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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・21

2010-02-22 21:55:28 | Poem
歌え わが心よ、おまえの知らぬ園々を、ガラスの器に
注ぎこまれた園にも似て 澄みきった 達しえぬそれら。
イスパハンやシラスの水と薔薇、
歌え それらを歓び深く、称えよ それらをたぐいなく。

示せ わが心よ、おまえがそれらの園なしでいた時のなかったことを。
それらが、そこで熟れてゆく無花果が、おまえを想っていることを。
そこの花咲く枝々のあいだを その顔が見えるほど
昂揚してそよいでいる風と おまえが交わっていることを。

存在することへの すでに生じたこの決意にとって
欠乏があると思うような 迷誤を遠ざけよ!
絹の糸よ おまえは 織物のなかへ歩みいったのだ。

どの図様におまえが内部で織りこまれていようとも
(たとえそれが苦悩の生の1こまであろうとも)
感じるがよい、称賛すべき絨毯の全体が想われていることを。

 (田口義弘訳)


うたえ、わが心よ、おまえの知らぬ庭々を。ガラスに
鋳こまれたように透明で、とどきえぬ園を。
イスパハン、またシラスの園の水と薔薇、
それらの至福を歌え、頌めたたえよ、たぐいない声で。

示せ、わが心よ、それらはるかな園が、たえずおまえに応じたことを。
そこに稔るいちじくがおまえを想ってくれようことを。
その園の花咲く枝のあわいを吹く、さながらに眼に見えるほど
高まる風と、おまえが交わっていることを。

すでに生まれたこの決意、在ろうとする決意にとって
欠乏があろうとなどとは誤ってはならぬ!
絹糸よ、おまえは存在の織目にはいったのだ。

絵柄のどれに内部では織り入れられているにせよ、
(よしんばそれが苦痛の生の一瞬であろうとも)、
感じるがよい、頌むべき絨毯の全容が意図されてあることを。

 (生野幸吉訳)


 イスパハン(イスファハン)はイランの都市。同市にあるアパス大王によって建てられたモシューには水の流れる庭園があります。シラスもイランの都市ですが、ここには名高い薔薇の庭園があります。ここには詩人ハーフィスの墓所もあります。また「薔薇水」や「絨毯」の産地でもあります。

 ハーフィスはゲーテ(リルケと間違って書いているのではありませぬ。笑。)に大きな影響を与えた詩人であり、これによって「西東詩集」が生まれています。


 さまざまな遠い呼びかけの場所として、リルケはそこを「園」と名付けています。「園」は人間と関連しつつ、しかしこの地上にある身としては、そこに至ることはできない。ただその領域を感じつつ歌い続けるのみなのだ。ここを「イスパハン」と「シラス」の園に重ねています。そのはるかな場所から風が届いている。その風と交わることによって自らの存在を知るのでしょう。

 第3節から、リルケのこのソネットによくみられるように、「園」から「絹」「絨毯」への急展開が行われています。リルケの言う「全体」とは「生」と「死」を合わせ持つ統一世界であり、さらに現実と創造(想像?)との双方を合わせ持つ世界なのでしょう。

 自らの存在が絹の糸の1本が織り込まれたような存在であったとしても、「絨毯」という全体のなかにおいて、自らもまたその全体に関わり、織り込まれているのだと。


 《追記》

アンテピレマ(語りかけ三たび) ゲーテ  柴田翔訳

敬虔なる眼差しで
永遠なる織女の傑作を見よ。
足をひとたび踏めば千の糸が動き
左へ右へ杼(ひ)が飛び
糸と糸とが出会い流れる。
ひとたび筬(おさ)を打てば千の織り目が詰められる。
織女はそれを物乞いして集めたのではない
彼女は経糸を太古の昔から機に張っていた
永遠の巨匠が横糸を
安んじて投げることができるようにと。

オルフォイスへのソネット第二部・20

2010-02-16 16:43:57 | Poem
星と星のあいだの なんという遥けさ、しかしなんとさらに遥かなことか、
ひとがこの地上の生で知ってゆくことは。
だれかあるひとり、例えばひとりの子供と・・・・・・すぐ隣りの人、もうひとり――
おお なんと捉えがたいその隔たり。

運命、それはおそらく実在の尺度で私たちを測り、
だからそれは私たちには疎ましくみえるのだろう、
そう、少女と男とのあいだにはなんと大きな隔たりがあることだろう、
少女が彼を避けしかも想うとき。

すべては遥かだ――そして円環の閉じるところはいずこにもない。
皿のなかを見るがいい、はれやかに用意された食卓のうえで
魚たちの顔が奇妙だ。

魚たちはもの言わぬ・・・・・・とかつては思われていた。そうだろうか?
だがついに、存在しないだろうか、魚の言葉かもしれぬものが
魚なしに語られるひとつの場所が?

