塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 58  物語 ジュクモ

2014-07-26 02:33:17 | ケサル
物語:ジュクモ その3





 「老総督が競馬に参加するように言ったとのことだが、僕が持っているのは誰よりものろい馬だと知っているのだろうか」

 「私の家の厩には良馬がいくらでもいるわ。好きに選んでいいのよ」

 「でも、トトンおじさんのユウジアに勝てる馬はいないだろう」

 「では、どうしたらいいの」

 「天から降された馬がいるのだ。僕が生まれた時、野生の馬の中に降された。それは神様が僕のために用意した世にも稀なる馬だ。お前と母さんが力を合わせた時にだけ捕まえることが出来るのだ」

「私が? 野生の馬を捕まえる?このジュクモは高貴な生まれの娘よ。家の馬だって自分で世話することはないのに。野生の馬を捕まえるなんて、夢にも思ったことはないわ」

 「心配することはない。その馬は人の言葉が分かるのだ。お前と母さんなら必ず捕まえられる」

 「それなら、喜んで行きましょう」

 彼女がこう言い終るやいなや、もとの美しい顔立ちに戻った。

 ジュクモは心の中で呟いた。
 ジョルはその野生の馬の扱い方を知っているのに、なぜ自分で行かないのだろう、おまけに、走り回る野生の馬の群れの中から、どうやってその馬を見つけるのだろう。
 心に迷いがあるため、体は前へと進んでいかなかった。

 どうして出発しないのかとジョルが尋ねた。

 ジュクモは答えた。
 「どんなに河にも水源があり、荒野を行くには山の形を見る、と言うでしょう。天馬がどんな形をしているのか、どんな色なのか、どうして話してくれないの」

 そう言われてジョルはやっと母とジュクモに話した。

 「その特徴は九つある。
  ハイタカの頭、狼の首、ヤギの顔、カエルのまぶた、
  蛇の目、ウサギの喉、鹿の鼻、ジャコウジカの鼻の穴、
  九番目の特徴が最も重要だ。その耳に小さなワシの羽が生えている」

 ジュクモはまた尋ねた。
 「どうしてあなたは自分で天馬を捕まえに行かないの」

 ジョルは彼女をじっと見つめ、笑って何も言わなかった。

 メドナズは言った。
 「畑の土、種、温度、この三つが揃って作物は育ちます。
  母、ジョル、ジュクモ、三人の前世の縁はすでに定まっていたのです。
  私たち二人が力を合わせればジョルをリンの王に出来るでしょう。
  そして私たち二人だけがジョルが王となる栄誉を共に喜ぶことが出来るのです」

 ジュクモは自分が競馬の賞品であることを思い出した。
 そして、自分に注がれるジョルの目を見ているうちに、ふと、どこかで会ったような気がして、心が一瞬震えた。

 ジョルの黒くて深い眼差しはインドの王子の目の中にあった表情とそっくりだった。
 彼女は思った。
 もし、ジョルが王子のような男らしい顔だちで、穏やかな身のこなしであったなら、そしてインドの王子がジョルのように神に通じ変化する力を持っていたなら、自分は世界一幸せな女性になれるのに。

 ジョルはその時ジュクモの想いを感じ取り、一瞬、王子の姿へと変化した。
 ジュクモは何かを見たようだった。だが、目をこすってもっとしっかり見ようとすると、ジョルはまた元の姿に戻っていた。

 訝しく思いながらも、ジュクモはメドナズと共に山を登って行った。
 二人がパンナ山に登ると、野生の馬が群れをなして疾走しているのが見えた。
 大地が、ばちで打たれる太鼓のように細かく震えていた。

 すぐに群馬の中に混じって荒涼とした地を駆けまわる天馬を見分けることが出来た。
 前から見るとその姿は猛々しく威厳があり、横から見るとその体つきは力強く逞しい。

 二人が近づくと馬は顔を上げていななき、思い切り大地を蹴って走り去る。
 まるで旋風のように。

 何度も試みたが、近づく術がなかった。
 この時やっと、ジョルがこの馬は人間の言葉を理解すると言ったことを思い出した。
 メドナズは天馬に向かって歌った。


  弓の名手の長い尾の矢も

  英雄の手で弓につがえられることなく

  弓壺に入れられたままでは

  敵に勝利することは出来ません

  どんなに鋭利でも何の用がありましょう
  


  神の宝馬よ

  真に天が降した神の馬ならば

  主人を助けて功を立てなければ

  荒野を疾駆しても何の用がありましょう





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