塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来初期短編『寐(眠る)』

2018-12-06 01:15:56 | 塵埃落定
「眠る」(要約)


予感は存在すると確信しなくてはならない。
「私」が羊飼いが自分の想像の世界に入って来るのを予感したのと同じように。

私はジープに乗って甘村にやって来た。かつての右派で自分は反逆者だと誇っている同乗の男が、小説を書く時に守らなくてはならないことを私に語っている。私は文学の世界と現実の世界の違いを考える。そして、羊と羊飼いの姿を見る。羊飼いは「来いよ」という。私は「来たよ」と答える。


12年前、流れ者の暮らしをしていた私はこの村で足を脱臼し、土地の医者の手当を受けた。医者は白楊の木の皮を私の足に巻き脱臼を直してくれた。医者は白楊の木が枯れるごとに、新たに木を植えて補充していた。

私はここで羊飼いに出会う。彼は十年間木を植えるための穴を掘り続けている。羊が木の葉を食べて枯らしてしまうからだ。山には七百個の小さな穴がある。なぜか分からないが、私はそのすべてをはっきりと分かっていた。それを想像力と呼ぶ。そして、羊飼いがこの日私がここに来るのをぼんやりと予感しているのも分かっていた。

あの医者はすでに亡くなっていて、私は一晩羊飼いの家に泊まる。羊飼いは父親の残した宝――磁器の瓶を写真に撮らせようとする。

その時羊飼いは突然私に言う。「あの時来たのはお前だろう」。十二年前、一人の少年がこの宝を盗みに来たが見つかってしまい、壁を超えようとして足を脱臼した。村の医者は親切にその子の傷を治した。その後、その子はこっそりと出て行った。「あの時お前はこの宝を盗りに来たのだ」。
よく覚えていない、と私は答える。「その子は宝を盗もうとしたのではなく、トウモロコシを盗もうとしたのかもしれない」。羊飼いはしばらく黙ってからうなずく。私は「帰るよ」という。羊飼いは「寝て行け」と言う。だが、私は寝付けない。私はすべてを忘れてしまったのかもしれない、そして、何も忘れていないのかもしれない。
その夜、私は医者の植えた木の夢を見た。この小説の作者が木の葉の間でイェイツの詩を暗唱していた。

青春のはじめての恍惚の後、私は
日々考え、ヤギを見つけたが
道筋は見つけられなかった
歌おう。もしかして、お前が考える間に
いくらかの薬草を抜き取ることが出来て、私たちの悲しみは
もうあのように苦くはなくなるかもしれない。



*****


想像と現実が入り混じる不思議な物語だ。現在の自分と過去の自分。過去に出会った羊飼い。お互いがお互いを予感し、それらが一つに重なっていく。それが創作であり、現実を超えた確かで同時にあやふやな想像を孕んでいる。
イェイツ。ヨーロッパ大陸に遍在していた古い民族・ケルトの詩人に阿来は惹かれたていた。その詩に触発された実験的作品と言えるかもしれない。








阿来初期短編 『老房子(古い家)』

2018-11-20 19:25:43 | 塵埃落定
『老房子(古い家)』1985 (要約)

山の中の朽ち果てた建物。それは何代にも渡りこの地を治めて来た白玛土司の城塞だった。
四十数年前の解放の時、若い土司はこの地を捨て内地へ行ってしまう。残された若い土司夫人は民国の兵たちに犯され、出産の時に命を失う。

この土司に仕えた門番。すでに108歳だ、と自らつぶやく。ある日若者が尋ねて来て手紙を渡す。それをきっかけに、自分が仕えた主人と古い建物を思い起こす。
あの時、土司夫人の叫び声によって窓に貼られた紙が破れ、貼りかえられないままに風に揺られ、風の吹き抜けていく音はまるで夫人のうめき声のように聞こえる。

夫人が犯された時、彼もその場を目撃した。一人の兵士が殺されて、床に血がたまっていた。だが、土司夫人は誇りたかく黙って立ちはだかっていた。恐怖に気を失った彼を夫人が手当てし、一つの床で寝る。
その後夫人が孕み、産み落とす時、彼は血まみれの子を取り上げ、土の中に埋める。難産のため夫人は命を落とす。
狩りに来た男の話では、その時門番の男も一緒に死んだと伝えられている、という。では、自分は…もう死んでいるのだろうか。

