塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 107 物語:モン・リンの戦い

2015-06-09 00:18:58 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その5




 恥ずかしさのあまり逆上したトトンは目を閉じた。
 人々のあざけりの視線を避けるためではなく、呪文を唱えて妖術を行うためだった。

 だが燃え上がらせた炎はグラトジエによって軍隊の駐留していない山林へと移され、空から降らせた猛烈な霰もまた、グラトジエによって場所を移され、リンの軍営の上で降り始めた。

 「もうよい。英雄たちよ、意地の張り合いは止めにしよう。このところ戦いが難航しているのは、モン国を消滅させる時がまだ来ていないからだ。だが、魔物を倒すべき時が間もなく来ることは、私には分かっている」

 ケサルがこう言ったのは、夢の中で再び天の母のお告げを受けたからである。

 まもなく、魔物を倒すその日がやって来た。

 その日、ケサルは南方の玉の山の麓、グニ平原の最も高い場所に来た。

 天の母の夢のお告げの通り、駿馬の形をした巨岩の上に、天から降りて来たヤクの形の固い石があった。
 上には凶悪などくろが飾られ、新しい人間の腸が絡み付いていた。

 天から降った固い石を軽く叩くと、その音に応えるように秘密の部屋に通じる小さな扉が開いた。
 そこはどのような漆黒の夜よりも更に暗く、じっと目を凝らしているうちに、やっと様子が分かってきた。

 右には九つの頭を持った毒の蠍がいて、それはシンチ王の魂の拠り所であり、左にいる九つの頭を持った怪物はグラトジエの魂の拠り所だった。

 ケサルは蠍を弓で射殺し、怪物の九つの頭を叩き割ると、それらに背を向けて走り去った。
 天の母の言いつけ通り、一度も振り返らなかった。

 天の母はこう告げたのである。
 魔物を殺した者がひとたび振り返ると、毒の蠍と九つ頭の怪物は生き返り、そうなれば、もはや誰も押さえつけることが出来なくなる、と。

 少し前、赤い岩の上の修練の洞窟をケサルの神の矢によって打ち砕かれたため、シンチ王は精気をひどく損ない、宮中の奥深くで暫く療養し、その間、グラトジエがただ一人で応戦していた。

 今、モン国を治める二人の魔物の魂の拠り所が息絶えて、モン国の領土には様々な異常現象が現われた。

 まず、谷間や崖の上に咲いていた人の顔をした花々が姿を消した。
 その花々とは妖魔に喰われ邪神への生贄にされた若い女性の魂が化身したものだった。

 彼女たちは輪廻することが出来なくなり、昼間、崖の上で花開き、夜、その魂は妖魔への生贄として捧げられた。
 今、妖魔の魔力が衰え、彼女たちはみな解脱出来たのである。

 咲き疲れた花たちは長いため息をつき、そのまま頭を垂れるとあっという間に枯れ果て、花の中に宿っていた魂がふわふわと輪廻の道へと旅立って行った。
 その他のやはり輪廻できなかった多くの魂もみな解脱した。

 広い天空はその時、ひしめき合うほどの魂で満たされ、黎明近くになってやっと、輪廻の道はいつもの流れを取り戻した。


 実は、輪廻出来なかった多くの魂の力が二人の魔王の力となっていたのである。
 その夜一晩中、シンチ王とグラトジエは夢を見た。力が自分の体から抜けていく夢である。

 シンチ王は自分が虫に食われて穴の空いたふいごになった夢を見た。
 どんなに力を込めても、充分な風を集めることが出来ず、命の火を吹き上げることが出来なかった。

 グラトジエが見たのも袋の夢だった。
 食糧がいっぱいに詰まった袋の、どうやっても塞ぐことの出来ない小さなほつれ目から、中身が雨のようにさらさらと一晩中漏れ続け、心は逆に絶望で満たされていった。

 朝目覚めると、モン国の領土に様々な不吉な現象が表れ始めた。

 フクロウが白昼にハハハと大笑いした。

 山林がわけもなく燃えあがった。

 竈の上の銅の釜が微塵に砕けた。

 寺の中心の柱に大蛇が巻き着いた。

 深い神の湖が大きな氷の塊になった。