いやはや、今更言うほどのことではないが、俳句17文字の世界の解釈は様々である。
家ぢゆうの声聞き分けて椿かな 波多野爽波 『骰子』(昭和61年)所収
まず、声を聞き分けているのは作者自身であり、その声は家族の声であるという設定。
椿は家の外に咲いている。家の内外ということで空間は広がる。
椿自身が声を聞き分けているということは瞬時の幻覚であるという解釈。
その次の解釈は、椿は部屋に活けられている。
筆者自身は病癒えはじめた時期であり、床のなかにいる。
そして家じゅうの声を聞き分けているのは椿であるという解釈。
わたくし自身の勝手な解釈では、筆者は書斎にいる。
その窓辺には椿の花が見える。
家族の声が時折聞こえてくる。
その声の合間に「ポトり」と椿の落ちた音が聴こえる、というのはどうか?
なるほど「俳句17文字の世界の解釈は様々である」ですね。「増殖する・・・」の方も訪問して、「はて」と静かに腕を組んでしまいました。庭があって数人の家族が住んでいる、和風の家屋・・・。そこに、咲いている椿・・・そんな情景が浮かんで・・・。そうです、小津安二郎のセットに笠智衆が座っているような・・・。
Akiさんの感性は、やはり最高だなあ、と感心いたしました。一層のご活躍を・・・^^
「小津安二郎」の世界というのは、まさにぴったりですね。
最近、遅ればせながら俳句がおもしろくなってきました。
詩と俳句は似ているようで似ていない世界ですが、そこを越境する楽しみがわかる年齢に、どうやらなったようです。