届いた手紙は、内地へ行った土司からで、内地で役人となり、夫人とは離婚するとあった。23年前に届いていた手紙。夫人はそれを読んだのだろうか。手紙には、門番のことも書いてあったのだろうか。
手紙は、強い風にさらわれて、山の下へと消えて行く。

門番は破れた窓の紙を貼り変えようと建物に入って行く。彼が歩くごとに、階段も壁も崩れていく。風が吹き、鹿の脂の灯が揺れ、窓の紙に燃え移る。そして彼の服にも炎が上がる。

夫人の産んだ子は自分の子だったのだろうか。そう、自分の子だった。炎の中で彼はそう考える。

*****

交差する過去と現在と幻。
この地の族長である土司の時代の終わりを、悲しく、血なまぐさく、幻想的に描いている。
『塵埃落定』へと続く一つの段階と言える。








阿来の初期短編 『守霊夜(通夜)』

2018-11-15 00:45:32 | ケサル
『守霊夜(通夜)』 1988年 (要約)

4月、山の中の小さな村。村人たちが遺体の納められた棺が届くのを待っている。
その遺体は、この村で育ち、他の村で教師となり、車の事故で亡くなった男性・貴生。彼の教え子で今教師をしているグサンドルジェが付き添っている。

通夜の夜、多くの村人が棺の守をするが、その中で貴生の死を最も悲しんでいるのは章明玉だった。彼は、解放の時に内地からこのスルグ村に分配され教師となり、貴生はじめ多くの子供を教えた。教え子の多くは幹部となっているが、貴生は怖がりの優しい子で、教師となったが出世はしなかった。かれの父親はやはり車の事故で早くに死に、母と妹はよその地に行ってしまったが、貴生はこの村に埋葬されるのを望んだという。

章は悲しみと酒の勢いとで周りの者に悪態をつき、疎まれる。だがそこには自分の生き方への自責の念と教え子への想いがあふれていた。

貴生の教え子グサンドルジェは後に教育局で職を得る。章は52歳の時に女性問題で処分を受ける。だが、30年教師をしたことによりもとの村に留まることを許された。少年だった阿来は後にこの小説を書くことになる。この夜のことが彼の中でもっとも強く印象に残っていたと書かれている。

あの通夜に集まって来たのは、貧農協会のバオロン、退役軍人ヨンツォン、大隊長ガルロ、そしてまだ少年の阿来もその中にいた。彼らはスルグ村の村人として、他の物語にも登場する。

*****

やはり阿来はフォークナーのヨクナパトーファのように、この小さな村を通して壮大な物語を描きたかったのだろう。
中国の歴史に翻弄されながらも、東チベットの地にしっかりと息づいた人々の姿をもう少し肉付けしていきたい。
それがどのように『塵埃落定』へと結実していくのか、まだ謎はたくさんある。












阿来の初期短編  『生命』

2018-11-10 01:19:24 | 塵埃落定

阿来の『塵埃落定』をどのように訳したらいいのか。
フォークナーを読んでからずっと考えている。
その答えを得るために、阿来の初期の短編を読んでみることにした。
まず、『生命』。1985年の作と思われる。この中で阿来は詩を何よりも価値のあるものと訴えている。『塵埃落定』はやはり詩として訳すべきなのかもしれない。



『生命』(要約)

秋霜の降りた草原へと続く険しい山の中。長時間きつい道を登り続け、同行の馬も歩みを止める。二人の男はここで一休みすることにした。一人は長髪、一人は坊主頭。二人ともかつては僧だった。
解放によって彼らの寺は封鎖され、年取ったラマは寺を焼き死んだ。二人の若いラマも死んだと思われていた。だが彼らは生き延びていた。その後彼らは、迷信を破るためという理由で、工作隊から山で狩りをするよう迫られるが、殺すよりは自分が死ぬと言って断崖から跳び下りる。死んだ、と思われた。だが、彼らはこの時もまた生き延びた。それ以降、二人は戒を捨て、一人は髪を伸ばした。
それがこの二人である。夜雪が降る。彼らは衣にくるまって眠る。

