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一昨日そして今日と、春一番二番の風が吹いた。
雪に閉ざされた3ヶ月は、過ぎてみればとても短い時間のように思える。冬の間にやっておこうと思っていたことのほとんどはやり残したまま、もうすぐそこに春が来てしまったんだね。なんだか少し残念だ。できればもう少し長く冬が続いてもいいのに。
雪解けの土から真っ先に芽を出すのは福寿草、そしてふきのとう。
どちらも春満載の色をしている。つくしのようにぽこっとでてくるところなんか、まだ去り切らない冬に遠慮しているみたいだ。
昨日からふきのとうを採って食べている。やっと我が家にも新鮮野菜が食卓に上るようになった。春の訪れを実感するひと時。何だか嬉しい。
ふきのとうと言えば思い出すことがある。今から3年前、この家に引っ越して来て初めての春に、庭先に生えていたふきのとうを摘んだ。その当時我が家は頂き物の芋と野草ばかりを食べて暮らしていた。やっと定住地が決まったばかりで、もちろん畑の準備などまだできていなかったからそれしか食べるものが無かった。
道端の草、野原の草々は、毎日の食事に揺ぎ無い地位を占めていた。野草図鑑を座右の銘として、とにかく食べれる草を探したものだった。
ところがこのふきのとう、とても苦くて食べれなかった。
元々ふきのとうは苦い。だけどその苦さが美味しさでもあり、苦くないふきのとうなんて、苦くないコーヒーや苦瓜のようなものだと思う。ワラビだって少し苦いところに味がある。けれどこの時の苦さったら、半端じゃなかった。
私が食べられない食べ物なんて、唐辛子の丸齧りと腐った魚くらいだ。こう言えばその時の苦さが驚くべきものだったということがわかるだろう。歯を食いしばって我慢しても、とても食べられたものではなかった。
何故だろう。今まで毎年ふきのとうを食べていて、こんなのに当たったことはない。念のため他の場所からも取って来たが、どれも食べるに耐えられない。結局家周りのふきのとうはすべて食用にならないことがわかった。そして何故かこの家はフキの群落に囲まれているのである。もしかしたらこの土地のふきのとうは、残念ながらこんな種類なのかもしれない。なんと勿体ないことだろう。その時はそんなことを思って納得した。
そしてそれから2年経った春。ある日たまたま思いついてふきのとうを摘んだ。少しだけ酒の肴の彩りにと思ったのだと思う。そして食べてみたふきのとうは、なんと苦くなかった。まったく普通の「ふきのとう」の味がした。
私は悩んだ。どちらも同じ場所で採っている。どうしてこんなにも違うのだろう。
いろいろ考えた末に、ひとつだけ思い当たることがあった。それはこの家に以前住んでいたお婆さんのことなのだが・・・
ひとり暮らしでしかも体を病んでいた彼女にとって、庭や畑の草取りは重労働だった。それで同じようなケースによくありがちなように、除草剤大好き人間になってしまった。
この辺りでは、家の周りに草が茂っていると「怠け者」のレッテルを貼られてしまう。田舎の日本人社会が作り出したひとつの価値観だ。そこで殊更外聞を気にする人のために、除草剤は頼もしい味方になってくれる。
ただ撒くだけ。お金といっても安いものだ。とても暑い夏に熱射病の可能性に慄きながら肉体を酷使するのと比較にならない。ただ年に数回撒くだけで、何週間も草取りをする分は充分に働いてくれる。それまで手で除草をしていた人にとっては、まるで魔法か麻薬のような魅力がある。お婆さんが一度使った除草剤を手放せなくなったとしても、何ら不思議なことではない。
そして毎年毎年、大量の除草剤が撒かれ続けた。期間にして恐らく十数年。お陰でこのお婆さんは生きている間世間的には「きれい好き」で通すことができた。
だけど私は除草剤が大嫌いだ。そればかりでなく、自分の畑には農薬、化学肥料を含めたあらゆる化学物質を入れないようにしている。だから牛や豚の堆肥も使わない。それらの糞には、飼料を通して大量の「物質」が混入されていることは、牧場で働いたことのある人ならばみんなわかっている。
