アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

松井石根

2009-04-04 19:31:36 | 思い
 松井石根(まつい いわね)陸軍大将をご存知だろうか。1937年の上海事変と、それに続く日本軍による南京攻略の総司令官だった人である。以下にこの、中国を敬い軍人ながら日中親善のために心を砕いたひとりの日本人将校が、どのようにして生き、また東京裁判にて罪を問われたかを見てみよう。

 松井石根は1878年愛知県に生まれ、成城学校から陸軍士官学校、陸軍大学校へと進学。日露戦争時から40余年間陸軍に在職した生粋の軍人である。大陸での在任が長かったせいか陸軍の中でも中国通として知られており、軍事、政治、経済その他あらゆる漢民族の文化を研究している。特に孫文の唱えた大アジア主義に強く共鳴するところがあり、次第に日中の親善提携と、当時植民地化していたアジアの復興を念願するようになった。また日本に留学した蒋介石とも親交を持ち、彼が政治的に困難な際に助力を与えたりもしている。
 退役後は「大亜細亜協会」の会長となって、国内外で日中和平・提携を説いて回っていた。
 1937年8月第二次上海事変勃発当時、松井は既に退役して予備役にあった。その彼が上海派遣軍司令官に起用されたのは、時の杉山陸軍大臣も明言しているように、「年来日中親善に尽力し、中国に知己も多いため、速かに事件を局地的に解決し、戦闘を拡大しないという政府方針の貫徹には、最もふさわしい人物であった」からである。事変当時の日本政府は戦線不拡大政策を採っていた。
 松井は指揮をとるに当たり、部下各隊に次のような訓示を行っている。
一、上海附近の戦闘は専ら我れに挑戦する敵軍の裁定を旨とし、中国官民に対しては努めて之れを宣撫愛護すること。
二、列国居留民および軍隊に累を及ぽさざることに注意し、列国官憲およびその軍隊と密に連絡し誤解なきを期すること。

 第二次上海事変は、当時共同租界に居留していた邦人(約3万人といわれている)守護のために駐留していた約3000名の日本海軍陸戦隊に対して、中国国民党軍10万人が仕掛けた戦争である。軍事的に圧倒的な劣勢にあった陸戦隊は当然のことながら戦争回避、また戦線不拡大に労を尽くしていたが、既に開戦を意図している中国軍の侵攻を阻むのはこれ以上不可能と判断、本国政府に対して増援を要請する。これを受けて軍は、松井大将を司令官とする上海派遣軍を結成したのである。
 軍の派遣から二ヶ月あまりで中国軍は潰走し、上海は治安を回復した。当時上海の難民区で30万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞の記者に対して次のように語っている。
日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配していたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常に感謝しているところです。

 上海周辺の戦いによって、シナ軍の精鋭73個師団(約40万人)の大部分が殲滅された。蒋介石が大切に育てた虎の子の空軍も、また海軍も全滅した。元来蒋介石は親日派で日本軍との交戦を避けるべく尽力していたのだが、当時上海・南京の警備司令官であった張治中はコミンテルンの潜伏工作員であり、事変の発端となった大山事件、巡洋艦出雲への空爆と、蒋介石の指令を無視して日本軍への徴発と戦闘拡大とを続けている(ユン・チアン著『マオ 誰も知らなかった毛沢東』より)。つまり蒋介石も日本軍も、ソ連と中国共産党の策した罠に嵌って日中戦争に突入してしまったのだった。