同じころ同じ山の中、風に苦しみながら、若い郵便配達員が馬に新聞や手紙を積み、険しい登り道を進んでいた。自ら志願し、年老いた配達員の代わりに往復五日かる山の中の小さな村を目指していた。ホイットマンの詩を口ずさみながら。だが、激しい風と雪にその声も止み、喘ぐ馬を気遣って荷を下ろすと、その上に自分のコートを被せ、休むことにした。

深夜、二人のラマは遠くに馬のいななきを聞きつけ、駆けつけると、若者が意識を失っていた。僧たちに温められて若者は生き返える。

僧たちは若者になぜこここに来たのかと尋ねる。若者は答える。詩を書きたかったのだ、と。そして、今深く雄大な詩を読んでいるのを感じる、自分が雄大な詩を読むホイットマンになれると信じられる、と。
僧が訪ねる。怖くないのか?
怖くない。
何故?
そうやって死ねば価値がある。
価値?
そう、誇り高く死ねる,.人間らしく。

二人の僧は考える。自分たちのあの二回の死は価値のある死ではなかったのだ、と。
若者が尋ねる、どうしたんですか?
いや、何でもない。
僧は静かに微笑んだ


***** *****


若者が雪の中で口ずさんだホイットマンの詩
ホイットマン「草の葉」冒頭

申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられ、
生まれ故郷の魚の形をしたパウマノクを出発して、
多くの国々を遍歴したあと――人の往来はげしい舗装道路を愛するものとして、
わたしの都市であるマナハッタのなか、さてはまた南部地方の無樹の大草原のうえの住民として、
あるいは幕営したり、背嚢(はいのう)や銃をになう兵士、あるいはカリフォルニアの抗夫として、
あるいはその食うものは獣肉、飲むものは泉からじかというダコタの森林中のわたしの住居に自然のままのものとして、
あるいはどこか遠い人里離れたところへ黙考したり沈思するために隠棲(いんせい)し、
群衆のどよめきから遠のいて合間合間を恍惚(こうこつ)と幸福に過ごし、
生き生きした気前のいい呉れ手、滔々(とうとう)と流れるミズリー川を知り、強大なナイアガラを知り、
平原に草を食う水牛や多毛でガッシリした胸肉の牡牛(おうし)の群れを知り、
わたしの驚異である大地、岩石、慣れ知った第五の月の花々、星々、雨、雪を知り、
物まね鳥の鳴く音と山鷹(やまたか)の飛び翔(か)けるのを観察し、
明け方には比類まれなもの、湿地種のシーダー樹林からの鶫(つぐみ)の鳴くのを聴き、
《西部》にあって歌いながら、ただひとりでわたしは《新世界》へと旅立つ。

                                   富田砕花・訳



非難かそれとも加護か

2017-08-02 00:53:31 | ケサル

 語り部ジグメは旅の途中で、執拗にジャンの国を追い求めます。物語の起こった場所を確かめたかったからです。
 何故ジャンなのか。
 そこには塩というキーワードがあります。そして、ジャンの近くにある木雅(ムヤ)という土地は、昔の西夏の国の人々が移り住んだ場所とも言われ、文化的な謎を孕んでいます。そしてこれに続く「伽国の物語」の舞台でもあります。

 さて、ジグメは知り合った塩採り人夫たちに、ここはジャンの国かと尋ね回り、あきれられます。それでもジャンを求めて塩の道を進む決心をします。

 「塩を舐めると微かな苦味が広がり自分が物語の奥にある真実を追い求めているような気がした」

 そしてついに、山の中の洞窟で一夜を明かした時、夢の中で神の罰を受けるのです。夢の中に現われた神人はケサルのようにも見えました。

   *

 神は言った「語り部は衆人の中にいなければならない」
 ジグメは答える「オレの聴衆も、ジャンが攻めた塩の湖がどこにあるか知りたがっています。この物語はみんな本当ですか」
 神「聴衆は、真偽を問うことはない。お前は何故そのようなことを聞くのだ。神を怒らせたいのか」
 ジグメが答える前に神は体中から光を発すると、弓を引き、ジグメを矢で持ち上げ、その矢を放った。飛んで行く間、強張ったジグメの体は廻りの氷の結晶を砕き、折り重なる雲を引き裂いた。星に近い空を飛んで行きながら、ジグメは気を失った。
 気を失う前、辺りに響き渡る神の声を聞いた。
 「その物語と詩は口を開けば出てくるのだ。それ以上考える必要はない」
 ジグメは目を閉じて言った。
 「もう何も考えません。責めないでください。本当にもう何もしません」
 
