塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 177 物語:地獄で妻を救う

2017-01-09 22:44:05 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語:地獄で妻を救う  その2


 その時、空中に清らかな声が響いた。

 「神の子ツイバガワ、衆生を救おうという強い誓願のみならず、人の世で妖魔を倒し更に陰陽の道、真幻の別を悟るとは。天賦の知恵は浅からぬようですね」

 声は近くまた遠く、辺りを見回しても、声を発しているものの姿は見えなかった。
 五彩の瑞雲が天の際から漂いながら近づいて来た。観音菩薩が手に宝瓶を持ち、雲の上に端座している。

 ケサルは馬から降りようとしたが、尻が鞍に貼り付いたかのように身動き出来なかった。
 菩薩は笑って言った。
 「お前はすでに心の中で礼をしています。そのまま座って話しましょう」

 「観音菩薩様」

 観音菩薩は微かにうなずいた。
 「お前が天の神であった時会いましたね」

 「リンに居る時、寺の壁画で拝見いたしました」
 
 「どのようにして閻魔王を騒がせたのですか」

 「妃を救いに行ったのです」
 
 「魔国から来たお前の妃はあまりに多く殺戮を犯しました」

 「だが、妃は後に帰順し…」

 「それは分かっています」

 「菩薩様、妃をお救い下さい」

 「私は閻魔王にもの申すことは出来ないのです。パドマサンバヴァ大師を訪ねなさい。大師の半人半神の立場は私に比べて事を為しやすいでしょう。まずは戻りなさい。少し休むのです。閻魔王を怒らせたのですから、しばらく病に臥せるかもしれません。病が癒えたら大師を訪ねたらよいでしょう」

 そう話すうちに空中にあった菩薩の姿は消えた。

 王城に戻ると、ケサルはやはり病に倒れた。寒気と熱が繰り返し、手足に力が入らなかった。
 王子ザラ、妃たち、病身の首席大臣までもがケサルの周りに集まった。みな、国王は天へ帰るのではと恐れていた。

 「心配することはない、ただ疲れて休んでいるだけだ。このような形で天へ帰ったりはしない」

 ケサルは言った。
 「病による死が天へ帰る術であるなら、私は天へ帰ろうとは思わない」
 みな国王の言葉を信じ、安心して下がった。

 こう答えたものの、国王に確信はなかった。そこで、天に向かって祈った。
 「大神よ、どうぞ、人間たちのように病による死を与えないで下さい。威厳をもって天へ帰りたいのです」

 空気が微かに震え、龍の啼き声にも似た雷鳴が轟いた。天の大神が応えたかのように。

 ひと月も立たずにケサルの病は完全に癒えた。ケサルはジュクモに言った。これから小佛州へ行ってパドマサンバヴァ大師に会って来る、と。

 小佛州とは、深い山の中にあるのですか、とジュクモが尋ねた。
 ケサルは答えた。
 「吉祥境は天の国により近く、人の世からはより遠い」

 ケサルが人の世の様々な地で妖魔を倒す時でさえ、ジュクモは夫を送り出したくはなかった。まして、今回国王が赴こうとしているのは、人の世ではなく天の国に近いと言う。
 夫の行き先がこの世ではないと聞き、ジュクモは激しい痛みを感じた。痛みは頭から足の裏まで閃光のように体を貫き、心臓は砕けたかと思えるほどだった。

 夫は天へ帰ろうとしているのだと考えたジュクモは、即座に地に伏した。
 「お出かけになるならジュクモをお連れ下さい、でなければ心が砕けて死んでしまいます」

 ケサルは苛立ちを覚えた。
 「何故出掛けるたびごとに、あれこれと邪魔をするのだ」

 ジュクモの目から涙があふれた。
 「ご主人さま。これまでは恋情を抑えきれずにお止めしました。それは私の誤りです。ただ今回は、王様がそのまま戻られず、ジュクモ一人がこの世に置き去りにされるのでは、と心配でなりません。私はこれまでいくつもの誤りを重ねてきました。それでも、心から王様をお慕いしているのです」

 そう聞いてケサルは言葉を和らげ、今回はただパドマサンバヴァ大師に会い、アダナムを地獄から救う方法を尋ねに行くだけだ、と優しく伝えた。

 ケサルは言った。
 「今回はどれほどの時間がかかるか分からない、母グォモは高貴な生まれでありながらリン国のために辛い日々を過ごされた。今、年老いて体は弱っている。本来なら私がお傍にいるべきだが、この度は、そなたに私に代わって仕えて欲しいのだ」

 ジュクモはそれ以上言葉を返すことはなかった。

 ケサルは首席大臣と将軍たちを集めた。
 「これから私は仏法の最も奥深い地へ行くこととした。大師に教えを乞うためだ。その間、兵を興し戦ってはならない。狩人は弓矢を置き、漁夫は網を日に晒したままにしておかなくてはならない。しかと心に留めておくように」

 言い終ると、一筋の光となって西の天空へ向かって飛んで行った。







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