語り部 帽子
丘の上に着いた時、空はまだ明けきっていなかった。
振り返って、夜明け前の淡い光に包まれた村を見下ろした。
村はまだ目覚めていなかった。だが、ジンメイは村を後にしようとしていた。
草むらでは、大きな露がぶつかり合いころころと転がって、彼の柔らかな革靴に落ちた。
わずかな荷物を背負い、村を出て先へと進んだ。
村のはずれの羊小屋を囲む太い杭が朝の光に黒く光っている。
檻の中に横たわっている羊たちはまるで灰色の雲のように、外に向おうとする光を懸命に夢の中に留めようとしているかのようだ。
この静かな村は一人の羊飼いを失おうとしていた。
太陽が昇った時、村人たちは羊を牧場に追っていく男を新たに探さなくてはならないだろう。
彼は微かに笑い、向きを変えて大股で前へ進んでいった。
歩むごとに道端の草が当たり、ずっしりと重い露が一粒一粒足の上に落ちるのに任せた。
三日後、ジンメイは一本しか道のない小さな村に着いた。
村には六弦琴を作る年老いた職人がいた。
指さされた庭に入っていった時、年老いた職人が造り上げたばかりの琴を試していた。
貝の様に丸い琴の空洞に息を吹きかけ、それを耳のあたりまで持ち上げて注意深く音を確かめる。
その顔には満足げな笑顔が浮かんでいた。
老職人は言った。
「さあ、試してみろ」
弟子の一人が出てきて琴を受け取ろうとした。すると、老人は言った。
「お前じゃない。あの男だ」
老人は入って来たばかりの人物に直接琴を渡した。
ジンメイは言った。
「オレですか?」
老人は三人の弟子に顔を向けて言った。
「これはとても良く出来た琴だ。わしが作った中で一番いい琴だ。今、これを受け取るべき者が来たのだ」
「この男が…」
三人の弟子が同時に声を上げた。彼らは、琴がこのような男の手に渡るとは思ってもいなかったのだ。
ジンメイの、見えない方の目は大きく見開かれ、見える方の目は逆にしっかりと閉じられた。
この村は牧人相手の仕事で成り立っている。だが、この工房はそうではなかった。
この男の来歴を知るには、その身なりを見るまでもなく、間抜けて見えるほど頑な表情を見るまでもない。
歩くと体が左に右に揺れるがに股の脚を見れば、そして、体から立ち上る牧人特有の獣臭い匂いを嗅げばそれで十分だった。
弟子たちには、たとえ幻覚を誘う草を食べても、琴がこのような者の手に渡るとは想像できなかっただろう。
しかもそれは、老いた琴職人がその生涯の最後に造り出した、最も優れた琴なのである。
そこで彼らは一斉に声を上げた。
「この男が…」
「そうだ、この男だ。お前たちが琴に油を塗って磨き上げた時、ワシはこの男が来るのが分かったのだ」
「どうして分かったんですか。占い師みたいに」
琴職人は三人の弟子には構わず、ジンメイの方を向き言った。
「持って行きなさい。お前は夢に見た様子そのままだ」
「親方はこの男を夢に見たんですか」
「そうだ、神さまがワシに夢を見させたのだ。
神さまは言った。お前の琴は一番ふさわしい者に出会う、と。
神さまは言った。お前の琴作りの生涯はこれで終わりだ、と。
さあ、若者よ、お前の琴だ、受け取りなさい」
ジンメイはおどおどと琴を受け取り、うっかりして琴の弦に触れた。琴は美しい音色を立てた。
「オレ…金を持ってません」
弟子はいらいらして言った。
「金がないのに何しに来たんだ。羊で払おうっていうのか」
「とんでもない。羊の群れは村の人のもの、オレは雇われて番をしてるだけで…羊はオレのじゃないんです」
「でも、お前は琴を探しに来たんだろ」
「そうです、オレは琴と語り部の帽子を探しに来たんです」
今度は琴職人が苛立った。
「まだ持って行ってないのか」
ジンメイは言い訳しようとした。
「でも、オレは本当に弾けないんです…」
怒った老人は棒を手にして、野良犬を追い払うかのようにジンメイを庭から追い出した。
こうして語り部は自分の琴を手に入れた。
三日後、ジンメイは琴を弾いて語りに使う拍子を取れるようになった。
道を行く時、ジンメイは、自分の耳の奥に神の使いが体を縮めてしゃがみ、リズムを響かせているように感じて、拍子に合わせて足を踏み出し、拍子に合わせて、大通りを得意揚々と歩く人のように体を揺らした。
