粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

柳家小さん「粗忽長屋」

2014-04-27 19:07:21 | 落語

この「粗忽長屋(そこつながや)」、最初聞くと確かに馬鹿馬鹿しい。浅草で行き倒れの死体を見て、これが同じ長屋に住む弟分の相棒だと勘違いする。しかし、その後の行動が不可解だ。長屋に戻り、実際は部屋にいる相棒に「お前は死んだんだよ。これからお前の『死体』を引き取りにいこう」といって誘う。要領を得ない相棒も無理矢理自分が死んだものと思い込み二人浅草に向かう。相棒は自分の「死体」と対面するが、ふと疑問に思う。「俺って一体誰なんだ?」

筋だけ書くと大して面白さは伝わらない。そこはプロの落語家に掛かると、水を得た魚のように生命力がみなぎった楽しい舞台となる。長屋の二人の勝手な思い込みと常規を逸した突飛な行動とそれを不可解に思う行き倒れ発見者の惚ける様がくっきりコントラストを描いている。

噺家では、やはり往年の名人芸がいい。あの永谷園(今ではピンとこない人も多いかもしれないが)柳家小さん師匠の落語が今でも安心して聞ける。噺が自然に進行して屈託がない。少し現代的なテンポとメリハリは欲しいが、老練の渋さがなんとも絶妙だ。

立川談志は主観性が余りに強すぎたが為に自分自身が死亡していたか否かと言う事すらも、正しく判断できなかったのだとしている。(ウィキペディアより)確かに主観性の強さから常識では考えられない不可解な行動に走ることは考えられる。しかし、相棒に自身の死を確認させるまで及ぶとは、度が過ぎる。その極端なところが滑稽であり、この落語のテーマでもある。

ある落語家が小学生にこの演目を聞かせたところ、普通の寄席以上に受けて大爆笑だったという。思うに「粗忽長屋」は現在でもあまり違和感を感じない。おそらくこれを英語で外国で演じても共鳴できるのではないか。落語のテーマが限りなく普遍性があると思う。古典であるとともに現代落語といってよい希有な演目といえる。

ところでこの主観性の強すぎた思い込みと突飛な行動は往々にして周辺の人々を惑わし損害を及ぼすことが多い。「慰安婦が強制連行されて性奴隷として虐待された」「低線量被曝でがんになり、奇形児が生まれる」「オスプレイは欠陥飛行機で危険過ぎる」「秘密保護法で暗黒の恐怖政治が訪れる」などなど。勝手に思い込んで反対デモで街中を叫んで行進する。

これが本当かは具体的事実を探り出したり、科学的な検証を実施したりして解明されていく。時には科学的真実が当時の社会で受容されない場合もあるだろう。長期の検証を経て「世紀の発見」と認められることもある。今話題のSTAP細胞、その評価はいかに?



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