語り部:恋愛 その1
ジンメイは学者に連れられて省のチベット語放送局に来た。
放送局での日々はとても幸せだった。
幸せ、それは偽りのない感想だった。
放送局のスタジオに座るとライトが暗くなる。
番組の司会者は突然声の調子を変える。
ジンメイはふと思った。王妃ジュクモが話す時もきっとこんな声だったのだろう。
魅惑的で威厳がある。
ここは放送局の語り部番組制作部である。
スタジオの明かりが暗くなると、総てがあやふやになってしまう。
スタジオを出れば彼をまともに扱おうとしない若者たちも、態度を一変してとても親切になり、あの声はより一層優しく感動的になるのだから。
「今日の語りをお聞かせする前に、ジンメイさんに二つの質問をしたいと思います」
ジンメイは電気が走ったように体をこわばらせ、座ったまま姿勢を正した。
「ジンメイさん、あなたは初めて電波を通して史詩を語った語り部ですが、このことについて何か特別な思いはありますか」
ジンメイは自分の声が変わっているのが分かった。いつもは良く響く声がかすれている。
「幸せです」
アナウンサーは笑った。
「ジンメイさんがおっしゃりたいのはとても光栄に思っているということですね」
「はい、幸せです」
「分かりました。とても幸せだそうです。では、視聴者に教えてあげて下さい。街や、この放送局でどのように過ごしているのか」
彼の声はやはりひどくかすれていた。
「幸せです」
アナウンサーはいらいらしているようだった。
「ジンメイさんはとても楽しいとおっしゃっています。では彼の語りを聞いてください」
アナウンサーは出て行った。ガラス越しに彼女と番組の録音技師、他の数人がふざけ合っているのが見える。
ジンメイは語り始めた。
語っている時、彼はいつものジンメイだった。
目の前のガラスの壁は消え、左右そして後ろの壁もすべて消え去った。
雪山と草原の広がる大きな空間の中で、天にも地にも、特別な力に満ちた神、人、魔物が行き来し、はかりごとをし、祈り、戦っていた。
そこに登場する美しい女性たちは何とも不思議だった。
彼女たちは、村の女たちと同じように泣き、愛を競い、小さなはかりごとを仕掛け合い、神の力を持つ人と魔物の間を行き来し、そうやって物語の中で大切な役割を果たしているのである。
その日、ジンメイはたくさんの時間をかけてジュクモとメイサを語った。
語りが一段落すると、司会者が入って来て、視聴者に向かっていつもと同じ言葉を投げかけた。
「視聴者のみなさま、夜の十時になりました。どうぞお忘れなく。明日の夜九時、英雄詩史ケサル物語で、必ずお会いしましょう」
終ると、彼女はジンメイの後ろに立ち、体を屈めて来た。
ジンメイにはそれが、大きな鳥が空から降りて来て、まず始めに、地上の可哀想な生物をその影で包みこんだかのように感じられた。
彼の体は震えていた。
彼女は香しい息をしている。
彼女が彼の後ろに立ち、体を屈めると、唇が彼の首に触れそうだった。
「今日の語りはとても素晴らしかったわ。もしかしてあなたは女性のことをあまり知らなのかしら」
彼は頭がくらくらして倒れそうだった。
我に帰った時、スタジオには彼一人だけだった。
スタジオを出ると、迷宮のような廊下で方向を見失い、より複雑で広い漢語放送制作部に迷い込んでしまった。
会う人ごとに、アサンさんを探していますと話しかけた。だがここは別世界で、誰もアサンを知らなかった。
その後どのように歩いたか分からなおのだが、大きな建物を抜け出し、まぶしい太陽の下にいた。
招待所に戻りベッドに寝転がると、体が冷たくなったり熱くなったりした。
ウトウトする間に、アサンがジュクモの服装をして、青い山の頂を彷徨い、憂いを抱きながら北の方を眺めている夢を見た。
早く逃げろ、危ないことが起こるぞ、と叫んだが声が出なかった。
午後、学者が研究所から会いに来た。
食堂から届いた食事がそのままなのを見て言った。
「病気か」
彼は思った。自分は病気なのだろうか。
思い返してみて、自分で自分に驚いた。頭の中でずっと司会者の女性を思っていたのだ。
彼は怖くなって言った。
「家に帰る」
学者は厳しい表情で言った。
「本当の語り部、本当の仲肯は天の下総てが自分の住処なのだ」
「草原に帰りたい」
学者は言った。
「ここで語ることはある種の戦いだ。君だけじゃなく、他にも語り部が来てケサル語ることになっている。
一番うまく語れた者には国が金を与え、家を建て、世話してくれる」
ジンメイは言い返したかった。
「住処も家も同じことだ。仲肯があちこちを彷徨う運命なら、家をもらっても何の役にも立たない」
だが、やはりジンメイである、口答えなどせずに、ただこう言った
「怖いんです」
学者は笑った「
そんなふうに敏感でこそ、芸術家だ、天下の芸術家だ」