 (田口義弘訳)


星のあいだの、なんという隔て。しかも地上で習いおぼえるものは、
さらにどれほど隔たっていることか。
たとえば、だれか、ひとりの子供・・・・・・そして次の人、さらに次の人――。
おお把握をこえたそのはるかな隔て。

運命、それはわれわれを、おそらくは存在の尺度で計る、
だから運命はしたしみがたい。
少女と男性のあいだひとつ測ってみても、なんという距離があるのだろう、
少女がかれを避け、しかも慕うときには。

すべてが遠い――、そして円弧はどこにも閉じない。
みよ、はれやかにしつらえられた卓上の皿に、
魚の表情はいぶかしい。

魚はことばをもたぬ・・・・・・、以前はそう考えられた。だが、どうなのか?
結局は、魚の言葉かもしれないものを
魚を介さずに話しあう場所がありはしないか?

 (生野幸吉訳)



 なんとか翻訳詩を1編だけにしたいのですが、たったお2人の翻訳でさえ、こうも違い(大意は同じようでも、翻訳に移される時の言葉が微妙に違います・・・)があるのでは、どうしても書かなければなりません。この違いを思う時、できることならば5人くらいの翻訳詩を読まなければならないような気がします。


嘆き リルケ・富士川英郎訳 「形象詩集・1902~1906」より。

おお なんとすべては遠く
もうとっくに過ぎ去っているこだろう
私は思う 私がいまその輝きをうけとっている
星は何千年も前に消えてしまったのだと
私は思う 過ぎ去っていった
ボートのなかで
なにか不安な言葉がささやかれるのを聞いたと
家のなかの時計が
鳴った・・・・・・
それはどこの家だったのだろう?・・・・・・
私は自分のこの心から
大きな窓の下に出ていきたい
私は祈りたい
すべての星のうちのひとつは
まだほんとうに存在するに違いない
私は思う たぶん私は知っているのだと
どの星が独りで
生きつづけてきたかを――
どの星が白い都市(まち)のように
大空の光のはてにたっているかを・・・・・・


 この作品「嘆き」はソネットの約20年前に書かれたものです。リルケの詩作には生涯にわたって、同じテーマを繰り返し書き直し、あるいは書き続けたという特徴がそこここに見られます。

 
 星と星との途方もない距離に詩人が賛嘆を送る時、それは人間存在同士のはるけさを否定的に照射することになってしまう。いささか誇張とも思えますが、これも詩人リルケの特徴とみてもいいのかもしれません。

 「少女」と「男」との間にある隔たりと愛とは、人間同士あるいは男女の仲に共通してあるもので、そのすべてを示しているのかもしれない。その隔たりゆえに「関連」は「円環」を完成させることはできない。

 そして突然に、テーブルの上の皿の「魚」に飛躍してしまうのはなぜか?「魚」は言葉を持たぬものであればこそ、遠い距離を隔てていても通信可能な「言葉ではないなにか」を持ちつづけているのではないのか?「魚の言葉ではない言葉」を、オルフォイスの歌と同一化することも間違いではあるまい。しかし、このソネットでは断定を避け、全体を疑問符でつくりあげた、その慎重性を見つめる方がいいのかもしれません。

オルフォイスへのソネット第二部・19

2010-02-12 23:08:04 | Poem
黄金はどこかの甘やかす銀行に住んでいて、
幾千の者たちとなれ親しんでいる。だが、
あの盲目の男、あの乞食は、十ペニヒ銅貨にとってさえ
さながらひとつの失われた場所、戸棚の下の埃っぽい片隅だ。

軒をつらねる商店で 金銭はいかにも居心地よさそうで、
もっともらしく絹に 石竹に そして毛皮に仮装している。
彼は、あの沈黙の男は、しかし立っている。
眠っても覚めても呼吸している すべての金銭の呼吸のあわいに。

おお 夜にはなんとそれは閉ざしたがるのだろう、この常に開いている手は。
朝には運命がそれを連れもどし そして日毎に
差し出すのだ、明るく みじめに 限りなく跪く。

