塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 108 物語:モン・リンの戦い

2015-06-17 02:57:12 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その6



 その美しさを人々から伝え聞いただけでトトンが涎を流さんばかりに恋い焦がれた公主メド・ドルマも夢を見た。

 南方の空に四つの太陽が現われ、総ての雪山がまるでヨーグルトのように融け始め、女たちは鉄の鎧を着た大軍に北方へ連れ去られて行った。

 モン国の中心の平原では、野草たちがヒューヒューと声を挙げた。それはまるで戦いに敗れた英雄に向かって浴びせられる罵りの声のようだった。

 その後、野草たちはまるで生き物のように体を起こし、立ち去った。

 これらはきっと良からぬ兆候だろうと、公主が不安に感じているその時、一羽のカラスが公主の頭の上を三度旋回し、蜜蝋で封をされた手紙を落として行った。
 それは求愛の手紙だった。
 求婚してきたのはリン国ダロン部の長官トトンだった。

 メド・ドルマは手紙を持って父王に会いに行った。

 「もし私が嫁ぐことで、モン国の危機を救うことが出来るのなら、私は喜んで…」

 シンチ王は、ケサルに修練の洞窟を破壊され、暫く静養してやっと精気を回復したところへ、魂の拠り所である毒の蠍を殺され、体がひどく衰えたのを感じていた。
 だが娘の前では気力を奮い起して言った。

 「国のことは心配しなくてよい。お前をリンに嫁にやったりはしない」

 メド・ドルマは父親の様子にいつものような気概が感じられず、モン国の命運もすでに尽きたと悟った。
 だがその言付けには背けず、ただ一人思い悩むばかりだった。

 まさしくその時、リンの大軍はモンの都城へと押し寄せ、最後の攻撃を仕掛けようとしていた。

 シンチ王はグラトジエに尋ねた。
 「奴らは兵士の戦法を用いようとしているのか、それとも、将軍の戦法を用いようとしているのか」

 グラトジエは力を込めて言った。
 「ヤツらがどのような戦法を仕掛けて来ても、我が軍の戦法は変わりません」

 シンチ王は言った。
 「そなたはここ数日良く戦ってくれた。今こそわしが戦うべき時だ」

 シンチ王は幻術を使って、晴れ渡った空に重く黒い霧を発生させた。
 前進中のリンの大軍は方向を失った。

 ケサルが法力を使って黒い霧を追い散らすと、リン軍の前に現れたのはモン国の軍勢だった。
 この軍勢はザラが以前指揮した布陣を真似ていたが、規模はリン国の数倍にも及んでいた。

 整然と隊列を組んだ兵士が、目に入る限りの平地と丘、更には河の上をも覆い尽くしていた。
 この陣勢を目にした誰もが、モン国のすべての地面が深い呼吸によって起伏していると感じただろう。
 すべての峰が走り回り、総ての湖が寄り集まろうとしているかのようだった。

 だが地上には鎧と武器に身を固めた軍勢以外何も見えなかった。
 村も見えず、牛の群れも見えず、鉱山も見えず、雪の峰も見えず、雨も見えなかった。
 灰色の空から蛇のようにくねって電光が閃いた。

 モン国はこの陣形にすべてを懸け、数十万のリンの大軍をその中に閉じ込めた。
 陣の中へと突入した兵馬はみな姿を消した。

 ケサルはみなに告げた。
 これは魔王の幻術である。慌てることはない。

 ケサルが風を呼び、強く吹きかけると、その布陣は布に描かれた絵のように揺らめき始めた。
 軍の中から一斉に声が挙がった。
 「風だ。もっと強く吹け!」

 だが風は吹かなかった。
 ケサルは言った。
 「哀れなシンチ王よ。最早力尽きたことだろう」

 果たして、この際限なく広がる軍団はほんの束の間姿を見せただけで、昇りはじめた太陽の輝きに晒されると、少しずつ色褪せていき、最後には霧となって消滅した。
 陣の中へと突入して行ったリンの英雄たちはいささかも傷つくことなく再び元の原野に現れた。

 リンの大軍は洪水のように襲撃を繰り返したが、高く聳える王城が姿を消したことに気付かなかった。
 大軍が勢いに乗じて南へと追撃に向かった後、王城は再び彼らの背後に現れた。

 シンチ王は得たりとばかりグラトジエに言った。
 「今こそ、勇士たちを率いて彼らの退路を断つ時だ」

 シンチ王は知らなかったが、ケサルはすでにこの作戦を防ぐ策を講じていた。
 リンの英雄たちが部隊を率いて追撃に向かった後、ケサルはザラを呼んだ。
 「おまえたち先鋒を後衛にまわしたことを恨んではいまいな。今、後衛は再び先鋒となるのだ」
 そう言うと、ユラトジ、英雄タンマ、シンバメルツにザラの陣を援護させた。

 グラトジエは兵を率いて突撃して来たが、待ち構えていたザラの陣に巻き込まれた。
 その陣形は見た所形を成さず、いくつにも分かれた兵の塊が、長い蛇のようにくねくねと並んで、ただ原野を駆け回っているだけのようだった。

 グラトジエが兵を率いて出撃した時、この長い隊列は逃げている様にさえ見えた。
 逃げる速度がどんどん遅くなったので、モンの軍はうっかり長い連なりの隙間に入り込んだ。

 するとその時、リンの兵たちは向きを変え、長槍を振りかざし、盾を構えた。一つ一つの長い縦列が揺れ動き、曲線をつくり、重なり合い、終には旋回を始めた。

 モンの軍隊はその陣の中に囲い込まれた。
 まるで大きな旋風の目に呑み込まれたようだった。

 刃を打ち合う光が収まると、陣中に残ったのは馬に跨ったグラトジエと数人の従者だけだった。