ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

チャキの償い  藤原咲子

2016-08-23 00:31:23 | Book



上の地図は、藤原てい著「流れる星は生きている」からコピーしました。


この著書の前に出版された「父への恋文」と「母への詫び状」には、満洲からの引揚者の赤子が必ず通過する「栄養失調」が引き起こす、様々な心身の不調が主流となっていて、ご両親さまの凄まじいご苦労に焦点を合わせて書かれていなかったことが、同じ体験者として不満が残りました。(母上と子供3人だけの引揚、そして父上の抑留生活について。)

しかし、この3冊目には力強い筆者が登場しました。
全ての隠されていた筆者の能力が、父母の故郷の幼少期を呼び出し、母親の「流れる星は生きている」の足跡を辿り、父親の中国吉林省延吉市での抑留者としての実態を本気で辿ろうとする筆者がいました。(北朝鮮への旅は、叶いませんでしたが……。)ここに至れば、生来抱いていらした文筆家としての能力を見せて頂いたという思いがありました。ずっと咲子さんの本を追いながら、ここまで読んできてよかったと思います。

以下、長い引用です。
『一回目の訪問も二回目の時も、張さんの店を出ると、私は真っすぐに夕暮れの鴨緑江を黙って歩いた。目の前にある北朝鮮新義州から、わずか四つ目の駅にある宣川。若い母と乳飲み子の私、幼い二人の兄、束の間は父も一緒に過ごした宣川の方角をにらみつけた。向こう岸の新義州は、宇宙のすべての陰を集めた色の緞帳を下して、急速に夕方が近づいていた。あの宣川へ行ってみたい。宣川、平城、新幕、市辺里と三十八度線も越え、開城 京城、そして釜山へと、母が娘の私に残した轍のあとを、真実のあとを歩かなければ私の総括とはならないのだ。母の九十余年の人生が「流れる星は生きている」に総括されているとすれば、母に詫びようとする今、母を知ろうとする今、娘の私が敢然と実行してこそ真の詫び状に近づくのではないだろうか。今、此岸と彼岸の淡い(←間?)を生きる母に、私が命を賭してでも為しえなければならぬことは、母の想いを背に負い、死に直面しながら、赤土の泥沼をもがき、馬糞の臭土から足を抜き歩きつづけることだ。(中略)憤怒の形相で「流れる星は生きている」を走破しなければ謝罪にならないのだ。(中略)中朝国境に立ちいつも思う。今日まで私に生きることへの勇気や気概を与えてくれたのは、奇しくも、反抗しつづけていた母からであったのではないだろうかという現実である。それは母の背にいた引揚げの時からであって、母の熾烈な生への気力を私はすでに習得し、常に私の背を押しつづけてささえられているのだという圧倒的な実感である。栄養失調の奇蹟の赤ん坊と呼ばれたチャキの私は、初めて母によって強くなった脚で仁王立ちになり、旅の途中で諦めなければならないという、たたきつけたい怒りと白黒のはっきりした鋭いメジロの目で、鴨緑江を振り返りホテルへ戻った。その夜、私は気を失うように深い眠りについた。』……引用おわり。

記憶にはないはずの「満洲からの引揚」という歴史的事実を、手繰ることは難しい。私は四歳上の姉の記憶に頼り、その関係の本を読み、父母のメモを頼りに、私は手繰り続けるしかないと思っています。そうして私達の最後の仕事となるのでしょうか。


以下、地理音痴の私のための覚書として。

丹東市(たんとうし)は、中国遼寧省南東部に位置する港湾都市。鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街である。旧名は安東。(張さんの店があるところ。)

宣川郡(ソンチョンぐん)は朝鮮民主主義人民共和国平安北道に属する郡。

新義州市(シンウィジュし)は朝鮮民主主義人民共和国の平安北道の道都。鴨緑江を挟んで中華人民共和国丹東市と向かい合う国境の街である。鴨緑江には中朝友好橋が架かり、中朝交通の要衝となっている。


 (2015年1月5日 初版第一刷 山と渓谷社刊)