けれどもだれかが、観ることのできる者が、ついにはその長い存続を
驚嘆しつつ理解し 讃めたたえるよう! 歌う人にのみ言いうる言葉で。
神にのみ聴き取れるように。

 (田口義弘訳)


どこかしら、甘やかす銀行に金(きん)は住んで、
幾千の人と忸(な)れなれしい。しかしあの
盲目の乞食は、銅の十円貨にとってさえ
見放された場所、箪笥の下の埃まみれの一隅にひとしい。

立ちならぶ商店の窓また窓で、銭(かね)はわが家のようにくつろぎ、
体裁ばかりはかがやかな絹、石竹(カーネーション)、毛皮をもって変装する。
そしてあの沈黙の男は、寝てもさめても喘いでいる忙(せわ)しい銭の
ふとした息のたえまに立っている。

おお、夜闇とともにどんなに閉じたいことか、この、いつも開かれている手は。
あすはまた運命がこの手をつれてゆき、そして日ごとに
さしのべさせる、明るく、みじめに、かぎりなく脆げに。

しかしだれかが、真に観る者が、ついにこの手の長い忍耐を
驚嘆をもって理解し、頌め讃えるとよい。ただうたう者にだけ言えることばで。
ただ神にだけ聞こえる言葉で。

 (生野幸吉訳)


 このソネットは貨幣経済世界のなかで、貧しき者が富める者になれるように、という願いのもとで書かれたものではない。平等に修正された世界ではなくて、すべてのものを持っておられるであろう神が、さまざまな変種的存在が絶えることのないようにと配慮しているのではないか?ということではないか?

 貧しき者と富める者の尺度は、貨幣によって測られるものではなくて、リルケはもっと別の純粋な尺度で測ろうとしたのだろう。

 貨幣経済の人間の喘ぎの合間にあって、いつでも静かに開かれている盲目の乞食の手は、夜の闇のなかで静かに閉じることを願っていながら、朝になれば、また開いて差し出し、跪いているのだった。この静かな乞食の姿は「歌う人にのみ言いうる言葉で」(←これはオルフォイスに託された?)「神にのみ聴き取れるように。」届けられるのだろうか?

オルフォイスへのソネット第二部・18

2010-02-07 23:53:54 | Poem
踊り子よ――おお おまえは 過ぎ去るすべてを
進行に転置するもの、なんとおまえはそれを奉献したことだろう。
そしてあの最後の旋回、運動からなる樹木、
それは昂揚しつつ果たされた一年を すっかり自分のうちに収めはしなかったか?

その静寂の梢は おまえのそれまでの振動の波がいまやそのまわりをめぐるよう、
ふと花咲いたのではなかったか? そしてその静寂の上方で、
それは太陽ではなかったか、夏ではなかったか、そこにただよう熱、
おまえの内部からあふれる無量の熱は?

だがそれは実を結んだのだ、おまえの陶酔の樹は。
あれらがその樹の静かな結実ではないのか――熟れながら
縞の模様を帯びていったあの水差しと、またそれよりも熟したあの花瓶とは?

そしてその絵のなかに――残ったのではないか、
おまえの眉の暗い弧がすばやく
みずからの転回の壁に描いた線が?

 (田口義弘訳)


踊り子よ、過ぎゆくすべてを
足どりに転位するものよ。ああ、犠(にえ)に捧げるような身ぶりで。
そして終止の旋回、運動からできた樹。
この樹は振動によって得た一年をそっくり持ちはしなかったか?

おまえの振動が、なおも恍惚と取りまくのは、
静寂の梢が、にわかに花開くためではなかったか?そしてそのしずけさの
真上にかかる太陽は、夏は、おまえの身内からのぼる
無量の熱ではなかったか?

しかもこの樹は実さえ結んだ、おまえの恍惚の樹は果実をつけた。
あれはこの樹にみのったおだやかな実ではないだろうか、豊かに熟れながら
縞を引かれた水差しや、さらに熟れさらに多くの輪をもつ花瓶は?

そしてそれらの壷絵のなかに、おまえの眉の黒い走りが
みずからの転回の壁にすばやく描いた
素描がのこってはいないだろうか?

 (生野幸吉訳)


 さてさて、なんともこのソネットは、お2人の翻訳を並べてみても、「比喩」ではなくて「飛喩?」の連続ですねぇ。これらの根幹をなしているものは「舞踏」であり、それを取りまく空間世界の変化を書いているのでせう。

 「舞踏」におけるクライマックスは「旋回」です。それが「樹」に喩えられています。踊り子の「旋回」が止まっても、その「振動」と「熱」によって、、梢の花が開く。そして実が。。。季節はまさに夏となり、その熱さえも踊り子のからだから立ちのぼるものだったのでした。


縞の模様を帯びていったあの水差しと、またそれよりも熟したあの花瓶とは?