ジンメイは学者に連れられて省のチベット語放送局に来た。
放送局での日々はとても幸せだった。
幸せ、それは偽りのない感想だった。
放送局のスタジオに座るとライトが暗くなる。
番組の司会者は突然声の調子を変える。
ジンメイはふと思った。王妃ジュクモが話す時もきっとこんな声だったのだろう。
魅惑的で威厳がある。
ここは放送局の語り部番組制作部である。
スタジオの明かりが暗くなると、総てがあやふやになってしまう。
スタジオを出れば彼をまともに扱おうとしない若者たちも、態度を一変してとても親切になり、あの声はより一層優しく感動的になるのだから。
「今日の語りをお聞かせする前に、ジンメイさんに二つの質問をしたいと思います」
ジンメイは電気が走ったように体をこわばらせ、座ったまま姿勢を正した。
「ジンメイさん、あなたは初めて電波を通して史詩を語った語り部ですが、このことについて何か特別な思いはありますか」
ジンメイは自分の声が変わっているのが分かった。いつもは良く響く声がかすれている。
「幸せです」
アナウンサーは笑った。
「ジンメイさんがおっしゃりたいのはとても光栄に思っているということですね」
「はい、幸せです」
「分かりました。とても幸せだそうです。では、視聴者に教えてあげて下さい。街や、この放送局でどのように過ごしているのか」
彼の声はやはりひどくかすれていた。
「幸せです」
アナウンサーはいらいらしているようだった。
「ジンメイさんはとても楽しいとおっしゃっています。では彼の語りを聞いてください」
アナウンサーは出て行った。ガラス越しに彼女と番組の録音技師、他の数人がふざけ合っているのが見える。
ジンメイは語り始めた。
語っている時、彼はいつものジンメイだった。
目の前のガラスの壁は消え、左右そして後ろの壁もすべて消え去った。
雪山と草原の広がる大きな空間の中で、天にも地にも、特別な力に満ちた神、人、魔物が行き来し、はかりごとをし、祈り、戦っていた。
そこに登場する美しい女性たちは何とも不思議だった。
彼女たちは、村の女たちと同じように泣き、愛を競い、小さなはかりごとを仕掛け合い、神の力を持つ人と魔物の間を行き来し、そうやって物語の中で大切な役割を果たしているのである。
その日、ジンメイはたくさんの時間をかけてジュクモとメイサを語った。
語りが一段落すると、司会者が入って来て、視聴者に向かっていつもと同じ言葉を投げかけた。
「視聴者のみなさま、夜の十時になりました。どうぞお忘れなく。明日の夜九時、英雄詩史ケサル物語で、必ずお会いしましょう」
終ると、彼女はジンメイの後ろに立ち、体を屈めて来た。
ジンメイにはそれが、大きな鳥が空から降りて来て、まず始めに、地上の可哀想な生物をその影で包みこんだかのように感じられた。
彼の体は震えていた。
彼女は香しい息をしている。
彼女が彼の後ろに立ち、体を屈めると、唇が彼の首に触れそうだった。
「今日の語りはとても素晴らしかったわ。もしかしてあなたは女性のことをあまり知らなのかしら」
彼は頭がくらくらして倒れそうだった。
我に帰った時、スタジオには彼一人だけだった。
スタジオを出ると、迷宮のような廊下で方向を見失い、より複雑で広い漢語放送制作部に迷い込んでしまった。
会う人ごとに、アサンさんを探していますと話しかけた。だがここは別世界で、誰もアサンを知らなかった。
その後どのように歩いたか分からなおのだが、大きな建物を抜け出し、まぶしい太陽の下にいた。
招待所に戻りベッドに寝転がると、体が冷たくなったり熱くなったりした。
ウトウトする間に、アサンがジュクモの服装をして、青い山の頂を彷徨い、憂いを抱きながら北の方を眺めている夢を見た。
早く逃げろ、危ないことが起こるぞ、と叫んだが声が出なかった。
午後、学者が研究所から会いに来た。
食堂から届いた食事がそのままなのを見て言った。
「病気か」
彼は思った。自分は病気なのだろうか。
思い返してみて、自分で自分に驚いた。頭の中でずっと司会者の女性を思っていたのだ。
彼は怖くなって言った。
「家に帰る」
学者は厳しい表情で言った。
「本当の語り部、本当の仲肯は天の下総てが自分の住処なのだ」
「草原に帰りたい」
学者は言った。
「ここで語ることはある種の戦いだ。君だけじゃなく、他にも語り部が来てケサル語ることになっている。
一番うまく語れた者には国が金を与え、家を建て、世話してくれる」
ジンメイは言い返したかった。
「住処も家も同じことだ。仲肯があちこちを彷徨う運命なら、家をもらっても何の役にも立たない」
だが、やはりジンメイである、口答えなどせずに、ただこう言った
「怖いんです」
学者は笑った「
そんなふうに敏感でこそ、芸術家だ、天下の芸術家だ」