塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 57  物語 ジュクモ

2014-07-21 12:47:12 | ケサル
物語:ジュクモ その2




 「私はそのリンの人間です。でも、そんなお話、聞いたことがありません」

 美男子はゆっくりと口を開いた。
 「ジュクモという娘は絶世の美女だと聞いている。もしや、あなたがジュクモではないのか」

 この一言にジュクモは気が動転して、自分でも気づかずぬうちに、僧がまじない用の太鼓を振る時のように首を振った。

 「私はまだ求婚の礼をしたわけではない。だったら、あなたを娶ってもいいわけだ!」

 これを聞いてジュクモの心は喜びと悲しみの間を行きかった。
 なによりも喜ばしいのは、自分が心を動かされた男性が同じように心を動かされていることである。
 悲しいのは、王子はジュクモの美しさを耳にして求婚に訪れながら、途中で美しい女性に出会うなり、名前も家柄も聞かず気持ちを移してしまったことである。
 幸いに、出会ったのはこのジュクモで、他の娘ではなかったのだが。

 それでも、男性は他の男など及ぶべくもなく、彼女の心は最後には喜びで満たされ、彼に告げずにはいられなかった。自分こそ、その名を遥かまで伝える高貴な生まれのジュクモであることを。

 胸の高まりを抑えきれないジュクモとは異なり、王子はなんと、どうやって彼女がジュクモであると証明できるのかと尋ねた。

 ジュクモは長寿の酒が入った瓶を取り出した。それはジョルのために用意したものだった。
 瓶の口の封蝋に押された印が彼女の高貴な身分を証明していた。

 あろうことか、男性は酒瓶を受け取ると、よく見もせずに封印を剥がすと、瓶の中の酒を一気に口の中へと注ぎ込んだ。
 上等の酒は彼の顔を更に魅惑的に輝かせた。

 「リンの競馬に参加しなければ賞品の娘を手にすることは出来ません」

 「それなら参加しよう。美人を手に入れなくては王とは言えぬ」

 ジュクモは嬉しさを抑えられず、娘が持つべき誇りと恥じらいなどおかまいなく王子に抱きつき、ありとあらゆる甘い言葉を囁いた。
 王子は水晶の腕輪を彼女の手に載せた。
 ジュクモは白い帯に九つの結び目を作り王子の腰に結び、競馬の会場で会うことを約し、恋々としながらも別れを告げた。

 黒い人もインドの王子もジョルが変化したものだとは、ジュクモは知る由もなかった。

 砂の山が消え、緩やかな丘がいくつか目の前に現れた。
 それらの丘はナキネズミの穴だらけで、一つ一つの穴の入り口にジョルがネズミのようにしゃがんでいた。
 それを目にして、彼を迎えに来たはずのジュクモもびっくりして大きな岩の後ろに身を隠した。

 この時ジョルは分身をすべて元に収め、叫んだ。
 「女の妖怪よ、見つけたぞ、出てこい」

 ジュクモはすぐさま姿を現し言った。
 「ジョル、ジュクモよ」

 ジョルは彼女がインドの王子に示した甘い蜜のような態度を思い出して、思わず心が痛み、言った。
 「妖怪め。騙さるものか」

 彼女を目がけ石を投げつけると、たくさんの小石が飛び散って、ジュクモの貝のように美しい歯が石に当たってぼろぼろと抜け落ち、頭の半分の毛がそぎ落とされた。
 ジュクモは地面にぺたんと座り込み、大声で哭きだした。

 ジョルはジュクモの醜い様子を見て、心では大いに悲しみながら、その場でジュクモと分かった様子をするのも間が悪く、母を呼びに戻り彼女を家に連れて行かせた。

 メドナズは以前の美しいジュクモが毛が抜け落ち歯の抜けた奇怪な姿に変わってしまったのを見て、ジョルの悪ふざけと分かったが、はっきり言う訳にもいかず、ジュクモを慰めるしかなかった。
 「一緒にいらっしゃい、ジョルに頼みましょう。あの子は、あなたをもとのように美しくする神様の力を授かっているから」

 ジョルはジュクモを見るなりハハハと笑って言った。
 「言われてみれば、お前は誇り高いジュクモだ。てっきり妖怪が化けたのかと思った。以前妖怪がお前の姿に化けて僕を愛した振りをして、悲しい思いをさせられたことがあったのだ」

 「私は老総督の命で、あなたたち二人を競馬に参加するよう迎えに来たのです。道がどんなに遠いか、どんなに辛いかも顧みずにやって来たのです。それなのにこんな妖怪のように醜い姿にさせられて。戻ってから、どうやってみんなに会えばいいのか」

 話し終わらないうちに、また泣きじゃくり始めた。

 ジョルは再び嫉妬の心が甦り、彼女はこんな姿ではインドの王子に会えないと悲しんでいるのだろうと考えた。
 だが、インドの王子とは、彼女をからかおうと思って自分が変化したものだ。そう思い到ると心は穏やかになった。

 「お前を美しく戻すのは簡単だ、ただし、僕を助けるためにして欲しいことがある」

 「元の姿に戻れるなら、一つと言わず、十でも百でも、出来るだけのことをします」






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