だからこの家に越して来てから、お婆さんが置き土産代わりに残していった大量の農薬の処理に困った。軽トラに積めば一台山盛りになる。結局業者に持ち込んで処分料として4万円くらい払ったのだけど、それだけ大量の農薬がこの家にはストックされていた。
何を食べさせればどのように育つか、それを把握することは植物や動物を育てる上での基本中の基本だ。人間だって何を食べるかによって健康や体格、時には性格までも大きな影響を受ける。例えば毎日少しずつ死なない程度に毒を飲み続けた人の肉は、健康体の人の肉と味が違うかもしれない。植物にとって除草剤とは、そのものずばり「毒」に他ならない。ただそれに対する耐性の差を利用して、現代、除草剤は田や畑に広範に使われている。
私が住み始めて丸2年、毒を食しなくなったふきのとうがその味までを変えたとしても、考えれば不思議には当たらないかもしれない。
あれからまた1年が経ち、この春も我が家のふきのとうは元気に頭をもたげた。春のエネルギーを地面からお日様から真っ先に受け取って、それを私たちにバトンタッチしてくれる。昨日軒下に一番乗りの坊やを見つけてありがたく頂いた。もちろんのこと、とても美味しい。
生物界で食物連鎖の頂点に立つ人間。私たちの行動は地球上のすべての生き物に大きな影響を与えている。そしてそれと同時に、自然界のすべての生き物は私たちに決定的な影響を及ぼす。何故なら私たちはそれらの「命」に支えられて生きているのだから。
3年前のふきのとうがとても苦かったのはお婆さんの撒いた除草剤のせいなのかどうか、はっきりとはわからない。でもそれはひとつの有力な可能性として充分過ぎるくらいある。私たちはふきのとうを通して、彼らが摂取した「もの」を食べているようなものだから。
厚生労働省などが発表する残留農薬基準などを私は信じない。死なない程度の毒であれば摂取し続けてもいいとは思わない。それは未だに科学で立証できてない深い落とし穴だと思う。
身の周りの草や花が幸せになって、私たちも健康で幸せに生きれる。ふきのとうは苦いことで私にそれを教えてくれたのかもしれない。だとすれば何て優しいふきのとうだろう。中には苦くもならずに人の口に入る野菜だってたくさんあるだろうに。
【写真は猫家から見た冬景色。我が家の畑です。】
雪に閉ざされた3ヶ月は、過ぎてみればとても短い時間のように思える。冬の間にやっておこうと思っていたことのほとんどはやり残したまま、もうすぐそこに春が来てしまったんだね。なんだか少し残念だ。できればもう少し長く冬が続いてもいいのに。
雪解けの土から真っ先に芽を出すのは福寿草、そしてふきのとう。
どちらも春満載の色をしている。つくしのようにぽこっとでてくるところなんか、まだ去り切らない冬に遠慮しているみたいだ。
昨日からふきのとうを採って食べている。やっと我が家にも新鮮野菜が食卓に上るようになった。春の訪れを実感するひと時。何だか嬉しい。
ふきのとうと言えば思い出すことがある。今から3年前、この家に引っ越して来て初めての春に、庭先に生えていたふきのとうを摘んだ。その当時我が家は頂き物の芋と野草ばかりを食べて暮らしていた。やっと定住地が決まったばかりで、もちろん畑の準備などまだできていなかったからそれしか食べるものが無かった。
道端の草、野原の草々は、毎日の食事に揺ぎ無い地位を占めていた。野草図鑑を座右の銘として、とにかく食べれる草を探したものだった。
ところがこのふきのとう、とても苦くて食べれなかった。
元々ふきのとうは苦い。だけどその苦さが美味しさでもあり、苦くないふきのとうなんて、苦くないコーヒーや苦瓜のようなものだと思う。ワラビだって少し苦いところに味がある。けれどこの時の苦さったら、半端じゃなかった。
私が食べられない食べ物なんて、唐辛子の丸齧りと腐った魚くらいだ。こう言えばその時の苦さが驚くべきものだったということがわかるだろう。歯を食いしばって我慢しても、とても食べられたものではなかった。