縞を引かれた水差しや、さらに熟れさらに多くの輪をもつ花瓶は?



 そこから何故「水差し」や「花瓶」に結びついてゆくのか?「熟れる」は「ひだ(線)をつける」「たがをゆるめる」との両方の意味がかかっているとのことです。そして次には「絵画」の素描らしきものが描かれる・・・・・・。ここでリルケに思い出された絵画や彫刻があるのではないか?


  *    *    *


 1870年代、古代ギリシアのボイオティア地方にあった都市国家タナグラの街道沿いの墓所から、何千体ものテラコッタの小像が発見されました。それまで、人々の関心を引くことがなかった類似する様式のギリシアの小像も、この地名にちなみ、タナグラから出土したものでなくても、一般的に「タナグラ」と呼ばれるようになります。タナグラは19世紀末のパリを熱狂させ、多くの芸術家のインスピレーションの源ともなりました。そのうちの1点がこの画像の「ティトゥーの踊り子」です。リルケの詩集「新詩集・1907~08」のなかにはこのような詩が書かれています。


タナグラ人形   リルケ(富士川英郎訳)

偉大な太陽に焼かれでもしたような
ささやかな素焼きの土人形
それはまるで ひとりの
少女(おとめ)の手のしぐさが
ふいに永遠のものになったかのようだ
何をつかもうとするのでもなく
彼女の感情のなかからぬけだして
何かに向かってさしのべられているのでもない
下顎に触れようとする手のように
それはただ自分自身にふれているばかり

私たちは人形の一つひとつ
取り上げては 廻してみる
私たちはほとんど理解することができるのだ
なぜこれらの人形が消え失せていかないかを――
けれども私たちはただ
一層深く 一層すばらしく
「消え去ったもの」に愛着をもち
そして微笑しなければならない たぶん
去年より少しばかり明るい微笑を


 *    *    *


「オルフォイスへのソネット第二部・17」が、ポール・ヴァレリー「樹についての対話」の影響を大きく受けているように、この「18」は同じくポール・ヴァレリーの「魂と舞踏」の影響を受けています。

オルフォイスへのソネット第二部・17

2010-02-03 16:13:57 | Poem
どこに つねに歓び深く水流されているどんな園々で、
どんな樹々に、どんな優しく花びらの散り落ちた蕚から
実るのだろうか 慰めの見なれぬ形の果実らは?これらの珍らかな果実の
そのひとつを 時としておまえの貧しさの

踏みにじられた草地に見いだすだろう。そのたびに
おまえは感嘆する、その果実の大きさ、
その無傷なありさま、その果皮の柔らかさに、
そして鳥の粗忽も 這い虫の妬みもおまえに先んじてそれに

触れていることに。しかしいったい存在するのだろうか、飛びかう天使らに囲まれ、
隠れた緩慢な庭師らによっていかにも不思議にはぐくまれ、
私たちのものになることなく 私たちのために実を結ぶ樹々は?

私たちはついぞできなかったのだろうか、影であり翳りである私たちには、
私たちの性急に熟しそしてまた萎える振舞いによって
あの悠揚な夏々の平静を乱したりすることは?

 (田口義弘訳)


どこに 常住幸福の水の流れるどの園に、どの
樹々に、やさしく花びらを落としたどんな蕚に、
なぐさめの、異形の果物はみのるのだろう?この
うましい実の一つを、君の貧困の踏みにじられた草地に、

君もたぶんは拾うだろう。みつけるたびに
君はこの実の大きさや、無傷のさまや、
果皮の柔らかさに感嘆し、
鳥の気まぐれも、根を匍(は)う虫のねたみも、

君に先んじてこの実を痛めなかったことにおどろく。飛天使たちにとりかこまれ、
姿をみせぬ、悠々たる庭師らに、こうも珍かに育てられ、
わたしたちのものではないのに、わたしたちを担いうる樹が、ほんとうに在るものなのか?

影めいた、雛形めいたわたしたちは、ときならず早熟し、
また萎えはてる挙措によって、
あの沈着な夏々の平静を、阻害することはなかっただろうか?

