塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 110 語り部:塩の湖

2015-06-27 15:55:16 | ケサル
語り部:塩の湖  その1




 語り部ジグメは旅の途中にいた。

 当初歩き始めた時、彼は物語が来るのを待ち、物語を探し求めていた。
 暫くして、物語は彼のすぐ前にやって来た。
 彼が行った所、それは総て物語がすでに起こった場所だった。

 放送局を去った時、彼は、ジャンの国がどのように北上してリン国の塩の湖を奪おうとしたか、まで語っていた。

 まだ何も知らない牧民だったころ、塩の湖について聞いたことがあった。
 その湖では、塩の結晶が自然に生まれていた。

 高原に戻り、起伏する草の間に牛や羊が現われた時、ジグメは車を降り、歩き始めた。
 彼は再び物語を語り始め、すべて初めから語った。

 金沙江の辺りでリン国の兵器の末裔と称する人々と別れた時、物語はまた前に進んで行った。
 ジグメはすでにジャン・リンの戦いを語り終えたが、その時、塩の湖を見たことはなかった。

 彼の故郷、彼の行ったことのある場所では、雪山のふもとの湖の水はどれも飲むことが出来た。
 彼には湖の水が涙のように苦くしょっぱいとは信じられなかった。

 だが、その物語を語った時、この世にそのような湖があるのだと信じた。

 ジグメはジャン・リンの戦いを語りながら北に向かって進んで行った。

 最初に着いた塩の湖はすでに涸れていた。
 牧人たちは言った。もう十年になる。
 湖は少しずつ縮んで行き、今年の夏ついに完全に消えた。最後のわずかな水も太陽に完全に吸い取られ涸れてしまった、と。

 ジグメは湖底に降り、灰色のかさぶたのようなものを手に取って舌先に当てた。
 確かにほろ苦くしょっぱかった。

 これが塩の味だ。
 だが、完全に塩だけの味ではなかった。

 ジグメは、もとの湖岸に住んでいる人、裸麦と菜の花を栽培している人、牛や羊を放牧している人に尋ねた。
 この湖はかつてジャンが奪おうとして襲って来た湖か、と。

 彼らは「そうだ」と答えた。

 彼らは、湖の中のかつては半島だった岩で出来た岬を指さして、あそこにリン国の英雄の馬の蹄の跡や、鋭利な長い刀が切りつけた大きな石がある、と言った。

 彼らはジグメにその跡を見るように勧めた。
 そうすれば自分たちが言ったことが嘘ではないと証明されるだろう。

 ジグメは湖の中へと進んで行った。だがその岬に着く前に、汗が塩と混ざり合い、靴底がボロボロになった。
 それでも暫く進んで行ったが、足の裏が塩に噛みつかれたように痛み、すぐ近くの場所からもとの湖岸に上がった。

 そこはちょうど湖がまだ涸れる前、採塩する人々が住んでいた村だった。

 一人の村人が新しい靴をくれた。
 村人は、足の裏に塗る動物の脂を混ぜて作った軟膏もくれた。
 すぐに、焼け付くようだった足の裏の熱は引いていった。

 ジグメは尋ねた。
 「ここにジャンの子孫はいるかね」

 村人はみな首を振った。

 「ジャンの子孫は、きっといるはずだ。王子ユラトジが降参したんだから」

 ジグメは他所の村人から、この村人はすべて降伏したジャンの兵士の子孫である、と聞いていた。
 ケサルは寛大で、ジャンは塩のためにここに来たのであり、ジャンは国王が戦いで死んだ後、王子と共に帰順しているのだからと、投降して故郷ジャン国に恥じるユラトジに向かってこう言った。

 「兵たちをここに留め、塩を採らせなさい。採った塩はみなジャン国に運べばよい。そうすればお前の民は塩を食べることが出来、お前に感謝するだろう。武力では、私の手から一粒の塩も盗むことは出来ないぞ」

 ユラトジの頭は低く垂れ下がった。心は乱れ、沈黙したままだった。

 ケサルは続けて温かい言葉をかけた。
 「お前の民はお前に感謝するだろう。これからは塩が食べられないと心配しなくてよいのだから」

 ユラトジは塩の含まれていない涙を流し、終に顔を上げた。
 「大王のご恩に感謝いたします」

 こここそ、湖の畔に留まり塩を採ったその兵の子孫の村だったのである。

 彼らは湖の南岸、東岸の耕作地を持った人々とは異なり、また北岸と西岸の広い牧場を持った人々とも異なっていた。
 彼らは世世代々湖の西岸の片隅で塩を採り、南へと運んだ。

 彼らは世世代々水の中で働いた。
 他所の村の人々は、彼らの手と足には鴨のような水搔きがある、と言い伝えてきた。
 また、こうも言った。
 塩を採る人たちの目は黒くない、昼も夜も続く悲しみによって虚ろな灰色に変わってしまった、と。

 この村に本当に水搔きのある人はいない。
 だが、目は確かに灰色だった。
 その灰色は村人の言葉通り、悲しみの色だった。

 今、湖の周りと草原は砂漠化が進行し、湖が涸れてしまったのである。