すべての獲得されたものを機械は脅かす、
それが服従するかわりに 不遜にも精神の場を占めるかぎりは。
みごとな手のひとしお美しいためらいが もう誇らかに輝かぬようにと
さらに決然たる構築のために 機械はより強烈に石を切る。
いずこでも機械は引っ込んでいず、私たちは一度たりともそれから逃れえず、
そしてそれは静かな工場で油をさされ 分に応じて働いているのではない。
機械は生命なのだ――それは生を最上になしとげられると思いこみ、
同一の決意をもって整え 、作り、そして破壊する。
だが私たちにとって存在はなおも魔力のうちにあり、あまたの地点で
それはまだほとばしる源泉――そして 跪き感嘆せぬ者には触れられぬ
純粋な諸力のなすひとつのたわむれなのだ。
なおも言葉は言いえないものとの接触から出発し・・・・・
そして音楽はたえず新たに もっとも慄えやすい石を積み、
用いることのできぬ空間に その神聖な家を建てている。
(田口義弘訳)
これはすでに繰り返された「機械文明」への批判のうちの1編と言えましょう。「第一部・18」では「聴く力はそこなわれています。」と主に訴えかけ、「第一部・22」においては少年たちに「飛行の試みに心をうばわれないように。」と。さらに「23」「24」へとそれは続いています。ここにきて、その批判は再開します。より強い意志をもって・・・。
この時代はおそらくヨーロッパ全体の経済状態が急速に様変わりして、生産体制もひとの手から、機械へと移行した時代ではないだろうか?科学の進歩には後退はないのだ。
機械は生命なのだ――
ヨハネによる福音書第14章6節などにある、キリストの言葉「私は生命である。」と対比させてみますと、これはキリストの言葉を反語的に表現したのではないか?
また、前半の1連と2連、後半の3連と4連は、対比がみられます。後半では「オルフォイス」を呼び出し、言葉と音楽の世界の再構築を試み、「もっとも慄えやすい石を積み」「神聖な家を建てている」のです。
それが服従するかわりに 不遜にも精神の場を占めるかぎりは。
みごとな手のひとしお美しいためらいが もう誇らかに輝かぬようにと
さらに決然たる構築のために 機械はより強烈に石を切る。
いずこでも機械は引っ込んでいず、私たちは一度たりともそれから逃れえず、
そしてそれは静かな工場で油をさされ 分に応じて働いているのではない。
機械は生命なのだ――それは生を最上になしとげられると思いこみ、
同一の決意をもって整え 、作り、そして破壊する。
だが私たちにとって存在はなおも魔力のうちにあり、あまたの地点で
それはまだほとばしる源泉――そして 跪き感嘆せぬ者には触れられぬ
純粋な諸力のなすひとつのたわむれなのだ。
なおも言葉は言いえないものとの接触から出発し・・・・・
そして音楽はたえず新たに もっとも慄えやすい石を積み、
用いることのできぬ空間に その神聖な家を建てている。
(田口義弘訳)
これはすでに繰り返された「機械文明」への批判のうちの1編と言えましょう。「第一部・18」では「聴く力はそこなわれています。」と主に訴えかけ、「第一部・22」においては少年たちに「飛行の試みに心をうばわれないように。」と。さらに「23」「24」へとそれは続いています。ここにきて、その批判は再開します。より強い意志をもって・・・。
この時代はおそらくヨーロッパ全体の経済状態が急速に様変わりして、生産体制もひとの手から、機械へと移行した時代ではないだろうか?科学の進歩には後退はないのだ。
機械は生命なのだ――
ヨハネによる福音書第14章6節などにある、キリストの言葉「私は生命である。」と対比させてみますと、これはキリストの言葉を反語的に表現したのではないか?
また、前半の1連と2連、後半の3連と4連は、対比がみられます。後半では「オルフォイス」を呼び出し、言葉と音楽の世界の再構築を試み、「もっとも慄えやすい石を積み」「神聖な家を建てている」のです。
第3連、第4連は、いつものリルケですね。現代文明を批評的に歌うということはむつかしいことだと思います。
第3連の「存在」について、Akiはあまり言及しませんでしたね。迂闊でした。