 (生野幸吉訳)


 「どこに」「どんな園々で」「どんな樹々に」「実るのだろうか」という問いかけではじまるが、リルケは答えを出してはいない。むしろ、その問いかけのなかで、「無傷な果実」の在り処がおのずからあらわれる、という構造になっているのではないか?これはあきらかに「詩」の成しうる仕事ではないか?

 このソネットの背景は「なぐさめ」ではないだろうか?その「なぐさめ」は夢想される果樹園ではなく、踏みにじられた草地に見いだすのであろうか?

 その果樹園において、鳥や虫そして人間の触れることのできないところ、飛び交う天使に囲まれ、不思議な庭師(おそらく神であろう。)によって育まれて、実を結ぶその樹々を、見出すことはできないだろう。

 夏の平静のなかにいてすら、人間は早急に熟し、萎える存在であり、影を持つ存在であるかぎり、その果樹園に辿りつくことはできない。このソネットは、ソネット集中で最も長いセンテンスとなっています。

オルフォイスへのソネット第二部・16

2010-02-01 21:56:41 | Poem
くりかえしわたしたちが掻き裂くのに、
それでもこの神は快癒する傷。
わたしたちは鋭い刃だ、知らずにはやまないから。
しかし神ははれやかで、世界に分かたれている。

純粋な、祓(きよ)められた捧げ物をすら
神はとらわれぬ終末に
身うごきもせず向かい立つほかに
受けとるすべを知らない。

この世の耳に聞かれた泉を
うつつに飲むのは死者だけだ、
神が無言で合図をおくるとき。

わたしたちに与えられるものは騒音ばかり。
しかし仔羊はその鈴を
もっと静かな本能によって乞い受ける。

 (生野幸吉訳)


くり返し私たちに切り裂かれつつ、
あの神は治癒する場所。
私たちは鋭い切っ先、知ろうと私たちが欲するゆえに。
だが彼ははれやかであって、分かたれている。

純粋な聖められた捧げものさえ、
彼はその世界のなかへ受け容れる、
いつもその奉献の自由な先端に
心動かすことなくあい対して。

ただ死者だけが飲むのだ、
私たちはその音しか聴こえない泉の水を、
神が無言で、彼に、死者に合図するとき。

私たちに与えられるものは騒音ばかり。
そして仔羊が鈴を乞い受けるのは
より静かなその本能によることだ。

 (田口義弘訳)


 「第一部・26」の最後の2行をふたたび思い出してみよう。


敵意がついにあなたを引き裂いて 遍在させたからこそ、
私たちはいま 聴く者であり、自然のひとつの口なのだ。



 オルフォイスはマイナデス達の嫉妬によって引き裂かれて、遍在させられてしまったけれど、それ故にこそオルフォイスはどこにいても歌う神として存在し続けることになった。「治癒(快癒)する場所」とはそういう意味であろう。
 それに対して、私たち人間は「知りたい。」という要求の鋭い切っ先にすぎないのだろう。「第一の悲歌」にはこう記されています。


生きている者はみな
あまりにもきびしく生と死を区別する



 前記の意味によって、第1節の「神」は神話としての「オルフォイス」だが、第2節&第3節の「神」は、宗教的な意味での神を指しているのではないだろうか?という思いがあります。

 田口氏の「注解」には、1913年パリでリルケが「神の返愛について」という講演をしていますが、その草稿のなかには以下のような「スピノザ」の「エチカ」からの引用があると記されています。


 神はいかなる受動にもあずからず、またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。
  (「スピノザ」の「エチカ」より。)



 ここで、生野訳が「身うごきもせず」であり、田口訳が「心動かすことなく」となっている理由も見えてきます。そして、神の無言の合図で泉の水を静かに飲むのは死者たちだけで、生きている者たちの耳に聴こえてくるのは騒音だけ。。。


 そして、唐突に仔羊と鈴が登場します。なぜか?羊や牛は静かな鈴音のする首輪をつけてもらってからでないと、安らかに牧場へ出ていかないという、ある村の司祭の話が参考として提出されています。

オルフォイスへのソネット第二部・15

2010-01-31 22:49:06 | Poem
おお泉の口よ、与える者よ、
尽きずに1つのことば、純粋なことばを語る口よ、――
流れる水の容貌によそおわれた
大理石の仮面よ。そして背後には

はるかからくる古水道の由来が。はるかに
墓地のかたえを流れ、アペニンの勾配から
水道はおまえに言葉を運んでくる。水は
やがておまえの顎(おとがい)の黒ずんだ老年をつたい、

前の水盤に落ちてゆく。
これは眠りながら地に当てられた耳。
おまえが物を言いかける、大理石の耳。

大地の耳の一つ。こうして大地は
おのれ自身とのみ語りあう。ふと水甕が漬けられるとき
大地は会話を遮られたかと思う。

 (生野幸吉訳)

 「はるかからくる古水道」はアクヴェドクト。ローマ時代に作られたもの。今なおイタリア、スペイン、フランスなどに残っている。

 「水甕が漬けられる」は「浸けられる」ではないか?



