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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

老文学者の言葉

2010-03-15 18:32:38 | Memorandum
 さて、どのように書いてゆけばよいのやら・・・。

 考えをまとめようと思ったきっかけは、NHKの2つのテレビ番組でした。まずは、3月11日PM8:00~9:30、NHKハイ・ビジョンで放映された「作家・大江健三郎」、そして14日PM10:00~11:30、NHK教育テレビの「ETV特集」「吉本隆明語る」という講演を主とした番組で、これを企画したのは「糸井重里」でした。

 前者は司会進行のアナウンサーの問いに答える形でしたので、その制約のなかでのインタビューでしたので、危なげのない結果となっていました。大江健三郎の過去の三部作である
「さようなら、私の本よ!」
「取り替え子・チェンジリング」
「憂い顔の童子」
の続編とも言える「(らふ)たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ」「水死」の2冊を書いた動機とその経過のお話でした。

 しかし、後者は大ホールでの講演が主体でした。吉本が取り上げた先人たちの紹介なども取り込んであって、テレビ番組内では1時間半でまとめられていますが、当然現実には時間オーバーの講演となりました。聴いていてもどかしいのですが、その言葉の裏にある彼の文学者としての長い日々の重さがあると思うので、離れることはできません。長い講演のあとで、ホールの聴衆は総立ちとなって拍手が長く続きました。わたくしも拍手!

 「老人は同じことを繰り返し、若者たちは言うことが何もない。退屈なのはお互いさまだ。」という「ジャック・バンヴィル」の言葉を思い出す。(←ごめんなさ~い。)

 もちろん、このお2人のお話はしっかりと聴きもらすまいとしておりましたよ。しかし大江健三郎と吉本隆明のお話は、今これを書こうと思ったきっかけであって、もっと以前から、もわもわと考え続けていたことに1つの回答を頂いたということなのです。
 ここ数年来(おそらく詩集「空白期」を出したあとから・・・)、「次に何を書いてゆけばいいのだろうか?」と考えていました。年々重なり続ける年齢(あたりまえだが・・・。)の重さ、老父母の死を見守った日々の思い出、生まれでた幼いいのちの輝くような成長ぶり、などなどさまざまなものが入り乱れる日々のなかで。


 吉本隆明(83歳)と大江健三郎(75歳)が、文学的思考の出発点となったものは、ともに「1945年8月15日」の記憶でした。「敗戦」が問題だったのではない。思考の根幹を絶ち切られた吉本青年と大江少年が、なんとかして新たに思考の根幹を獲得して、大地に立たせ、言葉の収穫を待つことに費やされた歳月がともにあったと言うことです。
 その時、お2人はどのようになさったのか?それは過去の古今東西の哲学者、経済学者、文学者の著書を読み続け、音楽家にも学びとろうとしたこと。いきなり前へ歩き出そうとはしなかったということです。そこから考えると、すでに過去の優れた人間たちの思考は今を予感していたのだ。つまり「普遍」とはそういうことでせう。

 ふと詩人清水昶の著書「ふりかえる未来」という言葉が浮かぶ。

 「未来」は追うものではないようだ。過去の豊かな堆肥のなかに根をおろし、幹を伸ばすもののようだ。吉本隆明は「木と根は沈黙である。」とおっしゃる。そして枝先にはためく葉、咲く花、実るものが「言葉」なのだろうか?リルケの「オルフォイスへのソネット」の解釈を続けたことも無駄なことではなかったようだ。


 「この世のどんな些細なことでも予断を許さない。人生はそんな小さなことも、予測できない多くの部分から組み合わされている。」・・・リルケの「マルテの手記」より。