塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 178 物語:地獄で妻を救う

2017-01-14 19:33:57 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:地獄で妻を救う その3




 小佛州は羅刹国の中心にあった。谷は深くえぐられ、すべての樹木はとげを持ち、すべての石は毒の液を流していた。
 様々な地から征伐された羅刹がここに集められ、深い法力を持つパドマサンバヴァが神によって羅刹国の王の務めを委ねられていた。

 ケサルはこの地に来て驚いた。パドマサンバヴァ大師がこのように恐ろしい地を統率しているとは信じられなかった。
 目を疑いながら彷徨っているところへ、大師に仕えるヨーガ空行母が現われ、大師の前へと導いた。

 宮殿はこれまでの景色とはまるで違っていた。周りの壁は清らかに磨かれ、まるで水晶のようであり、光そのもののようだった。辺りに漂っているのは、楽の音のようであり、芳しい香りのようでもあった。

 この場に来て、ケサルは自分の体から発する悪臭に気付いた。それは果てしなく死体が横たわり、血が流れて河となる戦場の匂いだった。
 白い衣に身を包んだ空行母が清らかな水を湛えた浄瓶を手にし、慈悲の水をケサルの頭に注いだ。
 清々しさを感じた後、体から白檀のような得も言われぬ香りが立ち始めた。

 すぐに大師が目の前に現れた。
 「この小さな無量宮の外の、そなたが今見て来た有様は当時のリンと比べてより悲惨であろう」

 「私がリンに降ったのは、すでに大師が多くの妖魔を調伏された後でした、ですから…」

 「人の世の王に恥じず、その話しぶりは…」大師は笑った「まあ良い、やめておこう。あの時私が途中で厭きてしまわなければ、そなたはこのように辛い務めをすることはなかったのだが」

 「観音菩薩は、大師様が私の行くべき道を示して下さるとおっしゃいました」

 「菩薩はいつも私が暇だと心配されているようだ。なぜ来たのか言ってみよ」

 「閻魔王の判決は公平ではありません。私の妃を助ける法を教えていただきたいのです」

 大師は言った。
 「よく考えてみなさい。他にも何かありそうだ。当時魔国の姫だった者を救うためだけなら、ここまで来るには及ぶまい。さあ、良く考えてみなさい」
 大師は徐々に声を落とし、空行母の手から浄水の入った瓶を受け取り、ケサルの顔に向けてその浄水を指ではじいた。

 ケサルは自分が話す声を聞いた.

 「大師にうかがいたいのです。私はこの後、どれほどの時間をリンで過ごすのでしょう。私が去った後、リン国の民たちはどのようにして太平の世を楽しむことが出来るのでしょう」

 大師は法術を始めた。
 体から様々な色の光を発すると、それぞれの方角から菩薩が光に沿って次々と現れた。菩薩はそれぞれに異なった光を発し、額、胸、へそ、会陰からケサルの体へと注いていった。
 ケサルは体が軽々と浮き上がり、同時に強く穏やかな力が満ちるのを感じた。

 大師は座から立ち上がり、金剛明王のように威厳に満ちた舞い姿で、偈を唱えた。

   精進の馬を常に馳せ
   智慧の武器を常に磨き
    因果の甲冑で身を守る
   しからばリンは安寧なり!

 唱え終ると、諸々の菩薩と大師の姿はそのまま消えていった。それに連れて、宮殿と羅刹の国も目の前から消えた。来る時はあっという間に着いたが、帰りの道は丸々三日かかった。

 ケサルがリンへ戻ると、人々は今か今かとこの日を待ち望んでいた。後一月で、ケサルが発ってから三年になろうとしていた。リン国の臣民はみな彼らの英明な国王はすでに天の国へ帰ったのではと考えていたのである。

 出迎えの者の中に首席大臣ロンツァタゲンの姿がないのに気付いて、国王はすぐに会いに向かった。

 「お迎えにうかがえなかったこと、どうぞお許しください」

 ケサルは尋ねた。
 「病ではないのか、御殿医に診させたのか」

 「王様、私は病気ではありません、もはや力が失せたのです。みなは国王はもうお帰りになららないのではと考えておりました。だが、私は彼らに言いました。国王は必ず帰られる、このロンツァタゲンが国王より先にリン国を去るのだから、と」

 「なぜそのように急ぐのだ」

 「急いでいるのではありません。私はすでに百歳を超えました。この目でリン国の誕生から強大になるまでを見ることが出来ました。リンを去るのはなんと忍びないことか。だが、いつかは去らなくてはならないのです」

 この言葉にケサルは胸を熱くし、ロンツァタゲンの手をしっかりと握りって離そうとしなかった。

 ロンツァタゲンは笑った。
 「国王はお帰りになる時、寄り道をされましたね。お帰りの日を占わせましたが、それより三カ月遅れてお帰りになられました。天の一日は人の世の一年です。地上での三カ月どちらにいらしたのですか。私が知りたいのはそのことです」

 首席大臣と別れて、国王は神馬に尋ねた。
 「途中で私たちはどこかへ行っただろうか」

 神馬は答えた。
 「私は行きません。国王がいらしたのです」

 「私はどこへ行ったのだろう」

 「私はお尋ねしませんでした。その後、王様は私の背中でうわごとをおっしゃいました。未来へ行ったのだと」






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