阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

本郷通のニコライ堂前あたりをぶらぶらしてから 秋葉原駅へ向かった

2023年05月27日 | 東京あちこち
 
ニコライ堂の前あたりから幽霊坂を通っていくとすぐに日本家屋が見えた。
 
 
千代田区景観まちづくり重要物件】
      1930(昭和5)年頃 設計者不詳
いわゆる「山の手」だった駿河台は関東大震災後、東京で初めて区画整理が行われて地域です。その際にできた屋敷町の面影を留める貴重な建築物です。
高畠邸は敷地を石垣で巡らした中にある近代和風建築で、屋根は日本瓦葺き・鉄板葺き、外壁は板張りの規模の大きな住宅です。敷地をぐるりと囲む塀は、石垣の上に板と漆喰塗りの壁を乗せ、石垣の途中にはくり抜いたような通用門があります。オフィスビルが立ち並ぶ現代的な景観の中にあって、緊張感と荘厳さを醸し出しています。
神田駿河台は、ほとんどが戦災での焼失を免れており、地域のシンボルであるニコライ堂(明治24年)をはじめ、比較的規模の大きな歴史的建造物が残っています。引用元。
 
ビル街の中に古い日本が残っているようで面白く眺めた。
 
そこを過ぎて昌平橋を渡る手前のガード下の「淡路坂珈琲」でひといき入れてから 秋葉原駅に向かった。
 
 
 
 
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「太平洋戦争に学ぶ日本人の戦い方」という本を購入した。

2023年05月27日 | 乱読は楽しい

図書館サイトで予約を入れようと検索したがまだ図書館に入ってなかったので購入した。題名にひかれて早くよみたいと思った本だ。

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05月26日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年05月27日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

 

 

 

 

 

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東日本大震災が起こった後「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから   [ 2011年04月22日(金)のブログ]

2023年05月27日 | 東日本大震災ブログ
2011年04月22日(金)
福島県南相馬市長の訴え 3月24日撮影ビデオ   

本エントリーは既に4月2日に掲載しましたが、本日の下記の報道を受けて再掲載します。

011/04/22 08:26 【共同通信】影響力ある100人に南相馬市長 米誌、原発対応などで選出 【ニューヨーク共同】

米誌タイムは21日、2011年の「世界で最も影響力のある100人」を発表し、福島原発事故での政府の対応を動画投稿サイト「ユーチューブ」で強く批判した

福島県南相馬市の桜井勝延市長が含まれた。 100人は、タイムが毎年、政治家や科学者、芸術家、経済人などから独自に選出する。

桜井市長は、オバマ米大統領とミシェル夫人や、ミャンマーの民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんらとともに選ばれた。1

00人に順位はない。 一方、一般からのネット投票で選ぶ別の「影響力のある100人」では、福島原発で作業に従事している「福島原発の作業員」が16位に入った。

◎4月2日掲載


⇒「市民は兵糧攻めの状態」 南相馬市、海外に訴え 福島第1原発から半径20~30キロ圏内の屋内退避指示が出ている福島県南相馬市の桜井勝延(さくらい・かつのぶ)市長、

動画投稿サイト「ユーチューブ」で「ボランティアも物資輸送も自己責任で入らざるを得ない。

市民は兵糧攻めの状態だ」と英語の字幕付きで強調し、曖昧な日本政府指示の理不尽さを国際社会に直接、訴えている。

 

同市の屋内退避圏内に自宅のある自営業、中田建一郎(なかた・けんいちろう)さんが企画。中田さんは「被災した市民は残るべきか避難すべきかも分からない。

非人道的な状態が、日本に今あることを知ってもらいたい」と憤っている。

 防災服姿の桜井市長は動画で、東日本大震災による津波や原発事故で「市民が受けた被害は甚大」と指摘。政府や東京電力からの情報不足に人手や物資の不足も加わり、

屋内退避圏内には「交通手段が確保できない住民がたくさんいる」と窮状を説明している。 また屋内退避圏内には「直接入るメディアは少なく

、電話取材が圧倒的で実情が伝わらない」と指摘。「原発事故という見えない恐怖」にさらされる市への支援、協力を求めた。 

動画は約11分で3月24日に録画。政府は25日に屋内退避指示圏内に自主避難を促した。(共同通信)

☆それにしてもどんな重要な内容の事柄であっても、言語に世界共通語になった『英語』を使用しなければ、

この世にそのことが存在したことにならないことの逆証明でもある選出だと思いました。良くも悪くもそういう状況にわれわれこの島国の住人も置かれていることを実感しました。

