうか。
「痛み」や「恐怖」は、生き物がその体や心を維持するのに大切な役割を持っていると思います。もしそれがなかったとしたら、私たちの肉体や心はすぐに変質してしまって、「生きている」ことさえ維持できなくなってしまう。
それほど、物質やエネルギーが拡散しようとする力は大きいのだと思います。宇宙の中で「痛み」や「恐怖」が結合力になって、私たちがこのような形で存在しているのだと思います。
でもそれがあるために、死ぬ時にはほとんどの場合、痛んだり、苦しんだり、恐怖したりする。これは確かに、生き物が最期の最期まで生きようとする原動力、「生命エネルギー」の力の強さなのかもしれません。
「苦しむ」という状態があるために、私たちは「死ぬこと」をマイナスに捉えがちです。この場合、「苦しむ」ことは「生きようとする力」の表れなのでしょうが、決して必ず訪れる「死」を否定するものではないと思います。
「生」を肯定するならば、「死」も肯定しなければならない。
この場合、片方だけでは世界のバランスをとることができません。この世界は生と死によって、現状が維持されています。
私は、生きることが良いことだとは思いません。また、死ぬことを悪いことだとも思いません。良いことも悪いこともそこにはありません。
「生」も「死」も、ただ私たちの目の前にあるものです。
どのような生き方をしたか、どのような死に方をしたかは、本質的な私たちの存在になんら差をつけるものではないと思います。
そのような生を、そのような死を(仮に自分が選んだのではないとしても)送ったという、ただそのことだけです。
苦しむ人の苦しみを自分のことのように感じ取れることは、素晴らしいことだと思います。それほど深い心を持っていると思います。
でも、その同じ深さでもうわかっているとも思います。死んでいった人が今、自分に対して望むことを。
その人の生を、死を肯定できます。いつかまた会う魂だと思います。
死んでいった人たちは私たちに、その人たちと同じように精一杯生きて、どのような死に方になるかわからないけれど、死んでいって欲しいのではないでしょうか。
愛するものの死は、私が今目の前にしているものを大切にして生きることを教えてくれました。
大きな苦しみや悲しみが教えてくれるものは、確かにあります。
どのような形でも、死ぬことにはとても大きな意味があると思います。
もしかしたら私たちひとりひとりのために、わざわざそのような死に方を選んでくれたのかもしれない、と思うこともあります。
残念ながら読んだことはありません。
「死」も「生」も当事者の意思だとは思えません。生まれるとき、それを選んだ覚えがないから。
私の彼も、確かに「死」の瞬間にはそれを受け入れたかもしれませんが、最期の一呼吸まで、必死で(文字通り必死で)行っておりました。闘病中も、冗談で、こんなに苦しいの我慢したくないんだったら一緒に死のうかって言ったことあったけど、彼は笑って、「それでも生きたいから。」って言いました。
彼が、死に同意していたとは考えたくないです。
彼のために。
病や不幸な事故・事件で未来を奪われたすべてのヒトとその遺されたヒトたちのために。
死も生も、すべての生命体に 真に平等にやってくる傍若無人な訪問者です。時が流れていくのと同じだと思います。それは意思ではない。
私は、地球が太陽の周りを回るのを許可した覚えはないです。
・・・なんて、関係ないことを聞いて、ゴメンナサイ。
場合によっては、生き物は、自ら命を絶つことがままあります。それはネズミに限らず、日常、身の周りでよく観察されます。
もちろん植物は、自分で生命を絶つというよりも、他者の力を借りたりして、自分の意思で絶つのですが。
日常、そこかしこで起こるさまざまなことをどう解釈するか。「偶然」と受け留めてもいいし、何かの意志が働いた「必然」と受け留めてもいい。
あん♪さんの言うことは、よくわかります。
私もそう思っていたから。
今の私は、「生きる」「死ぬ」が、その当事者の意思決定なくしては起こりえないんじゃないかと思っていて、その目で自然界を見ているんです。
だからこのような発想が生まれるんですが、
いつか、もっといい機会が見つかった時に必ず答えますから、
もうちょっと、時間をくださいね。
あん♪さんの疑問、核心に近いので、
残念ながら、今の私では明確な言葉が出せません。
また人間の知能。これは生物界全体に対する大きな危険と、生き物すべての進化の可能性とを、併せ持った強力な道具だと思います。
これについては、また長くなるので、いつか記事に纏めたいと思っています。
(宿題ばかり溜まっていくな、このところ。)
それを知っているのは、agricoさんのような人間だけだと思います。
例えば、この世で最期の猫の前に、この世で最期のネズミの夫婦がいたとします。
食っちゃうでしょ。猫は。なんの躊躇もなく。生命の哀れさを感ずることができるのは人間だけでしょう。
外来の植物は在来種を駆逐しています。「生きる」ってそーゆーことだと思います。本能は自らを救うためには他をかまうなと言っていると思います。それが、生命の強さであり美しさだと思います。自殺するネズミも、他種のための本能ではなく、自種の存続のためだけのプログラミングだと思います。
私は、生き物の持つ非情な生命力が好きです。
生きのびるため自分本位でなければならない『本能』を持つ 動物や植物が好きです。
そして、他の生命を慮る『知能』を持ったニンゲンが、好きです。
そのために他の生き物が死んでしまうとしても、構わない。
そういった厳しさの反面、互いに助け合っているのも事実です。
自分たちだけでは生きていけないことを充分知っています。
だから、決して自分だけ生き延びればいいとか、自分だけですべてを独占しようとはしない。
彼らの厳しさは、「互いに助け合い共生する」という基礎の上で行われていることじゃないだろうか。
ネズミだって、ある程度増えてしまうと自殺する種もあるそうですね。決して自分の首を絞めるほど、他を破壊しない。
でも人間は、はっきりと「自分だけ良ければいい」と思ったりもしますよ。しかも自分の欲のために。
でもあん♪さんが言うように、人間も自然の一部だし、確かに他の生き物に無いいいところもある。
最終的には、人間だってやはり、自分の首を絞めるところまだ他の生き物たちを踏みにじりはしないんでしょうね。
論点が違うかもしンないですけど、ちょっとだけ…。)
お金を貯めたりするのは人間だけだけど、
自分さえよければいいと思うのは
動物たちのほうが、シビアだと思います、私は。
動物にしろ、植物しろ自らの種を保存するためには、迷わず他を根絶する行為にでると思います。カッコウの托卵とかがいい例かと…。
別の種族(例えばネコだとかイヌだとかトリだとか)にエサやって喜んでるのは、
ニンゲンってゆー種類以外ないと思います。
だから、ニンゲンもいい奴だと思います。
あの世の話は、長くなっちゃいそうなのでまたの機会に(^^;....