歩きながら彼は突然気付いた。水の動き、山の起伏はもともと同じリズムであることを。
そのリズムは一つだけでなく、異なったリズムもあることを。
風は草を波打たせ、天空では様々な鳥が様々なリズムで翼を羽ばたかせる。
より微かなリズムも感じることが出来た。
風が岩の空洞を通り過ぎ、水が樹の中を昇り、鉱脈が地下で伸びて行くリズム。
ジンメイはいとも簡単に琴を鳴らし、それらのリズムを真似ていった。
叔父の家のまだ青い実を付けた木で覆われた門の前に辿り着いた時には、すでにさまざまなリズムを繋ぐことが出来た。
いつの間にか耳の奥でリズムを刻んでいた神の使は消えていた。
それは彼自身が彼の手の中の琴を通してあの長く古い歌のリズムを聴き取っていたのだった。
高鳴る戦いの太鼓、軽やかな蹄の音。神が降りてくる時の憤怒の雷鳴、女の妖怪は鞭を揮うように蛇の形の稲妻を振り動かす…
叔父の家の門の鉄の環を叩いた時、その音はジンメイを現実の世界へ引き戻し、ここ数日何も食べていないことに気づいた。
扉が開くのを待たず、ジンメイはそのまま気を失った。
ジンメイの叔父は出て来るなり、すぐさま琴を目に目をやり、倒れている甥に向かって言った。
「運命の時が訪れたようだな」
ジンメイの叔父は人を呼んで、ジンメイをスモモの木の下の低い椅子に寝かせ、ヨーグルトを与え、香を焚いた。
ジンメイはまだ目覚めていなかったが、辛そうに寄せていた眉はほころんでいた。
空気の中にこれまでと異なる匂いが漂った時、彼の鼻は敏感にひくひく動き、緩んでいた口元がきりっとした線を描いき、ざらついた石のようだった耳にかすかな光が透けて見えた。
ジンメイの顔はまさに変化していた。
無表情な顔から、今は生き生きした顔に変わった。奇跡はこのように起こるのだ。
一人の人間が今まさにこれまでとは違う人間に変わろうとしていた。
朴訥な牧人が、胸に幾万もの詩を秘めた「仲肯」―神から授かった語り部となるのである。
そう、表情の変化はその顔かたちまで変化させるのである。
丘の上に着いた時、空はまだ明けきっていなかった。
振り返って、夜明け前の淡い光に包まれた村を見下ろした。
村はまだ目覚めていなかった。だが、ジンメイは村を後にしようとしていた。
草むらでは、大きな露がぶつかり合いころころと転がって、彼の柔らかな革靴に落ちた。
わずかな荷物を背負い、村を出て先へと進んだ。
村のはずれの羊小屋を囲む太い杭が朝の光に黒く光っている。
檻の中に横たわっている羊たちはまるで灰色の雲のように、外に向おうとする光を懸命に夢の中に留めようとしているかのようだ。
この静かな村は一人の羊飼いを失おうとしていた。
太陽が昇った時、村人たちは羊を牧場に追っていく男を新たに探さなくてはならないだろう。
彼は微かに笑い、向きを変えて大股で前へ進んでいった。
歩むごとに道端の草が当たり、ずっしりと重い露が一粒一粒足の上に落ちるのに任せた。
三日後、ジンメイは一本しか道のない小さな村に着いた。
村には六弦琴を作る年老いた職人がいた。
指さされた庭に入っていった時、年老いた職人が造り上げたばかりの琴を試していた。
貝の様に丸い琴の空洞に息を吹きかけ、それを耳のあたりまで持ち上げて注意深く音を確かめる。
その顔には満足げな笑顔が浮かんでいた。
老職人は言った。
「さあ、試してみろ」
弟子の一人が出てきて琴を受け取ろうとした。すると、老人は言った。
「お前じゃない。あの男だ」
老人は入って来たばかりの人物に直接琴を渡した。
ジンメイは言った。
「オレですか?」
老人は三人の弟子に顔を向けて言った。
「これはとても良く出来た琴だ。わしが作った中で一番いい琴だ。今、これを受け取るべき者が来たのだ」
「この男が…」
三人の弟子が同時に声を上げた。彼らは、琴がこのような男の手に渡るとは思ってもいなかったのだ。
ジンメイの、見えない方の目は大きく見開かれ、見える方の目は逆にしっかりと閉じられた。
この村は牧人相手の仕事で成り立っている。だが、この工房はそうではなかった。
この男の来歴を知るには、その身なりを見るまでもなく、間抜けて見えるほど頑な表情を見るまでもない。
