粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

今日の沖縄、明日の福島

2013-07-27 11:34:01 | プロ市民煽動家

今回の参議院選挙で自民党は本部と県連が政策をめぐってねじれたケースが2県あった。沖縄では普天間基地の移設を本部が県内を決めているのに県連は県外を主張していた。福島では原発廃炉を県連が公約で唱うことを望んだのに対して本部をその点を明らかにはしなかった。

基地と原発は、政治的なイデオロギーも絡んで沖縄と福島の県民を巻き込んでしまっている。県民の本来の意向に反して県民同士の不毛の対立さえ生んでいる。県外の活動家が干渉し、偏向したメディアも加わって問題を複雑化させている。

その背景には基地や原発事故での被害が特に強調され、「被害に苦しむ県民」というイメージが一人歩きしている印象がある。確かに被害が存在にあるが、それが歪められ過大に喧伝される傾向がある。

沖縄の場合、戦時の沖縄戦での惨状や戦後のアメリカ統治、そして現在も続く米軍基地の存在が県民に重くのしかかっている。日本政府もそんな沖縄への贖罪の意味からも振興策の名の下に多額の援助がなされてきた。

復帰から40年以上、既に10兆円に及ぶ巨額の予算が投入されてきたし、その他各種税金の優遇策も講じられてきた。しかし、多くの公共投資が県外のゼネコンや地元一部の建設関連のみにあてがわれるだけであまり県の振興に寄与していない。しかも国からの援助漬けともいえる依存体質が抜け出せない。

反面、反基地闘争に執念を燃やす県内外の活動家たちが、偏向した強力なメディアが加わり反政府的な指向を鮮明にしている。それがもともと根強い県民の反基地感情を刺激させて県民世論が醸成されている。県の行政もこうした外部の圧迫を受けて政策が動かされがちである。普天間基地の移設問題がその典型であり、国の方針とは真っ向から対立する声だけが声高に叫ばられている。。

しかし、そこに住む県民の本音はどうなのだろうか。依然観光や基地での雇用への依存が高く失業率も高止まりで一向に本土との格差は縮まっている実感がない。基地問題も表向きは国の方針には反対であるが、実際冷淡な県民が多いようだ。

今回の参議院選挙でも沖縄選挙区では基地県外移設を強調する候補者が勝利したが、比例区の沖縄票は県内移設を主張する地元候補者が圧倒しているのがその証拠だ。イデオロギーを絡めて基地問題を政争の具にして欲しくないというのが沖縄県民の偽わざる心情ではないか。

国への依存体質と反発、冷淡に見つめる大多数の県民。これは福島の場合もいえると思う。反原発を声高に叫ぶ県内外の一部の主張が県民の総意のごとく、特定のメディアによっては喧伝される。地域の行政もそれに引き込まれる。原発事故の被害者意識が曲解され利用される。国の資金もそうした観点から注がれるが、はたしてそれが福島の真の振興になりえるのか。多くの県民が疑問を感じているのではないかと思う。理不尽な風評被害で日常生活が侵害されていると感じている県民は多い。原発廃炉に関しても驚くほど冷淡である。今日の沖縄が明日の福島になってはならない。