私の出したコメント、ちょっと失礼かもしれないと思いながら、でもその時に正直に感じたことだからと、思い切って書きました。
はにゃさんならば、いざとなれば笑い飛ばしてくれると思っています。
私は堅物なんでしょうね、まわりくどいことや、単純なものを複雑にすることがあまり好きではありません。
だから周りの雰囲気にそぐわなくても、自分の思うことしか言わなかったりして、座がしらけたりします。
こんな私ですが、はにゃさんなら、一笑にふしてくれると思いました。
読んでくれてありがとう。
でも多分、それでは何かしら都合が悪くて、今の状態になっているのでしょう。
何もわからない、ということは、すべて自分で決めれる、ということでもあります。
「人を殺す」ということですが、実は私たちは日常暮らしているままに、たくさんの人を殺していると思いますよ。
例えば、「太平洋戦争」ですが、その時の日本国民はみんな騙され、強いられてただけなのでしょうか。それで何も悪くはなかったのでしょうか。
今日本中で、また世界中で起こっていることは、私たち全員の総意だと思います。
人は全体の中で自分ひとりは無力だと思い込んでいて、その結果何もしないでいるんじゃないでしょうか。
でも、恐らく違います。
私たち一人ひとりは、自分の身の周りに自分の世界を創る充分な力を持っていると思うんです。
そのことについても、いつか書きますね。
今回は「魂」について書こうとして、こういうテーマになっただけなんです。
私自身はいつでも死ねるかな、と思っていますが、こうして生きているところを見ると、まだやることがあるみたい。
またいずれ別な機会に書くね。
とりあえずこの記事とコメント欄は全部読んだよ
~。
過去ログはまだですががが。
blogでいろいろありましたね。私はこの発言について、はじめはびっくりしました。でも、考えてみたら、この発言は間違っていないかも知れません。人の命を奪うのは罪だと決めているのは、人間です。動物の世界を見るとわかりますね。他の命を頂いて生きているんです。また、誰だて人を殺しています。私だて、agricoさんだて、そう、人の命は奪ってないけれど、心で殺しています。前の話に戻りますけど、嫌いな人をさけて、自分の中からその人の存在をけす。その人を捨てる。殺すと言うのはその人の存在を消すことではないでしょうか。今は、嫌いな人、好きな人、私に係わって来る人は大切な存在だと思えるようになりました。
ところで、agricoさn、人をころす”死後のこと”などの発言をしたあなたが心配です。こう言うことを思う時て。。。。。。私の場合は辛い、孤独の時です。今もまだまだ、私の心は孤独ですが、光に向けて手を伸ばしています。
南無さんが、にらんでるし、
ここの記事に関しては、下手にコメントしないほうがよさそうだけど、ちょっとだけ記事で、お返しします。
そのためにはまず、「魂」や「心」、「生命」について、私の思うところを表す必要があります。
前回のコメントで、固定観念を消して物事を捉える姿勢について書きましたが、確かにおっしゃるとおり、それは簡単にできることではありませんね。あくまでも自分なりの「希望」のひとつに過ぎないかもしれません。
それでも、希望は実現へのスタートだから、少なくとも出発点に立ったことにはなるのでしょう。
もし仮に、すべての事象を知りえたならば、その時はもう、人間でいる必要はなくなっているかもしれませんね。
私たちみんな、行くべきところに行って、すべてをまた思い出すのかもしれません。
全ての現象を存在しない物とみなすには、あまりにも愛する者が多いと言うことだ。
あなたがやろうとしている事が少しずつ分かりかけました。
世に”特殊”な事などあろうはずはない。
あなたはわかっているはずだ。
全ては等しく照らし続けられているということを。
だから、失うものはなにで、得たものはなにか、ということは愚問でしかない。
それは書き続ける中にしか存在証明は無いと私は思う。