 
 
 
【福島県飯舘村・現地レポート】
 

持続可能な村づくりを奪われた村
――原子力災害の理不尽な実態――

一部引用・・

飯舘村では20日ごろまでに、自主避難を含めて半数程度の村民が村外に避難していたと見られる。

しかし、原発の状況が落ち着き始めると、家や家畜が心配だったり、仕事があったりして戻ってくる人が増えた。

そんな中、県は放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した長崎大学の教授を村に派遣した。

しかし、彼は村内の汚染状況にかなり差があることや、そこに住み続けるリスクを明確に示さず、「安全」、「直ちに健康に影響はない」と村民の前で断言して帰った。

「子どもが外遊びをしても何も問題はない」とまで言い切ったという。

放射線は目に見えない。まわりにはいつもの春と替わらぬ景色が広がっている。もとより村にはなんの責任もない。

その中で、放射線医療の専門家から安全のお墨付きを与えられ、村民の間には安心感が広がってしまった。

全文はこちら

 
 
放射能汚染に対するロシア女性研究者の助言

政府発表を鵜呑みにせず自分の身は自分で守れ」
チェルノブイリ事故処理班の生存者が語る
凄惨な過去と放射能汚染への正しい危機感

一部引用・・

ソ連では1957年に初めて原子力発電所の事故が起きたがその直後、放射線が水、植物、鳥、動物などに与える影響を研究調査するための研究所が設立された。

私はそこで70年代半ばから約10年間働き、汚染地域の放射線量測定や生物影響に関する調査などを行っていた。そしてチェルノブイリ事故が起こり、

モスクワ政府から研究所の他の科学者13人といっしょに事故処理作業に加わるように言われた。

チェルノブイリでは原発から30キロ圏内を「放射線危険ゾーン」としたが、私の研究所のあったプリピャチはその危険ゾーンの中心部に位置している。

実際、私の研究所の建物の窓から原子炉が爆発炎上するのが見えた。原発の近くには集合住宅があり、庭のベンチに座りながらその光景を見た人もいた。

集合住宅の庭では子供が駆け回ったり、自転車に乗ったりして遊んでいた。近くの川で魚釣りをしている人もいた。

全文はこちら

 
 
被災地の状況を伝える英米メディア

復興のため静かに動き静かに去る そして「レベル7」の意味を静かに語る

一部引用・・

たとえば英紙『ガーディアン』のジャスティン・マッカリー記者は、200年以上前から続く岩手県陸前高田市の醤油老舗「八木澤商店」を取材。

蔵や製造工場のすべてが津波にのまれたこの八木澤商店のことは日本メディアも震災直後からたびたび取り上げてきました。

マッカリー記者は「午後のそよ風に、醤油の香りをかすかに感じる」工場跡を訪れ、「通常の基準で言うならもう存在しないと言える」同社の

、9代目社長となったばかりの河野通洋氏を取材。37歳の河野氏が「今後さらに200年続けるための今はターニングポイント」と再生への決意を語る様子が、

記事中のビデオで観られます。河野氏が話す部分は日本語なので、ぜひご覧下さい。

マッカリー記者はほかにも、「恐ろしい数分間で人生が一変してしまった」被災地の人たちを取材。

記事が紹介するのは、家族を失った子供たちを保護して、「だって当たり前のことでしょう。なんで特別なことのように言われるのか分からない」と話す、

陸前高田市の踊りの先生(日本語の文言は私が、英語から日本語に翻訳)。

あるいは、まだなかなか海を正視できないが、残った船を修理して必ずまた漁に出かける話す大船渡市の漁師。

水産加工業を再開するため、新しい本部に使う被災建物の修復に取り組む同市の実業家。南相馬市に戻って治療を続ける医師。

自ら津波で家を失いながら、釜石市の避難所で食事の用意を続ける姉妹……。

上述した河野社長の表情や声と合わせて、静かにたたずむこの人たちの表情や目線が、日本人の心意気のようなものを静かに、

そして雄弁に、英語読者に伝えてくれる気がします。

本文はこちら

マッカリー記者の現地取材動画 こちら

 
 
原発賛成 世界調査で半数切る

4月21日 21時11分 NHKニュース

東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、スイスの調査会社が、世界47の国と地域で原子力発電の是非について聞いたところ、