 中国軍の戦いぶりは、およそ近代的戦争の常識や国際法を外れたものだった。たとえば「清野戦術」と呼ばれる、退却に際して敵軍に利用させないために民家などを放火略奪してしまう焦土作戦である。南京攻略戦の際にも、国民党軍によって南京城外の周囲15マイル(およそ24km)が焦土化された。これらは後に「三光作戦」として、あたかも大陸において日本軍が行ったように宣伝されたが、中国においても日本軍の侵攻した他の地域においてもそのようなことが行われた事実は確認されていない。そもそも「三光(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)」とはれっきとした中国語であり、語義上も中国的な発想に基づいている。軍規の厳しかった日本軍にあっては、もし兵士の中で民家に放火などした者がいたとすれば即座に軍法会議にかけられ厳罰に処せられたという。
 もうひとつは「便衣兵」で、中国兵が農民に偽装して、日本兵を背後から襲うというゲリラ戦法である。国際法では正規兵はそれと分かる軍服を着用しなければならないというのが、一般市民を戦闘の巻き添えにさせないための規則である。便衣兵とはこのルールを破り、人民の背後に隠れて攻撃をするという不法な「禁じ手」であった。また敗走する時も中国兵は容易に周囲にいる民間人を殺して衣服を奪い、自ら農夫・市民に紛れて身の安全を図ることがままあった。
 さらに日本軍を驚かせたのが「督戦隊」である。これは戦意のない兵隊に対して後ろから機銃掃射を浴びせかけて、前進して戦わなければ後ろから撃たれるだけという状況に兵を追込むものである。これでは兵は降伏もできず、死に物狂いで戦うしかない。これも戦後中国側が日本軍の残虐非道ぶりを誇大宣伝するための道具として、あたかも日本軍が行った行為であるかのように宣伝している。

 松井大将は南京攻略に際して次の命を達している。
「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるゆえに、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。特に敵軍といえども抗戦意思を失いたる者および一般官民に対しては、寛容慈悲の態度を取り、これを宣撫愛護せよ」

 特に彼は南京郊外にある孫文の慰霊廟・中山陵を戦火から守るよう厳命した。中山陵は南京攻略上の要衝だったが、日本軍はその命を守ってそこには立ち入らず、保全に成功している。
 松井大将は平和理の開城を願って降伏勧告を行ったが、すでに蒋介石やその取り巻きは南京を脱出しており、また南京防衛を命ぜられた唐生智将軍も、降伏勧告に返答しないまま部下と民衆を置去りにして逃亡した。このように正規に降伏する機会も与えられず見捨てられた将兵達はパニックに陥って、城壁の前で大勢が折り重なって圧死したり、武器を捨て民間人の服に着替えて相当数が安全区に逃げ込んだ。こうしてさしたる抵抗もないまま攻撃開始から3日後の12月13日に南京は陥落した。日本軍が南京城に入場した時には、中国軍の焦土作戦により安全区を除いて街のほとんどが焼け野原となっていた。
 南京ではドイツ人ラーベを委員長とする民間人有志による国際安全委員会が、安全地帯を設け難民を受け入れていた。後にラーベは日本軍に対して、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方に感謝するため、我々は筆をとっております」と謝意を表明している
 しかし、清野戦術と便衣兵とで疲弊していた日本軍の一部に「若干の暴行・略奪事件があった」と憲兵隊から聞かされた松井は、必要以外の部隊を城外に退去させて、12月18日に中国軍将兵をも併せ祀る慰霊祭を執り行った。「これが日中和平の基調であり、自分の奉ずる大アジア主義の精神である」と声涙くだる訓示を行ったと伝えられている。
 日本軍により治安が回復すると民衆も続々と南京に戻り始め、市は元の活況を取り戻していった。開城から二日後には早くも営業を開始した屋台もあった。12月24日から1月6日まで続いた住民登録では、5万人の人口増加が記録されている。国際安全委員会の公式記録でも、日本軍占領前の南京の人口は20万人。それが占領から三ヶ月後には23万人に増えていると報告されている。

 しかしこの一連の戦闘によって日中両軍の蒙った犠牲は甚大だった。上海戦から南京占領までに、日本軍の戦死は2万1300名、傷病者は5万余であった。松井大将は帰還後日中戦没者の血の沁みた土を取り寄せて、これをもって熱海・伊豆山に興亜観音を建立した。そしてその傍らに寓居を構えて、以後はこの事変を転機として両民族が親和し、今事変の犠牲者が東洋平和の礎石となる事を願いつつ朝夕読経する生活を送ったという。
 終戦後の1946年東京裁判が開かれ、彼は引き立てられて聞いたこともない南京での「20万人以上の虐殺」の責任者として絞首刑に処せられた。
 松井石根、享年70歳は次の句を辞世に残している。
「天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」
「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」
「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心」



主に参考にしたサイト:「松井石根大将~大アジア主義の悲劇~」



【写真は南京で閲兵する松井大将】


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