  *

 そして蠅の飛び交う豚小屋にいる自分を発見します。

 ジグメはこの後体に射込まれた矢と共に各地をさすらい、語り続けましたす。時には病院へ行き検査を受けましたが、何も見つかりませんでした。

 次に二人が夢の中で会った時、ジグメはケサルに伝えます。

   *

 「オレはあなたを怒らせたんです。物語の中のジャンやモンの国が本当にあるか知りたくて、あちこち訪ね歩いてしまいました。あなたは怒って矢でオレを遠くに飛ばし、探し廻れないようにしたんです」
 腰の辺りをさすると、鉄の矢が腰から背骨に沿って首の後ろまで突き刺さっているのが分かった。体の向きを変えて、夢の主に矢を見せた。
 この人物は弓を触って言った「おお、本当に私の矢だ」

   *

 物語の終盤。ジグメは年老い旅に疲れています。ケサルもまた地上でのすべての戦いを終え、天へ帰る日を待っています。

 二人はまた夢の中で出会います。

   *

 ジグメの言葉が聞こえた。
 「王様。物語の結末を知りたいとずっと望んでいましたね。その時が来たのです」

 語り部の声が聞こえ、彼の涙を感じたその瞬間、ケサルは千年後のアッシュ高原、未来に来ていた。新しい廟に自分の像があるのを目にした。あの語り部がその像の足元に額ずいている。
 「神さま。物語を終わらせるのですね。それなら、オレの体に入っているものを取り出してください。年老いて、こんな不思議なものを背負いきれません」
 ケサルは思わず尋ねずた「どんなものか」
 「オレの体に射った矢を忘れたんですか」
 「矢?」
 「矢です」

 その時、ケサルの像が手をあげジグメの背を軽く撫でた。カランという音が響き、鉄の矢はジグメの体を離れ地に落ちた。その瞬間、ジグメは物語が去って行くのを感じた。風と共に砂塵が舞い上がるように、物語は天へと飛んで行った。ジグメの頭の中は空っぽになった。

 物語を失った語り部はその後この地に留まった。リン国の君臣の像が陳列されている堂の中を手探りで掃除しながら、日々老いていった。誰もいない時は、あの矢を撫でた。それは確かに鉄の矢で、鉄の冷たさ、鉄の重くざらついた質感を湛えていた。

  *

 ジグメが旅の途中で神の罰を受けたのは確かです。神はジグメの体に矢を射ったのです。
 長い間ジグメを苦しめた、この矢とはいったい何だったのでしょう。何かの象徴でしょうか。そして、ジグメはこの矢を本当に重荷に感じていたのでしょうか。
 やはりこのことを阿来に尋ねてみました。


「これは何かの象徴ではありません。多くの語り部は彼らの物語はケサルが夢の中で与えたものです。その方法は様々で、例えば刀で腹を割かれ、何冊かの本を入れられそれから語れるようになった。また多くの語り部はそのの語れなくなったり、これまでほど多く、うまく語れなくなったりします。ケサルが物語を持って帰ったと言うのです。その方法はと言えば夢の中に現れて腹の中に詰め込んだ本を持って帰るのです。私の知っているある語り部は山の中で古代の矢を拾い、それから語れるようになったそうです。私はこの話に啓発を受け、物語に合わせて想像を膨らませたのです」



 阿来は象徴ではない、と答えていますが、やはりこの矢の意味を考えずにはいられません。

 阿来の言葉から、ジグメに放たれた矢は、多くの語り部が夢の中で授かったのと同じ物語そのもの、そして物語を語る力であると受け止めて間違いないでしょう。
 ジグメは若い頃にやはり夢の中で腹に本を詰め込まれ、それからケサルを語れるようになりました。つまり、ジグメは二度物語を授かったことになります。
 この矢によってジグメは再び語り部としての宿命を背負わされます。語ることを望んでいるどうかはもはや問題ではなく、それはすでに奥深いところに存在するものとなりました。