賛成する人の割合が49%と全体の半数を下回ったことが明らかになりました。

これは、スイスに本社を置く民間の調査会社、WIN・ギャラップインターナショナルが、先月から今月にかけて、

世界47の国と地域を対象に電話や対面などの形で実施し、3万4000人余りから回答があったとしています。

それによりますと、福島第一原子力発電所の事故が起きる前に原発についてどう思っていたかという質問には、

賛成57%、反対32%でしたが、現在はどうかという質問には、賛成が8ポイント減って49%、反対が11ポイント増えて43%となり、

事故がきっかけとなって、原発に賛成する人の割合が過半数を割りこみ、反対との差も大きく縮まる結果が出たということです。

国別でみると、原発のあるカナダやオランダ、ルーマニアで賛否の割合が逆転して、反対が賛成を上回りました。また中国やロシアでは、

逆転はないものの、賛成が10ポイント以上減り、原発大国のアメリカ、フランスでも賛成の割合が減る結果となりました。

これについて、調査会社は専門家のコメントを引用し、「世論の変化は近い将来、国際的な燃料価格だけでなく、

再生可能エネルギーの市場に影響を与えるだろう」としています。

 
 
福島県双葉町・大熊町の取材写真 by WSJ。

こちら

こちら

不気味な静けさに満ちた原発の町
2011年 4月 18日 21:07 JST  ウオール・ストリート・ジャーナル日本版

【 双葉町(福島県)】コインランドリーの乾燥機の中には、オレンジ色のスエットシャツと緑の作業ベスト、ジーンズ2本が残されており、湿ってカビ臭を放っている。

双葉町は福島第1原発の事故のため避難区域となった8市町村の1つだ

駅近くのレストランには、ベーコンとナスのトマトクリームパスタをはじめとするランチメニューが掲げられている。

洋品店の入り口のドアには5日間の「在庫処分」セールを宣伝するチラシが貼られている。

町の中心を貫く道路上には、白地に青い文字で「原子力 正しい理解で豊かなくらし」と書かれた大きな看板が掲げられている。

だが、福島第1原子力発電所からわずか数キロメートルに位置するこの町では人々の生活がおおむね失われている。

かつて7000人が暮らしていた福島県双葉郡双葉町は、3月11日の震災で福島第1原発で事故が発生して以来、退避を余儀なくされている8つの町のうちの1つ。

事故発生後の数日間に避難した原発から半径20キロ圏内の住民は数万人に上る。日本政府は4月11日、原発から20キロ圏外の一部地域を新たに「計画的避難区域」に指定した。