おお 泉の口、与えるもの、口よ、
尽きせずひとつのこと 純粋なことを語っている――
おまえは、流れる水の顔がまとう
大理石の仮面。そして背後には古水道の管の

来し方はるかなつらなり。その水道は遠くより
墓地また墓地のかたわらを通ってアペニンの斜面から、
おまえのおまえが言うための言葉を運んでくる。
それはおまえの顎(あご)の黒ずんだ年暦を伝って

前方の水盤のなかへ注ぎこむ。
これは眠りながら差し出されている耳、
その大理石の耳のなかへ おまえはつねに語りかける。

大地のひとつの耳。大地はそうやって
自分自身とのみ語る。甕が水のなかに入れられると、
大地には話を妨げられたようにおもわれる。

 (田口義弘訳)


 前記の「第二部・14」では「花」の「無音の運動」に触れたのち、この「15」ではふたたび「聴覚」の世界に引き入れられます。

 遠い過去のような場所である、さまざまな墓地のほとりを流れ、アペニン山脈(イタリア)の斜面を下ってくる水は、町々の古水道のはるかな連なりを通って、この古い泉に注がれる。その連続する水音を聴いているのは「大地の耳」としての「泉の水盤」だと。

 大理石の仮面の口から、耳の形をした水盤に絶え間なく注ぎこまれる水ということを思い描くと、一枚の古い写真あるいは絵画を観る思いがします。これはローマあたりにある泉ではないか?

 第1節から第3節まで「おまえ」と呼びかけられているのは「泉の口」であり、第4節には「おまえ」と呼びかけられているものはいないが、「大地」の話を妨げた人に対して語っているのではないか?しかしこの妨げは、すぐに回復してしまうもので重要な存在ではないだろう。

 「14」に続き「15」でも「眠り」がうたわれています。ようやくリルケがこのソネットにおいて繰り返し描き出そうとした世界が見えてきます。「オルフォイス的空間・・・・・・と言えばいいのだろうか?」のなかでは、聴くものは同時に歌うものであり、眠って(あるいは死んで・・・)いるものも同時に聴いているものとなるのだろう。そのようにして「生」と「死」はいつでも統一された世界に在るのだと?

オルフォイスへのソネット第二部・14

2010-01-29 23:01:15 | Poem
見よ 花たちを、この、地上に誠実なものたちを。
私たちは運命の縁から かれらに運命を貸しあたえる――
けれども 誰が知ろう!かれらがその凋衰を悔やむとき、
私たちこそ かれらの悔いとなるべきなのだ。

すべてのものは浮かび漂おうとする。それだのに私たちは重石のように徘徊し、
すべてのもにのしかかる 自らの重みに陶然として。
おお 私たちはなんと物たちを衰えさせる教師なのだろう、
物たちには永遠の幼時が恵まれているのに。

もしもだれかが物たちを親密な眠りのなかへともない
かれらとともに深く眠るなら――おお どんなに軽やかに、
別の仕方で別の日へと目覚めることだろう、共通の深みから。

それとも眠ったままでいられるかもしれぬ。すると物たちは花咲き、
かれらへと転向してきた者を讃えるだろう、いまやかれらとひとしくなり、
草地の風のなかのすべての 静かなきょうだいに近しくなった者を。

 (田口義弘訳)


花たちを見よ、この現世に誠実に仕えるものを。
われらは運命のふちから、花に運命を藉(か)す、――
だが、だれが知ろう!花がその凋落を悔いるとき、
かれらの悔いは、われわれの負いめとなる。

物はみな漂うのを好む。そこにわれらは重石のようにうろつき回り、
すべての上にのしかかる、おのれの重さに恍惚として。
おおわれわれは、物を食いつくすなんという教師だろう、
物たちには永遠の幼児期が恵まれているというのに。