 確かに神は怒り、ジグメの行動を非難し、矢を放ちました。だがそれは罰であると同時に、信じていれば物語と詩は自然に口から出て来ると知らせ、再び彼に力を与えるための励まし―加護でもあったのです。
 そうであれば、神に選ばれ、それ故に孤独だったジグメの物語に一筋の光が射し込みます。

 ただし、その後のジグメの旅はやはり平坦ではありませんでした。それでも、時には神として畏れながら、人間としてケサルを思いやる心を最後まで捨てませんでした。

 そのジグメの姿の中に、物語という草原を彷徨っている阿来の姿が重なります。



     ★ 『ケサル王』の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304 







白い血

2017-07-11 01:09:49 | ケサル

 ケサルの兄、ギャツアはこの物語の重要な存在でありながら、なぜか早くにこの世を去ってしまう。
 物語の中の最も大きな戦い、「ホル・リンの戦い」で、ケサルが酒色に溺れている間に、一人敵地に乗り込み、あっけなく命を落とすのである。

 ホル国の将軍シンバメルツは、ギャツアの強さをよく知っていて、まともに戦っては敵わぬと策略を巡らし、一対一で弓の技を競おうと申し出る。そしてあろう事か、ギャツアが準備している隙に、額に矢を放ち殺してしまうのである。いかに名将とはいえ、卑怯この上ない、許しがたい戦法だ。(こんなメルツが後にケサルに許され、臣下となるのだから、これもまたケサル物語の面白さでもあるのかもしれない)

 弟思いで純真で一途な、そしてきっと見た目も麗しい人物がこのように早く物語の舞台から退場してしまうとは、なんともくやしく残念である。

 阿来もそう感じたのかどうか。死の前にもう一つギャツァにまつわる悲劇的な物語を加えている。それは白い血を流して死んでいく弟の物語である。


 ホルに乗り込んだギャツアを最初に迎え撃ったのはホルの年若い王子だった。彼は自分はギャツアの弟だと名乗る。信じられないギャツアは攻撃の手を緩めない。もはやこれまでという際に王子は言う。もし私が死んで流れ出す血が白かったら、私があなたの弟だという証です。ギャツアが一突きすると、王子は白い血を流して死んでいった。自分の兄が真の英雄であることに満足の笑みを浮かべながら。
 この王子とギャツァの母は漢の地から嫁いで来た姉妹であり、二人はいとこであったのだ。

 悲しんだギャツァは死を覚悟してシンバに戦いを挑むのである。そしてあえなく世を去る……


 この悲しい物語について直接阿来に聞いてみた。その答えは、

               *

 『ケサル王』の中の物語のいくつかはもとの物語と完全に同じではなく、私が書き換えたものもあるのです。
 この白い血の物語もその中の一つです。
 何故白い血を流すのか、それはある物語から啓発を受けたからです。
 南宋が蒙古元朝によって滅ぼされた後、捕虜となった南宋の幼い皇帝はチベットのサキャ寺に送られ出家させられました。
 彼は成人し学問に精通した高僧となりましたが、元朝は安心できず、彼が謀反を企てたとして内地に呼び戻し、今の武威、古代の涼州で殺害しました。
 刑に臨みこの前皇帝は言いました。私には謀反の考えはない、処刑後、流れ出す血が白ければ、私が潔白だという証拠である。
 果たして彼の体から流れてきたのは白い血でした。
               ⋆

 いくつかの資料を探すと、この物語が書かれていた。


 南宋最後の皇帝、名は趙顕。四歳で皇位に登り七歳で元に破れ退位する。元の太祖フビライは彼を燕の国に封じたが、先王朝の皇帝を近くに留めておくのは穏やかなことではないと、チベットのサキャ寺へ送り出家させる。この年趙顕は十九歳。だが、その後については中国の歴史書には伝わっていない。

 そこで1960年代にある歴史家がチベットの歴史書を漁り、その続きを見つけ出した。

 趙顕の法名は合尊、チベット語の意味は神の家の出家者、皇室出の僧という意味である。チベット語と梵語に通じ、高名な翻訳者でもあった。だが、彼はやはり悲惨な運命から逃れることは出来なかった。
 元の次の皇帝・英宗はある占い師の言葉を信じた。「西方の僧が謀反し皇位を奪取するだろう」調査に向わせると多くの信者が合尊大師を取り囲んでいた。そこで英宗は彼を斬首し後の愁いを絶った、という。

