粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

山本太郎候補者の原点

2013-07-10 14:28:21 | プロ市民煽動家

山本太郎候補者(参議院選東京選挙区)が原発事故後およそ2ヶ月後に発したメッセージ動画が今も視聴できる。冒頭「高濃度汚染地域東京から山本太郎です。超高濃度汚染地域にお住まいの福島、東北にお住まいの皆さんこんにちは。」という「挨拶」で始まる。

下手な三流芸人のギャグにしては、度を超していて笑えない。まして「本気」で意識したのならその「純粋」さにはある種恐さを感じる。ただ原発事故からまだ2ヶ月、当時事故の恐怖が強く日本中を包んでいたことを考えるとこんな「挨拶」も当時一般的に特別抵抗感はなかったかもしれない。

しかし彼の心の奥底には、今もこうした東日本への強い「汚染感」が依然支配しているように思える。彼は動画のなかで福島から今すぐにでも避難すべきと訴えている。最近司法の判断が下った郡山こども集団疎開の裁判でも同様のメッセージを発していることで、その認識は現在も貫かれていることがわかる。

さすがに今でこそ気恥ずかしいのかわからないが、彼から「高濃度汚染地域」などといった言葉は聞かないが、今選挙の最中でもその認識が彼の活動の大きな動機となっているようにみえる。いわば「高濃度汚染」が彼の政治活動の原点となっているといえる。

しかし、実際は山本候補者がいうほど福島は汚染されていない。高濃度などというのは現実とかけ離れている。昨日死去した福島第一原発元所長吉田昌郎氏らの献身的な収拾努力によって事故は最小限の影響で抑えられた。強制避難を余儀なくされた旧警戒地域は別として福島では県民が普通に暮らしている。

問題はいまだに福島は汚染されているという、現実とは遊離した間違った認識が一部ながらも存在していることだ。それが福島県民に無用なプレッシャーを与えている。たとえば1ミリシーベルト基準が適用されために除染が進まず日常生活を取り戻すことがなかなかできない。

山本太郎候補者のように「超高濃度汚染」主義を標榜する政治家は野党を中心に少なくない。しかしこれが福島に対する汚染認識であるとしたら、現実を無視した過剰なものであり、とても容認できるものではない。差別でさえあると思う。思い込みの正義ほど恐いものはない。