歩くと体が左に右に揺れるがに股の脚を見れば、そして、体から立ち上る牧人特有の獣臭い匂いを嗅げばそれで十分だった。
弟子たちには、たとえ幻覚を誘う草を食べても、琴がこのような者の手に渡るとは想像できなかっただろう。
しかもそれは、老いた琴職人がその生涯の最後に造り出した、最も優れた琴なのである。
そこで彼らは一斉に声を上げた。
「この男が…」
「そうだ、この男だ。お前たちが琴に油を塗って磨き上げた時、ワシはこの男が来るのが分かったのだ」
「どうして分かったんですか。占い師みたいに」
琴職人は三人の弟子には構わず、ジンメイの方を向き言った。
「持って行きなさい。お前は夢に見た様子そのままだ」
「親方はこの男を夢に見たんですか」
「そうだ、神さまがワシに夢を見させたのだ。
神さまは言った。お前の琴は一番ふさわしい者に出会う、と。
神さまは言った。お前の琴作りの生涯はこれで終わりだ、と。
さあ、若者よ、お前の琴だ、受け取りなさい」
ジンメイはおどおどと琴を受け取り、うっかりして琴の弦に触れた。琴は美しい音色を立てた。
「オレ…金を持ってません」
弟子はいらいらして言った。
「金がないのに何しに来たんだ。羊で払おうっていうのか」
「とんでもない。羊の群れは村の人のもの、オレは雇われて番をしてるだけで…羊はオレのじゃないんです」
「でも、お前は琴を探しに来たんだろ」
「そうです、オレは琴と語り部の帽子を探しに来たんです」
今度は琴職人が苛立った。
「まだ持って行ってないのか」
ジンメイは言い訳しようとした。
「でも、オレは本当に弾けないんです…」
怒った老人は棒を手にして、野良犬を追い払うかのようにジンメイを庭から追い出した。
こうして語り部は自分の琴を手に入れた。
三日後、ジンメイは琴を弾いて語りに使う拍子を取れるようになった。
道を行く時、ジンメイは、自分の耳の奥に神の使いが体を縮めてしゃがみ、リズムを響かせているように感じて、拍子に合わせて足を踏み出し、拍子に合わせて、大通りを得意揚々と歩く人のように体を揺らした。
歩きながら彼は突然気付いた。水の動き、山の起伏はもともと同じリズムであることを。
そのリズムは一つだけでなく、異なったリズムもあることを。
風は草を波打たせ、天空では様々な鳥が様々なリズムで翼を羽ばたかせる。
より微かなリズムも感じることが出来た。
風が岩の空洞を通り過ぎ、水が樹の中を昇り、鉱脈が地下で伸びて行くリズム。
ジンメイはいとも簡単に琴を鳴らし、それらのリズムを真似ていった。
叔父の家のまだ青い実を付けた木で覆われた門の前に辿り着いた時には、すでにさまざまなリズムを繋ぐことが出来た。
いつの間にか耳の奥でリズムを刻んでいた神の使は消えていた。
それは彼自身が彼の手の中の琴を通してあの長く古い歌のリズムを聴き取っていたのだった。
高鳴る戦いの太鼓、軽やかな蹄の音。神が降りてくる時の憤怒の雷鳴、女の妖怪は鞭を揮うように蛇の形の稲妻を振り動かす…
叔父の家の門の鉄の環を叩いた時、その音はジンメイを現実の世界へ引き戻し、ここ数日何も食べていないことに気づいた。
扉が開くのを待たず、ジンメイはそのまま気を失った。
ジンメイの叔父は出て来るなり、すぐさま琴を目に目をやり、倒れている甥に向かって言った。
「運命の時が訪れたようだな」
ジンメイの叔父は人を呼んで、ジンメイをスモモの木の下の低い椅子に寝かせ、ヨーグルトを与え、香を焚いた。
ジンメイはまだ目覚めていなかったが、辛そうに寄せていた眉はほころんでいた。
空気の中にこれまでと異なる匂いが漂った時、彼の鼻は敏感にひくひく動き、緩んでいた口元がきりっとした線を描いき、ざらついた石のようだった耳にかすかな光が透けて見えた。
ジンメイの顔はまさに変化していた。
無表情な顔から、今は生き生きした顔に変わった。奇跡はこのように起こるのだ。
一人の人間が今まさにこれまでとは違う人間に変わろうとしていた。
朴訥な牧人が、胸に幾万もの詩を秘めた「仲肯」―神から授かった語り部となるのである。
そう、表情の変化はその顔かたちまで変化させるのである。