 また、趙顕は詩によって罪を得たという説もある
 「寄語林和靖 梅花幾度開 黄金台下客 無復得還」
 (梅の花は幾度咲いただろうか、私は燕京の客となり家に帰ることが出来ずにいる)
 数十年前の古い詩を密告され「江南の人心を動かそうとの意あり」として、趙顕は命を差し出すことになったのである。

 趙顕―合尊大師は殺される時白い血を流したという。チベットの言い伝えでは無実の罪で死ぬ者の血は白いとされている。
 彼は死に臨んでこう言った「私は謀反を思ったことなどない。殺されるからには次の余で蒙古皇帝の位を奪わんことを願う」
 チベットの歴史書によると、趙顕は死後大明皇帝、即ち朱元璋に転生し、帝位を奪い返した。また、元順帝は趙顕の子という説もある。



 武威は漢の地からチベットへの入り口である。古代の武威―涼州にはいくつもの言葉が行き交っていた。だが、吐蕃が敗れ去った後、その地は忘れ去られていった。このような地にあって、死に臨み自らの潔白を訴えた皇帝の姿は、歴史と地理の変遷を強く感じさせる。
 ケサル物語のホルの国とは蒙古といわれている。ホルと戦うギャツアの想いと、時代に翻弄された皇帝の想いが、阿来の中で何らかの反応を起したのだろう。


 阿来が自ら述べているように、『ケサル王』の中には作者の自由な創造が至る所に織り込まれている。




     ★ 『ケサル王』の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304







家馬と野馬の物語

2017-06-26 12:31:45 | ケサル
阿来の『ケサル王』は、次の言葉から始まる。


  その時、家畜としての馬と野生の馬がやっと区別されたばかりだった。
  歴史学者は言う。家畜としての馬と野生の馬がまだ区別されていない時を前蒙昧時代といい、
  区別されて間もなくを後蒙昧時代という。


これを読んでからずっと、この意味を考えていた。そしてやっと、その物語を見つけ出すことが出来た。

20世紀のはじめ、英仏の学者が敦煌千佛洞で吐蕃时代の古い文書を発見する。国に持ち帰って研究した後、イギリス人の学者FWトーマスがその中のいくつかの物語をAncient folk-literature from North-Eastern Tibet(1957)という一冊の本にまとめた。その中の「美しい時代の終わり 馬とヤクの悲劇」と名付けられた章に“家馬野馬”の物語が収められている。

中国では李有義が訳し《东北藏古代民间文学》として出版されている。

物語はドマニンダ(心の純潔な者と言う意味らしい)という人物に向けて語るという形をとり、語り、叙述、詩、リズミカルな擬音などが混ざり合う、自由な形式で綴られている。

簡単にまとめて見た。





「美しい時代の終わり 馬とヤクの悲劇」

 
 昔、天には神の加護があり、悪は他所に閉じ込められていた。
 
 神の加護により
 作物は豊かで、水は澄んでいた。
 
 野牛は悪意に満ち、羊は人を傷つけるが
 悪は他所に閉じ込められていた


 だが、ドマニンダよ。
 生き物に徐々に変化が起こった。
 作物も乳もとれなくなり、首領が現れ、奴隷が生まれた。
 
 だから、ドマニンダよ。
 水があったらすぐ引いてくるがよい。
 水路はすぐに汚染されるから。
 首領たちは高い地位を望むようになるから。
 
 昨日、今日、明日。慈愛は邪悪と出会うだろう。

       * 

昨日の昨日、九十九日の昨日、
馬の夫婦が天上で幸せに暮らしていた。
その頃、充分な草がなく、充分な水がなく、馬は下界に降りてきた。
そこで三頭の子を生んだ。一番上がタンチャン、二番目がウザ、三番目がマンダ。

ある日一番上のタンチャンはガワというヤクに出会い、言った。草原の草と水を分け合おう、と。だがヤク・ガワは承知せず、タンチャンを殺した。
タンチャンの体は鳥や熊にガジガジと食われ、血は地面にゴクゴクと飲まれ、風にサラサラと飛ばされた。

それを知った末の弟マンダは仇を討つと誓う。
だが、二番目の弟ウザは、兄が敵わなかったものに勝てるはずがない、と反対し、他の草原へ行こうと誘う。そこには充分な草も水もあるはずだから。