かれらを恋おしい眠りへ伴い、抱きしめたまま
深く眠れば、――次の日、共寝の深みから、
人はどんなに軽やかに、別の姿で目ざめることか。

それとも人は眠ったままでいるかもしれぬ。そして花たちは咲き、
今はかれらにひとしくなったこの改心者を讃えるだろう、
牧場の風にそよぐ、すべての静かな姉妹らに等しい者を。

 (生野幸吉訳)


幼年時代を持つということは、
一つの生を生きる前に、
無数の生を生きるということである。


 ・・・・・・という、リルケの言葉を最初に思い出しました。リルケの花たち物たちへの思いは深く、独自の空間世界をつくっているようです。「第8の悲歌」ともおおきく響きあっているようです。


われわれはかつて一度も 一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことはない。



 さらに「時祷書」のなかにも、このソネットによく似た詩があります。


私はいつも警告し、防ごうとする――「近づいてはいけない」と。
物らの歌に聞きいるのが、私はたいへん好きなのだ。
きみたちは物らに触れる――かれらはこわばって沈黙する。
きみたちは物らをみな殺してしまうのだ。



 そうして花々や物たちは純粋な空間に無限に上昇してゆくと・・・。この「上昇=aufgehen」は「咲く」という意味と「消える」という意味もあるらしいのです。このような空間を人間は一日たりとも手にしたことがない。
 それだけではなく、人間は「花々」や「地上に誠実な物たち」の運命を手折り、触れることによって、そのいのちを殺してしまうのだ。それらには「永遠の幼時」が与えられているはずなのに。人間は重い罪を犯し続けている。

 「重石」ではなく、花々や物たちと共に「ただようような関連」のなかで、眠ることができるなら・・・そして豊かな深い眠りをくぐりぬけて、別の朝に目覚めることは可能だろうか?とリルケは問うのだ。
 「眠り」は「死」と兄弟であり、このソネットの終わりには「眠りとしての死」までが語られているのだった。


  「明けきらぬ朝」

オルフォイスへのソネット第二部・13

2010-01-25 20:56:54 | Poem
あらゆる別離に先んじよ、別離がちょうど今
過ぎてゆく冬に似て、君の背後にあるかのように。
いくたの冬、その一つこそ、限りない冬であり、
その冬を凌ぐなら、君の心は総じて耐え忍ぶ力を得よう。

つねにオイリュディーケのなかに死してあれ――、さらに歌いつつくだりゆけ。
さらに賛めつつ純粋の聯間(れんかん)のうちにもどりゆけ。
ここ、地上の消えゆく者らの間、傾きの国のなかで、
ひびきとともに身を打ち砕く、鳴りひびくグラスとなれ。

在れよ、――そして同時に非在の条件を知れ、
君の心の切々たる振動の限りない根拠を知れ、
この一度しかない存在に、あますなく振動をとげんがため。

充溢した自然の、用いられた貯えにも、鈍く黙した
貯えにも、――それら言いしれぬ総計に
歓呼して君を加算せよ、そして数を絶すよ。

 (生野幸吉訳)


すべての別離に先立って在れ、あたかもそれが
いま過ぎてゆく冬さながら、おまえの背後にあるかのように。
なぜなら もろもろの冬のうちのひとつこそ限りない冬、
その冬を凌ぎつつ おまえの心は総じて堪えとおすのだから。

つねにオイリュディケのうちに死んで在れ、いよいよ歌いつつ昇り、
いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。
ここ 消えゆく者たちのあいだ、傾きの国にあって、
響きつつすでに砕いた鳴りひびく玻璃で在れ。

在れ――そして同時に非在の条件を知れ、
おまえの心の切実な限りない根底をこそ、
このただ一度の生においてその振動を完全になしとげるため。

ゆたかな自然のすでに用いられた貯えと
鈍く無言な貯え、またその言い表わせぬ総計に、
歓呼しつつおまえ自身を数えいれ そして数を消し去れ。

 (田口義弘訳)


いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。

 後期のリルケにとって深い意味を担うものは「関連」だと思われます。リルケは「所有」の代わりに「関連」を学びとることに言及しているようです。「関連」とは、存在者同士が「利用」から開放されて、ただ本質的存在として照応しあい、さらに時間と空間からも自由な内的状況でしょう。これは「星座」に例えることもできようか?
 こうして「純粋な関連」とは、死者たちの世界、あるいは眠りや夢の世界に似たものとなるのでしょうが、それは「オイリュディケ」の死にゆだねられている?