何故だろう。今まで毎年ふきのとうを食べていて、こんなのに当たったことはない。念のため他の場所からも取って来たが、どれも食べるに耐えられない。結局家周りのふきのとうはすべて食用にならないことがわかった。そして何故かこの家はフキの群落に囲まれているのである。もしかしたらこの土地のふきのとうは、残念ながらこんな種類なのかもしれない。なんと勿体ないことだろう。その時はそんなことを思って納得した。
そしてそれから2年経った春。ある日たまたま思いついてふきのとうを摘んだ。少しだけ酒の肴の彩りにと思ったのだと思う。そして食べてみたふきのとうは、なんと苦くなかった。まったく普通の「ふきのとう」の味がした。
私は悩んだ。どちらも同じ場所で採っている。どうしてこんなにも違うのだろう。
いろいろ考えた末に、ひとつだけ思い当たることがあった。それはこの家に以前住んでいたお婆さんのことなのだが・・・
ひとり暮らしでしかも体を病んでいた彼女にとって、庭や畑の草取りは重労働だった。それで同じようなケースによくありがちなように、除草剤大好き人間になってしまった。
この辺りでは、家の周りに草が茂っていると「怠け者」のレッテルを貼られてしまう。田舎の日本人社会が作り出したひとつの価値観だ。そこで殊更外聞を気にする人のために、除草剤は頼もしい味方になってくれる。
ただ撒くだけ。お金といっても安いものだ。とても暑い夏に熱射病の可能性に慄きながら肉体を酷使するのと比較にならない。ただ年に数回撒くだけで、何週間も草取りをする分は充分に働いてくれる。それまで手で除草をしていた人にとっては、まるで魔法か麻薬のような魅力がある。お婆さんが一度使った除草剤を手放せなくなったとしても、何ら不思議なことではない。
そして毎年毎年、大量の除草剤が撒かれ続けた。期間にして恐らく十数年。お陰でこのお婆さんは生きている間世間的には「きれい好き」で通すことができた。
だけど私は除草剤が大嫌いだ。そればかりでなく、自分の畑には農薬、化学肥料を含めたあらゆる化学物質を入れないようにしている。だから牛や豚の堆肥も使わない。それらの糞には、飼料を通して大量の「物質」が混入されていることは、牧場で働いたことのある人ならばみんなわかっている。
だからこの家に越して来てから、お婆さんが置き土産代わりに残していった大量の農薬の処理に困った。軽トラに積めば一台山盛りになる。結局業者に持ち込んで処分料として4万円くらい払ったのだけど、それだけ大量の農薬がこの家にはストックされていた。
何を食べさせればどのように育つか、それを把握することは植物や動物を育てる上での基本中の基本だ。人間だって何を食べるかによって健康や体格、時には性格までも大きな影響を受ける。例えば毎日少しずつ死なない程度に毒を飲み続けた人の肉は、健康体の人の肉と味が違うかもしれない。植物にとって除草剤とは、そのものずばり「毒」に他ならない。ただそれに対する耐性の差を利用して、現代、除草剤は田や畑に広範に使われている。
私が住み始めて丸2年、毒を食しなくなったふきのとうがその味までを変えたとしても、考えれば不思議には当たらないかもしれない。
あれからまた1年が経ち、この春も我が家のふきのとうは元気に頭をもたげた。春のエネルギーを地面からお日様から真っ先に受け取って、それを私たちにバトンタッチしてくれる。昨日軒下に一番乗りの坊やを見つけてありがたく頂いた。もちろんのこと、とても美味しい。
生物界で食物連鎖の頂点に立つ人間。私たちの行動は地球上のすべての生き物に大きな影響を与えている。そしてそれと同時に、自然界のすべての生き物は私たちに決定的な影響を及ぼす。何故なら私たちはそれらの「命」に支えられて生きているのだから。
3年前のふきのとうがとても苦かったのはお婆さんの撒いた除草剤のせいなのかどうか、はっきりとはわからない。でもそれはひとつの有力な可能性として充分過ぎるくらいある。私たちはふきのとうを通して、彼らが摂取した「もの」を食べているようなものだから。