マンタは兄を責める。なんと無能な馬よ、それなら私は人間に助けを求めよう。

するとウザが言う。人に近づけばくつわを嵌められ口が傷つき、鞭を当てられ心が傷つく。
マンタは答える。それは野にいても同じこと、他の生き物に痛めつけられ、草や蔓に傷つけられる。

こうして二頭は別々の道を歩むことになった。

マンダは遥かな国・ジティンへ行き人間タンシェンと出会う。
マンダは人間に仇討ちの手助けを願って言う。「生きている間は私があなたを背負いましょう。死んだ後七十万の主になったら立場を入れ替えましょう」
人と馬はそれぞれ印を押して契約を交わした。

人間を乗せるようになり、マンダは誇りを感じる。まるで猛虎か豹になったかのように。

馬と人間は兄の死んだ場所へ行き、人間タンシェンが縄と刃物を使ってヤク・ガワを倒す。

ヤク・ガワの肉は神に捧げられた
ヤク・ガワの皮は裂かれて縄になった
悪は罰を受けた
仇討ちは果たされた

戦いの後、人間の住むジティンへ戻ると、タンシェンはひどく疲れ、髷が抜け落ちた。
妖魔が地から這い出し、その声は四方に響いた。
王は死んだ。
美しい玉は砕けた、粉々に砕けた。

開祖シェンラプ・ミボ(ボン教の始祖)と呪術師が国王の望みを受け、堅固な権力と秩序を打ちたてる。


マンダはトマニンダに言った。

 水があればすぐ引いてくるがよい。
 水路はすべて汚染されるだろう。
 首領たちは高い位を望み、
 純粋な樹液は役に立たない。

だから、今日と明日、生き物は変わっていく。トマニンダよ、それはこの物語とまるで同じこと。

 水があればすぐに引いてくるがよい。
 水路はすべて汚染されるだろう。


 昨日、今日、明日、友と妖魔は出会う、妖魔と出会う。


         * * *




解説によると、この物語は、草や水の重要性を語り、草や水が不足したために遊牧が起こったことを伝えているという。また、馬とヤクが戦う様子は、美しく豊かな草原を巡って遊牧民の間で闘争がおこったことを描いている、という。

人間と交わり忠実な友となったものと、人間に自由を奪われるのを嫌い野生のままでいるもの、という対比が家馬と野馬で象徴されている。それは明らかに階級の誕生、奴隷制度の始まりを表しているだろう。それは外部との争いの始まりでもあった。
また、はるか昔にも環境の汚染に対する畏れがあったことが想像される。


『ケサル王』と同じ頃に出版された長編『空山』でもこの物語は引用されている。

(還俗したラマ僧が)「見ろ、人間を分類し始めてから、この世は平穏でなくなった」とため息をつく。こういう言い方は遥か昔の伝説に起源がある。この伝説は実際には大渡河上流の渓谷の部族史である。…この伝説は最初からため息と憂鬱な調子で始まる。その頃は家で飼っている馬と野生の馬との区別が始まったばかりだった。その後、家畜としての馬を手なずけ、調教する技術によって、人間に知恵と力の区別が始まった。…この区別が生まれてからこの世には混沌という調和が失われ、様々な紛争へと発展して、そのために憎悪や不安が生まれた。(山口守男・訳)


まさにその通りである。

この物語がドマニンダという一人の人物に向って語られているというのもまた興味深い。チベットに伝わる語りの文化。遥か昔には実際に人々の前で語られていたのだろう。人々に届きやすい、土地に根ざした象徴的な言い回しによって、その土地の真の歴史が途絶えることなく遥か先まで残されることになる。これがチベットという地にふさわしい形式だったのかもしれない。
最後に妖魔まで現れるとは、まさしくケサルが下界に降りることになった状況そのものである。

この物語の伝えられた地で育った阿来は、親しんだ物語を用いて、この後ケサル王の活躍する悲壮な舞台を用意したのである。


阿来またこう教えてくれた。
「トーマスは敦煌の文書を整理している時にこの物語を知りました。だが、今この地の人々の間にすでにこの物語りありません。この物語の一つの特徴は、仏教的な思想の浸透がほとんどないことです。そして仏教がチベットに入った後は、このように素朴である種の歴史の真相を反映した物語は現れなくなったのです」






