物語 放擲 その1
神の子は生れ落ちると、雅礱江と金沙江に挟まれた阿須草原で暮した。
草原の中央には美しい湖があり、草原の尽きる所は高く聳える雪山と透明にきらめく氷河である。
言い方を変えれば、阿須高原はこれらの美しい湖と雪山の間に広がっていた。
ジョルが現わした神の力を、人々はみな見ていた。ジョルが天から賜った力を濫用し生き物を殺戮する悪ふざけも、人々はみな見ていた。
だが、それらの生き物の中には妖怪や妖魔が無数にいたことは知らなかった。山や川に潜む目に見えない妖魔や妖怪を降伏させたことは、なおさら知らなかった。
人々のためにジョルがしたことは、ただ彼のおじトトンだけが見ることが出来た。だが、トトンの心はすでに悪魔に占拠されていたので、人々が伝説の神の子に失望を感じた時、ひどく心を痛めているふりをして口を閉ざした。
トトンの沈痛な言葉は人々の心を震えさせた。
彼はこう言ったのだ。
「神もまた私たちをこのように弄んでいるのだろうか」
ただ神の子だけは知っていた。
パドマ・サンバヴァは夢の中でジョルにこう告げていた。
「現在リンが治める細長い土地はあまりにも狭い。
強大な国王は、まず金沙江の河岸から西へ、北へと向かい、
黄河上流のより広い草原から、地中に塩が湧き出し乾燥のためラクダが走るとひづめに火花が散る北の地方まで、すべて占拠しなくてはならない。
リン国の未来の羊の群れには柔らかく潤った全ての草原が必要となり、
リン国の武将には駿馬が走り回るのに適した全ての場所が必要となるだろう」
この時ジョルは5歳になったばかりだが、体は既に20歳の男に等しく、リンので最も美しいデュクモを密かに眺めて楽しんでいた。
この娘は、ジョルの目の前で、その年齢にふさわしいの勇士たちと追いつ追われつしながら戯れ、男たちの心にかすかな痛みを刻ませていた。
ジョルは夢の中でデュクモの名前を口にした。
母は心配して言った。
「息子よ、お前にふさわしいのは今やっと生まればかりの女の子ですよ」
その夜、月の光は湖に落ち、揺蕩っていた。鳥の巣を襲う狐はみなジョルに殺されたが、時々麦畑から驚いたように鳥が飛び立った。そのまま月へと飛んで行くかのように。折れた鳥の羽がテントの煙を逃す穴から漂って来て、ちょうどジョルの顔に落ちた。
夜は水を湛えたように冷たく、星は絶え間なくめぐり、高貴な生まれのジョルの母親は涙を止めることが出来なかった。
彼女は息子を揺り起し、胸に抱きしめ声を挙げて哭きたかった。だが、ジョルの夢の中に入ったパドマ・サンバヴァが息を吹きかけると、彼女はまた羊の毛の中で体を縮こまらせ、深く暗い、夢のない眠りの世界に入って行った。吐き出す息は羊の毛の縁で白い霜を結んだ。
この窪地を抜け、河に沿った上流や下流の固い岩の堤の上に聳え立ついくつかの城塞には灯りが輝いていた。
神の子が生まれてから、リンは平和の光に覆われていた。
穀物の力は酒を醸し、乳の力はヨーグルトとなり、風の中に、夜に蠢く妖魔が黒い外套を翻す不吉な音はもはや聞こえなかった。
夜の気配の中、わずかな人々のみが言葉の韻律を味わい、少数の職人のみが技を磨いていた。どのように火を祭り、土を焼き物に変え、石を銅や鉄に変えるか、その技を求める者はさらに少なかった。
センロンさえも自ら放擲した息子を忘れ、龍の生まれの妻を忘れ、二人が下等な民のように飢えと寒さに耐えているのを忘れていた。
彼の体は酒と女に焼かれていた。彼が腕を上げて命を下すのは、召使たちに更に声を挙げて歌わせるためだった。
ただ一人、ギャツァ・シエガだけが愛する弟を想い、その想いに耐えきれず馬で砦を駆け出し、ジョルに会いに行った。
彼のマントが夜の風に翻るや否や、ジョルの夢に入っていたパドマ・サンバヴァは空気の振動を感じた。
「この夜は、お前たち兄弟のものではない」
彼はこう言うと、同時に、形のない黒い壁を立てた。
ギャツァが剣を振るって壁に切りつけると、壁はその刃を受けて開く。だがまたその度に、音もなく塞がった。
ギャツァはどうすることもできず、馬の方向を変えて高い丘に駆け上るしかなかった。そこで彼は老総督に出会った。
老人が丘の上に立って遥かに見つめているのは、常に心にかかるあの方向だった。
そこでは大地が、河の曲がる片側で沈み込み、これまで月の光で照らされたことさえなかった。
ギャツァは言った。
「弟に会いたい」
老総督は言った。
「リンはいつまでこのように安閑としていられるのか、心配でならない。だが、お前の弟は私に天意を見せてくれないのだ」