 このソネットでは「在れ」という命令形が3度記されています。これは「非在」を認識しつつ「存在」する者のみが知る精神の振動の振り幅にも思えます。玻璃が砕けるような痛ましい振動の・・・。自然の豊かさのなかでは、人間は数値化される存在にはならないのですから。


  *     *     *


 ここまで読んできましたが、お2人の翻訳とさまざまな歴史的証言の正確さについては、頭が下がる思いです。このお2人の「注解」なしでは、これらのソネットを読むことはできなかったことでせう。いやいやまだまだ理解したとは言えないことでせう。しかししかし大変失礼ながら、ドイツ語を日本語の詩として置き換えることの困難さが見えてきます。翻訳された日本語が硬質すぎるのです。(←生意気で申し訳ありませぬ。)
 「オルフォイス」も男性、詩人も男性、翻訳者も男性、読むわたくしは一応「女性←あんまりお利巧ではないわたくし・・・。」です。この距離がなかなか埋まりません。最後まで多分この気分を引きずってゆくのかもしれません。ああ~。

オルフォイスへのソネット第二部・12(続)

2010-01-23 16:03:34 | Poem
変身を欲せよ。おお、つねに炎に感激せよ、
その炎のなかで変容を誇るかに物は君から遠のく。
地上を統(す)べる、かの企図画的な精神は
図形の高揚する弧のうちで、回転点をなによりも愛している。

閉ざして停滞するものは、すでに凝固のうちにいる。
みすぼらしい灰いろの保護色をよそい、身を安全と妄想するのか?
待て、遠くから最も固い何者かが、硬(こわ)ばることを警めている。
災いなるかな――、不在のハンマーが振りあげられる!

泉となってそそぐものだけ、認識は認知する。
そして嬉々として認識はかれを伴(つ)れ、はれやかな創造物の間をみちびく。
しばしば発端とともに終わり、終結とともに始まる創造の。

すべての幸福な空間は別離の子か孫であり、
かれらはその空間を驚嘆しつつ通ってゆく。そして変身したダフネは
わが身を月桂樹のように感じてから、君が風に変わることを願っている。

 (生野幸吉訳)


「第二部・12」を理解するために、生野幸吉訳を追加しました。


図形の高揚する弧のうちで、回転点をなによりも愛している。

 オルフォイスの世界の連関(ベツーク)は、純粋な図形(フィグール)となって見られる。「第一部・11&12」にはこのような関連があるようです。

(11の4連目)
星と星との結び合い、それは眼のまどわしなのだ。
とはいえ今しばらくは、図形を信ずることを
よろこびとせよ。それで足りよう。

(12の1連目)
われらを結びたがる精霊に幸あれ。
まこと、われらはさまざまな図形に生きる。
そしてわれらは真の一日と並び、
時計は小きざみの足であゆんでいる。


泉となってそそぐものだけ、認識は認知する。

 「認識」あるいは「承認」でもよいが、これは神の承認ではないようです。
 

  *    *    *


 昨夜は、この詩篇に悩みつつベッドに潜り込み、気分を変えようと「ヴァレリー」(・・・・・・と言っても、この詩人からリルケは大きな影響を受けていますが・・・。)の詩集を読んでいましたら、なんとも驚きました。まるでわたくしの迷い児のような気分を導くかのようにこの詩に出会いました。これもソネットだということも嬉しい一致でした。


オルフェー   ポールヴァレリー・旧詩帖より

天人花の木叢の下に、オルフェーを俺は心に構成する、
驚異の人だ・・・・・・純粋な虚空円形劇場から 火が落下する。
火は 禿山を 荘厳な戦捷牌の相(すがた)に変え、
其処から 神の鳴り響く行為(しわざ)が天に立ち昇る。

若しこの神が歌うなら、絶対至上の風景を崩壊させる。
太陽は 不動の石の運動の恐怖を眺める。
未だ嘗つて聞かぬ嘆きが、聖殿の 諧調的な
黄金の 燦々と耀く高い光の壁を 喚起する。

神は歌ふ、光の眩い天空の縁に坐って、オルフェーは。
巌は 動き、よろめいて、妖精と化した石は 一々(ひとつびとつ)
碧空に向かって熱に浮かされて 新しい重さを感じる。

半(なかば)裸体の大寺院の夕暮が 光の飛躍を水に涵(ひた)して、
神その人は、金色の光の中で、竪琴の上に、偉大な
賛美歌の無限の霊に我とわが身を序列して融合させる。


 「虚空円形劇場」とは青空のこと。「火」とは太陽の光。