東京電力は17日、事故収束に向けた作業工程を発表し、6-9カ月で原子炉内の圧力と温度を安全な水準にまで低下させ「冷温停止状態」にもっていくことを目指すとした。

海江田万里・経済産業相は、冷温停止状態になれば避難者の一部は帰宅できる可能性があるとしながらも、全員帰宅は困難であることを認めた。

一方、双葉町の井戸川克隆町長は町に帰れたとしても「何年も先」になると述べた。東京電力は15日、原発から半径30キロ圏内の避難・屋内退避区域の住民を対象に、

1世帯当たり100万円、単身世帯は75万円の補償金を仮払いすると発表した。だが、避難者の一部は金額は不十分であり、一時的なご機嫌取りに過ぎないとしている。

避難区域を東西に走る国道6号線には、警察によって通行規制が敷かれている。原発から半径20キロ圏内については退避指示が出され、

20キロ~30キロ圏内の住民に対しては屋内退避が指示されている。退避指示区域ではパトカーや救急車、消防車が時々巡回を行っている。

退避指示区域への立ち入りは、違法ではないものの、控えるよう強く要請されている。

通りを歩いていた一人の記者に消防隊員が、何をしているんですか、と尋ねた。助手席に座った別の消防隊員の手には放射線モニターが見える。

消防隊員は、ここは立ち入り禁止区域であり危険なため、すぐに立ち去るようにと指示した。

なかには双葉町には二度と戻れない可能性もあるとの認識から、自分たちの荷物を取りに戻るため、通行規制をかいくぐり、狭い裏道から区域に侵入している地元住民もいる。

14日、一人の女性が美しい伝統的な日本家屋に慌ただしく出入りしていた。その女性は自らを「高崎」と名乗っていた。高崎さんによると、

一家は現在約100キロほど内陸にある福島市の親戚の家に身を寄せているが、30分でできる限り多くの荷物を持ち出そうと、夫と娘、義理の父で双葉町の自宅に戻ってきた。

高崎さんは透明の雨合羽に身を包み、フェースマスクとサングラスを着用していた。靴は透明なビニール袋で覆われ、足首の周りはテープで留められていた。

とても急いでいる、と高崎さんは洋服の入ったケースを自動車のトランクに積み込み、腕いっぱいに抱えた冬用のコートを別の見知らぬ人物に手渡しながら言い、

それでもここに戻ってくるのは恐らくこれが最後になるため、持ち出さなければならないものがあるのだと述べた。

私道に大型のスポーツタイプ多目的車(SUV)が止まった。中には高崎さんの夫と娘が乗っていた。二人は金庫を取りに親戚の家に立ち寄っていたという。

二人は急いで自宅から洋服を持ち出した。それが済むと、靴を覆っていたビニール袋と雨合羽を私道に置いてあった手押し車に脱ぎ捨てた。

そして前のドアをロックせずにそのまま走り去った。

原子炉の冷却作業が終息しない限り、退避指示区域の放射線レベルや被害状況がどの程度になるかは明確には分からない。

日本の当局は、現在までのところ放出された放射性物質の量は数十万テラベクレルに上るとしている。これは、

1986年に発生したソ連のチェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質の量の約10分の1に相当する。

主に漏出した放射性物質はヨウ素131で、8日で放射線量は半分になるため、数カ月たてば放射線量はかなり減少する。

だが、国際原子力機関(IAEA)は、福島第1原発から約40キロに位置する福島県相馬郡飯舘村では、半減期が30年に及ぶセシウム137に関して、

許容範囲を超える量が検出されたことを明らかにした。

双葉町の一部地域では、放射線の被ばく量を測定する線量計が1時間当たり10マイクロシーベルトを示していた。

この量の放射線を1年浴び続ければ、防災業務に従事する原子炉作業員や警察官、消防隊員の最大許容被ばく量の2倍近くに達することになる。

これだけの放射線量が検出されたとなると、双葉町の農家にとって米や野菜、花の栽培を再開するのは難しい可能性がある。

双葉町周辺地域には荒廃と絶望感が漂っていた。双葉町と同じく福島第1原発の一部が立地する大熊町では、さらに高い放射線量が検出された。

そこでは、避難した家畜農家が残した牛が痩せ細った状態で通りをふらふらと歩いていた。

ある納屋の中では、少なくとも5頭の牛が柵に鎖でつながれたまま死んでいた。母牛の隣で死んでいる子牛の姿も見られた。

住民の帰宅時期が大きな問題となりつつあるなか、双葉町や大熊町をはじめとする原発周辺地域の状況は今や政治問題にまで発展している。1

3日、菅直人首相の側近の一人が、菅首相が「福島第1原発周辺は10年、20年は住めない」と語ったと発言した。

その後、菅首相はそれを否定し、同側近は発言を撤回した。

だが、この発言に対し、福島県当局は、ただでさえ萎縮している避難者の気持ちに追い打ちをかけかねないとして怒りをあらわにした。

この問題は、菅首相退陣論に拍車をかける格好になった。

原発から数キロに位置する町は荒涼とし、絶望的な雰囲気に満ちている。福島第1原発から約16キロ南に位置する楢葉町では、

スズキ・エイコさん(80)とヨシオさん(48)が政府から避難指示が出ているにもかかわらず依然自宅にとどまっていた。

エイコさんは糖尿病を患っており、震災直前に膀胱の一部を取り除く手術を行って以来おむつを着用しているため避難所では暮らせないと話す。

ヨシオさんもてんかんを持っており、避難所暮らしで症状が悪化することを恐れている。

外に設置されたプロパンガスのタンク1本が彼らにとって残された唯一の燃料だが、それもなくなりつつある。

食料品店は閉鎖され、近隣住民も全員避難してしまっていることから、家族の家で見つけた米やみそ、缶詰めの魚などで食いつないでいるという。

ヨシオさんは「放射能がなくなったら、みんな戻ってくると思う」と述べた。二人は部屋の隅に置かれた小さなテレビで震災のニュースを見ながら日々過ごしている。

ヨシオさんは、原発はここの住民の重荷であり、破壊すべきだと腹立たしげに述べた。

楢葉町議会副議長の山内左内氏は、二人に避難を促したが拒否されたと述べた。避難指示が出されてから数週間、自衛隊員と共に定期的にスズキさん宅を訪れ

、食べ物や水を届けていたという。だが、ここ5日は彼らの訪問は途絶えている。

エイコさんは「ここに残るのが間違っているんだってことは自分でも思っている。でも、どこで死ぬのも同じだ」と述べた。

 
 
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