塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 81 語り部 恋愛

2014-12-09 14:58:08 | ケサル
語り部:恋愛 その2



 次の日、新しい語り部がやって来た。中年の女性だった。
 牛を放牧している時雷に打たれ、目が覚めると、誰にも習ったわけでもないのにケサルを語るようになった、と言った。

 大声でしゃべる女だった。

 その日の昼、二人は招待所の廊下で出会った。
 ジンメイは食堂の料理を盛った琺瑯の大きな椀を抱えて帰って来るところだった。

 女は彼を遮り、ジンメイさんかと尋ね、彼は頷いた。
 「みんながあんたは語りがうまいって言ってるよ」

 彼がまた頷くと、この大雑把な女ははにかんだ表情を見せて言った。
 「私はヤンジンドルマ」

 ジンメイは笑った。
 ドルマとは仙女の意味だ。この女は声はどら声、目つきは凶悪、まるで仙女らしくない。

 ヤンジンドルマは言った。
 「何を食べてるのか見せてご覧。チッ!スープ、それと饅頭か。チッ!前に来た時もこればっかり食べさせられてさ。うんざりして、辞めたのさ」

 「でもまた来たんだろう」

 ヤンジンドルマは彼の手を引っ張った。
 「来て」

 二人は彼女の部屋に入った。
 「自分で料理してもいいことになったんだ。でも、ここじゃ薪を起こせないだろう。電気で作るんだ」

 ヤンジンドルマが泊っているのは内と外の二間だった。
 内で寝て外で料理し、茶を飲む。電気コンロが部屋の真ん中に置いてあった。

 ドルマは彼の肩に手を当て、敷物に座らせた。
 「うまい茶を入れるからね」

 コンロの上のやかんはすぐに沸いた。
 そこに粉のミルクを入れると、香りの良いミルク茶になった。
 椀に注ぎチーズを並べた。その椀には青菜が浮いていて、それを捨てると、子供のように笑って言った。

 「こっちへ来て、饅頭を食べな」

 食事はとてもおいしかった。三食分はあるチーズを一回で食べてしまった。
 ヤンジンドルマはわざとらしく、だが満足した表情で言った。
 「神様、この男はやかん一杯の茶を全部飲んでしまいました」

 次の日ジンメイが語りに行く時、ヤンジンドルマは彼に魔法瓶を渡し言った。
 「お茶だよ、歌って喉が乾いたら飲みな」

 「語る時は飲んじゃだめなんだ」

 「フン、あいつらは飲めるんだろう」

 「みんな外で飲んでる」

 「じゃあ、あんたも外へ行けばいいじゃないか」

 「行かせてくれないんだ」

 「誰が」

 「アサンさんが」

 ヤンジンドルマは鋭い目で彼をにらんだ。
 「語りの金は国がくれるんだ。あんな女の言うこと、聞かなくてもかまいはしないさ」

 その日、茶を飲むことは出来なかった。
 飲むか飲まないかの問題ではなく、アサンがこう言ったのだ。
 「あなたの体から出た牧場臭い空気をやっときれいにしたのに、なんでまた匂うのかしら」

 彼は魔法瓶をスタジオの外に置きに行った。
 アサンは言った。
 「さあ、始めましょう」

 彼は茶が入ったままの魔法瓶を持って部屋に戻った。
 ヤンジンドルマはそれを見て言った。
 「チッ!」

 後からこんな話が伝わった。
 あの田舎者はまるで白日夢を見るみたいに、新しい時代の女性を愛してしまったらしい、と。

 アサンはそれから後の番組では、怖い顔をして何も話さなかった。

 何回か、ジンメイはアサンに言おうと思った。
 「あの噂はみんな嘘です。オレのようなものがあんたを好きになれるわけがないでしょう」

 それでも、スタジオのライトが暗くなり、たくさんの機械の光がチカチカと点滅すると、彼女がいつもの優しい声で話し始め、すべてがうっとりと魅惑的になった。
 彼女の声は磁石のように人を引きつけ、彼女の体からは良い匂いがたちのぼった。

 ついにある日、アサンは言った。
 「もし続けて語りたいなら噂話を流した人のところへ行って、自分はそんなこと思ってない、と言って来てちょうだい」

 「そんなこと思ってない、とは?」

 アサンは泣き出した。
 「あなたって不潔で間抜けね。私を愛したことはないと言って来なさい、ってことよ」

 彼は頭を垂れ、自分の罪の重さを深く恥じたが、それでもやはり本当のことを言った。
 「夜、いつもあんたの夢を見るんです」

 アサンは鋭い叫び声をあげると、泣きながらスタジオを飛び出した。
 録音は中止になり、外にいたスタッフが飛び込んで来た。

 「おい!何をしたんだ」

 自分は本当に何もしていない、自分の言葉には呪いをかける人のように毒の針が埋まっていたのだろうか。
 だが彼は何も言えなかった。
 みんながあまりに恐ろしげで、怖くて何も考えられなかった。

 ヤンジンドルマでさえ深く傷ついた様子で、彼の姿を見て言った。
 「チッ!」

 放送局を出入りする時、みんながからかって言ったものだ。
 「この二人の語り部が一緒にいると、天地が定めた一対のようだね」と。

 ヤンジンドルマはそれを聞くたびに幸せそうな微笑みを浮かべていた。
 だが、今、彼女はジンメイの姿を見て言ったのだ。
 「チッ!」

 数日前、彼女はジンメイに言った。
 「ケサルは長いことリンに帰らなかったけど、その責任は、アダナムとメイサだけにあるんじゃない。もし、ケサルが会うたびにその女を好きになったりせず、ジュクモだけを好きになってたら、地上にこんな騒動は起こらなかっただろうに」

 ジンメイはこう答えた。
 「神の授ける物語をオレたちは勝手に批判しちゃいけない」

 ヤンジンドルマは言った。
 「物語はきっと、男の神様が授けたんだよ。女の神様だったらこんなふうにはしなかったはずさ」

 ジンメイはそれを聞いて驚き、神様を刺繍した旗を広げて何度も跪いて拝んた。
 ヤンジンドルマも怖くなり、ジンメイと一緒に神の前に跪き、必死で許しを乞うた。

 だが今、ジンメイは許しがたいほどに自分を恥じていた。
 彼は本当に病気になった。

 ギーと音がしてドルマが入って来た。彼は弱々しく言った。
 「なんで来たんだ」

 「今、誰が自分に一番ふさわしいか分かっただろう。誰が自分とお似合いか分かっただろう」

 彼女は彼の額と手に口づけした。彼の肌は熱い涙で濡れた。
 だが、この熱い涙も彼の心の内へ染み込んではいかなかった。

 彼は言った。
 「帰って休んでくれ。明日茶を飲みに行くから」

 ヤンジンドルマはもう一度口づけし、彼をこう呼んだ。
 「私の可愛い人、私の運命の人」


 彼女がドアを閉めると、ジンメイはドルマが流していった涙を拭いた。
 心に浮かぶのはやはりスタジオの中のあの魅惑的な姿だった。

 こうして、彼は何も言わず出て行った。
 の放送局から、この町から姿を消した。

 彼がどこへ行ったのか。誰も知らなかった。