厚生労働省などが発表する残留農薬基準などを私は信じない。死なない程度の毒であれば摂取し続けてもいいとは思わない。それは未だに科学で立証できてない深い落とし穴だと思う。
身の周りの草や花が幸せになって、私たちも健康で幸せに生きれる。ふきのとうは苦いことで私にそれを教えてくれたのかもしれない。だとすれば何て優しいふきのとうだろう。中には苦くもならずに人の口に入る野菜だってたくさんあるだろうに。
【写真は猫家から見た冬景色。我が家の畑です。】
話題が少し違うのですが「食」関連なのでTBさせていただきます。
雪景色に目が奪われました。
雪解けの地面から芽がはえてくる感激というのはこの時期ならではのものですね。
ふきのとう、今年も注文しないと口にははいらないコンクリート暮らしの私です。
スギ花粉やアレルギーなんかもそうですが、元々人には外からの毒などに耐えるだけの体の力を持ってると思うんです。
でも今は、体自体が弱くなっている。
それは田舎で年寄りたちを相手にして働いてるとわかります。
その弱くしている原因を無くせば、根本から問題は解決できるような気がしますね。
莫大なお金を投じて薬や作物を開発しても、いたちごっこじゃないかと思いますよ。
もう少し経てば菜花が葉を出してくるから、葉っぱ物に困らなくなります。
うちもやっと、保存食から脱却できそうですよ。
朝、犬の散歩時の楽しみなんです。
そのまま油で揚げてから塩を付けてちびりちびりと酒を飲む。
もうすぐだな。
脂が乗ってきたのかな?文章に凄みを感じるよ。
ふきのとう…雪の冷たさに耐えたやつは、本当に美味いんだろうなあ。
こっちでも採れるんだけどね、みちのく出身のヨメに言わせると、「うまぐね」らしい。(笑
この時期、ふきのとうを見つけるとひとつでもふたつでも拾って来て、少ないなりに他の野菜と一緒に炒めたりして食べます。
なにせ3ヶ月ぶりの「生もの」なので嬉しいのですよ。
こちらはここ数日であっという間に雪が溶けました。
まだ何度か寒くなるとは思いますが、暖かだと仕事するのに楽でいいですね。
春先は体を壊しやすいので、労わってくださいね。私もたまにぎっくり腰をするんですよ。
人の思いに最も影響されるのは、その人の体なんだと思います。
だからどこで暮らそうが健康には生きれると思いますよ。現に野菜や穀物を食べれない地域でもたくさんの人が生きています。
知識を偏重する人の多くは、その知識を自分を苦しめるために使ってしまったりする。私は自分にとってこれがいいと思ってこういう暮らしをしてますが、でもこんな暮らしでないといけないわけじゃない。都会でだって充分に健康でいられますよ。私たちの体にはちゃんと解毒する力が備わってますからね。
免疫力は何より「思い」に左右されるんじゃないかと思います。そして2番目に食べ物に。
だから大丈夫ですよ。今のままでたけさんは充分愛情深くて皆から慕われるじゃないですか。
褒められると単純に嬉しいです。多分この冬小説などを10冊くらい読んだのが良かったんだと思いますよ。表現は、勉強する甲斐がありますね。ひとつのテクニックですからね。
暑い地方のフキは美味しくないのですか。もしかしたら大味かもしれませんね。寒いと木も草も体密度が濃く育ちますからね。
人も寒いところで育てば、密度の濃い人間になればいいのですけどねぇ。でも今は冷暖房完備の生活だからあまり変わらないかもしれません。昔ならば、幾分は性格に影響したかもしれませんね。
agricoさんの暮らしがとても好きです。
先日は嬉しかったです。
ありがとうございました。
ふきのとうって、そういえば食べられるのでした。
そんなことさえ忘れている日常にいます。
今、雨が激しく降り出しました。
音はすごいけれど優しい春の雨です。
早く届かないかな~、ふきのとう。
今年は山形は積雪が深くて出荷が遅れているのだそうです。
粗食献立、ぜひ政府で全国規模で実施してもらいたいものですね。
「カレーの日」というのが昔あったようですが、今回はもっと切実ですね。