神の子は生れ落ちると、雅礱江と金沙江に挟まれた阿須草原で暮した。
草原の中央には美しい湖があり、草原の尽きる所は高く聳える雪山と透明にきらめく氷河である。
言い方を変えれば、阿須高原はこれらの美しい湖と雪山の間に広がっていた。
ジョルが現わした神の力を、人々はみな見ていた。ジョルが天から賜った力を濫用し生き物を殺戮する悪ふざけも、人々はみな見ていた。
だが、それらの生き物の中には妖怪や妖魔が無数にいたことは知らなかった。山や川に潜む目に見えない妖魔や妖怪を降伏させたことは、なおさら知らなかった。
人々のためにジョルがしたことは、ただ彼のおじトトンだけが見ることが出来た。だが、トトンの心はすでに悪魔に占拠されていたので、人々が伝説の神の子に失望を感じた時、ひどく心を痛めているふりをして口を閉ざした。
トトンの沈痛な言葉は人々の心を震えさせた。
彼はこう言ったのだ。
「神もまた私たちをこのように弄んでいるのだろうか」
ただ神の子だけは知っていた。
パドマ・サンバヴァは夢の中でジョルにこう告げていた。
「現在リンが治める細長い土地はあまりにも狭い。
強大な国王は、まず金沙江の河岸から西へ、北へと向かい、
黄河上流のより広い草原から、地中に塩が湧き出し乾燥のためラクダが走るとひづめに火花が散る北の地方まで、すべて占拠しなくてはならない。
リン国の未来の羊の群れには柔らかく潤った全ての草原が必要となり、
リン国の武将には駿馬が走り回るのに適した全ての場所が必要となるだろう」
この時ジョルは5歳になったばかりだが、体は既に20歳の男に等しく、リンので最も美しいデュクモを密かに眺めて楽しんでいた。
この娘は、ジョルの目の前で、その年齢にふさわしいの勇士たちと追いつ追われつしながら戯れ、男たちの心にかすかな痛みを刻ませていた。
ジョルは夢の中でデュクモの名前を口にした。
母は心配して言った。
「息子よ、お前にふさわしいのは今やっと生まればかりの女の子ですよ」
その夜、月の光は湖に落ち、揺蕩っていた。鳥の巣を襲う狐はみなジョルに殺されたが、時々麦畑から驚いたように鳥が飛び立った。そのまま月へと飛んで行くかのように。折れた鳥の羽がテントの煙を逃す穴から漂って来て、ちょうどジョルの顔に落ちた。
夜は水を湛えたように冷たく、星は絶え間なくめぐり、高貴な生まれのジョルの母親は涙を止めることが出来なかった。
彼女は息子を揺り起し、胸に抱きしめ声を挙げて哭きたかった。だが、ジョルの夢の中に入ったパドマ・サンバヴァが息を吹きかけると、彼女はまた羊の毛の中で体を縮こまらせ、深く暗い、夢のない眠りの世界に入って行った。吐き出す息は羊の毛の縁で白い霜を結んだ。
この窪地を抜け、河に沿った上流や下流の固い岩の堤の上に聳え立ついくつかの城塞には灯りが輝いていた。
神の子が生まれてから、リンは平和の光に覆われていた。
穀物の力は酒を醸し、乳の力はヨーグルトとなり、風の中に、夜に蠢く妖魔が黒い外套を翻す不吉な音はもはや聞こえなかった。
夜の気配の中、わずかな人々のみが言葉の韻律を味わい、少数の職人のみが技を磨いていた。どのように火を祭り、土を焼き物に変え、石を銅や鉄に変えるか、その技を求める者はさらに少なかった。
センロンさえも自ら放擲した息子を忘れ、龍の生まれの妻を忘れ、二人が下等な民のように飢えと寒さに耐えているのを忘れていた。
彼の体は酒と女に焼かれていた。彼が腕を上げて命を下すのは、召使たちに更に声を挙げて歌わせるためだった。
ただ一人、ギャツァ・シエガだけが愛する弟を想い、その想いに耐えきれず馬で砦を駆け出し、ジョルに会いに行った。
彼のマントが夜の風に翻るや否や、ジョルの夢に入っていたパドマ・サンバヴァは空気の振動を感じた。
「この夜は、お前たち兄弟のものではない」
彼はこう言うと、同時に、形のない黒い壁を立てた。
ギャツァが剣を振るって壁に切りつけると、壁はその刃を受けて開く。だがまたその度に、音もなく塞がった。
ギャツァはどうすることもできず、馬の方向を変えて高い丘に駆け上るしかなかった。そこで彼は老総督に出会った。
老人が丘の上に立って遥かに見つめているのは、常に心にかかるあの方向だった。
そこでは大地が、河の曲がる片側で沈み込み、これまで月の光で照らされたことさえなかった。
ギャツァは言った。
「弟に会いたい」
老総督は言った。
「リンはいつまでこのように安閑としていられるのか、心配でならない。だが、お前の弟は私に天意を見せてくれないのだ」