粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

古今亭志ん朝「お直し」

2014-07-07 22:47:43 | 落語

個人的な好みで恐縮だが、江戸落語の噺家で一番好きな落語家は古今亭志ん朝(三代目)である。一方上方なら文句なしに桂枝雀だ。二人はほほ年齢が一緒で共に時代の寵児として人気を独占し続けたが、絶頂の最中、病魔に冒されあるいは敢えて自分を絶って突然高座から消えていった。しかし東の志ん朝、西の枝雀という往時の評判は今も色あせていはいない。

枝雀のことはいずれ触れるとして、この志ん朝の落語は江戸落語の理想といってよいほど竹を割ったように語りも明快で話が分りやすい。小気味がいいテンポで緊張感と臨場感が備わっていて思わず、語りに引込まれる。名人芸といわれた父親の志ん生のような天才的な味わいとは違うが、いわゆる落語に肝心な間の置き方は父親譲りだ。

大袈裟な言い方をすると志ん生が古き良き古典落語の大家とすると、志ん朝は現在的な古典落語の集大成者だと思う。現在活躍する江戸落語の噺家で残念ながら彼を超える人物が出ていない気がする。志ん朝の口から闊達な江戸っ子言葉が澱みなく延々と続く。その見事さは天才のゆえか、努力の賜物か、おそらく両方だろう、

動画で最近、彼が若い頃に演じた古典落語の定番「お直し」を鑑賞した。夫の女遊びとばくち狂いで生活に窮した夫婦が(元遊女と客引きの奉公人の間柄だが)吉原でも裏の裏ともいえる怪しい場所で、夫婦それぞれが再び昔の姿に戻って稼業を始める。

といっても一癖も二癖もある客を無理矢理引き入れて法外な金をふんだくるものだ。現代のぼったくりバーにみられる3000円ポッキリがいつのまにか「延長」の連続で何十倍もの料金を請求されていくようなものだ。当時は一本の線香の火が燃え尽きる時間が単位になっていて、線香が代わる度に「お直し」の延長となる。最初遊女に戻ることを嫌がっていた妻だが、そこは化粧も厚くして、客が居残り続けるように心にもない愛想を言って相手をその気にさせようと必至になる。

「お前さんがくるのを待ってたの」「好きな男?そりゃあいるじゃないか、ここにさ」「好きな人だったらうんとぶたれたいよ、半殺しの目にあいたいんだよ」と女の演技はエスカレートしていく。その間に何度も夫の「直してもらいなよ」という「延長」の呼びかけが発せられる。最後は「明後日またくる」という客の言葉に妻は念を押すように「お前さん一人の体じゃないんだよ、あたしというのがいるんだから」と駄目だしの哀願ともなる。

ところが、夫は客から金をふんだくることもせず、妻の「告白」を真に受けて嫉妬に怒り狂う。「馬鹿らしくてやってられない、おまえあいつのかかあになるのか、あんな奴に半殺しの目にあいたいのか?」「おまえさん、やいているのかい」「やいてないけど、やーな心持ちするんだ…」しかし、妻も負けていない。再びこんなことやりたくはなかったのにやたら厚化粧までして客に媚をうるつらさをぶちまける。それには夫も自分の甲斐性のなさを恥じて大人しくなって結局平謝りになる。そして夫が昔の夫婦仲睦まじい頃を持ち出して、妻の機嫌を戻そうとする。妻も昔を思い出して仲直り。その夫婦の愛情劇を帰らずに聞いていた先の客が一言、「直してもらいなよ」

志ん朝は夫婦と客の心の動きを的確に語っている。妻の懸命な演技に冷やかしからその気になっていく客。一度は嫉妬に狂いながら妻を愛おしく思う夫、夫の勝手さに怒りながらも最後は夫の優しさに気づく妻、三者三様の人間模様が一人の演者によって、まるで今のこの場で目撃でもしたような臨場感が演出されている。

一見他愛もない愛情劇であるが、人間の持つ素朴な喜怒哀楽が遺憾なく表現されている。人間の優しさ、悲しさ、可笑しさが。それが緊張感を伴いながらも時に笑いで誘って聞く者を話に引込んでいく迫力は見事だ。この熱演といえる語りはまさに彼の渾身の名人芸といえる。まさに志ん朝の前に志ん朝なく、志ん朝の後に志ん朝なしだ。

 


1 コメント

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おっしゃる通り (NBL)
2017-09-24 12:02:09
全くその通りだと思います。志ん朝師匠は、最高の噺家です。
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