     ★ 『ケサル王』の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304












再び『塵埃落定』へ

2017-06-12 01:51:12 | 塵埃落定



 『ケサル王』を何とか訳し終え、もちろんまだまだ見直しは続けていくのだが、やっと再びこのブログの出発点である『塵埃落定』への旅へと立ち戻ることになった。ケサルから学んだことが力になってくれると期待しながら。

 阿来の初期の短編には、生まれ育った地―中国文化とチベット文化の接するアバという地方を舞台とし、作者と同時代と思われる若者が父親の姿を追い求める真摯な想いを描いたものが多い。父親は、早くに死んだり、失踪したり、兄の父だったりと、その姿は曖昧である。主人公の想いを映すかのように、山で囲まれた標高の高い村の風景は過酷で美しい。そしてそこにも文革の波と、遠い街の変化の兆しが押し寄せていて、村人の人間関係に微妙な変化を与えている。

 登場人物一人一人が生み出す物語を、阿来は丁寧に描いていく。もともとこの地には遥か昔から語り継がれて来た物語があり、それを語り伝える風習は今も残っている。そうした風土の中で語られるいくつもの現代の物語は、時には遥かに語り継がれて来た物語と折り重なり反応合うが、揺らぐことはない。
 こうして阿来によって一つ一つの個人史がこの地を語る確かな歴史となっていく。

 この地の物語は、後の長編『空山』に受け継がれることになる。

 語り伝えられる物語の代表であるケサルをもとに阿来が『ケサル王』を書くのはすでに約束されていたことなのかもしれない。初期の作品の中で、主人公の兄―街の大学で学び言い伝えについての本を出版した兄について、村人たちが彼は将来ケサルのような物語を書くだろうと噂しているのが象徴的で興味深い。

 さて、『塵埃落定』だが、この作品はある意味で幸せな物語と言えるだろう。
 主人公は生まれつき頭がおかしく周りから笑われながらも、霊感ともいえる特異な思考経路のもとに自分の一族が治める部族が進むべき道を暗示していき、傍にいる父親によってその存在を認められ、父親の命を狙う仇を喜んで受け入れ、自ら求めるかのようにその刀によって刺され、血を流す自分の姿を静かに眺めながら、物語を終えているのだから。
 初期短編に見られる、父親を渇望する苦しみはここにはない。主人公は自らがすべてを引き受けることしか知らないかのようだ。無垢という言葉がうかんでくるほどに。

 この物語の時代、東チベットには多くのものが行き交った。1900年代前半の西康省の設置、日中戦争による混乱、イギリス、インドの思惑、中華人民共和国の成立に向けて白い漢人と赤い漢人の戦いの渦からも逃れられなかった。
 明の時代からこの地方は朝廷から冊封された複数の“土司”によって統治されていたが、気性の荒い風土のため土司間の争いが絶えず、歴代の朝廷は事態収拾のために幾度となく兵を送っている。1930年頃からは、中国では禁止されたケシがここで密かに栽培され、中国の役人と繋がる土司も一時の繁栄を得る。だがそれもつかの間、アヘンによる様々な弊害により土地は痩せ経済は破綻し、中国側による支配が強まる結果となった。こうして終に土司という制度は終焉へと向かうこととなる。

 このような時代を背景に物語は主人公の語りによって進んで行く。放埓であり愚鈍であり怜悧であり、予知を孕み、受容し諦観し…予測不能な言葉の連なりの後、終には自分の死をも語って物語は終わる。
 阿来が幸運にも生み出した新たな語りの形と言えるかもしれない。



 『ケサル王』は家馬と野馬の言い伝えから始まっている。
この言い伝えは『空山』の中にも象徴的な部族史として描かれている。阿来にとって重要なテーマなのだろう。次はこの言い伝えについて考えてみようと思っている。


     ★ 『ケサル王』の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




 

阿来『ケサル王』 183(最終回) 物語:雄獅子天に帰る

2017-02-26 10:53:19 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:雄獅子天に帰る その2



 ケサルが指を折って数えてみると、人の世に降ってからすでに八十一年が経っていた。人の世での仕事はすべて成し遂げ、天へと帰るべき時が来た。
 そこで、王宮にある宝を集め、全国各地で宴を催して民も官も共に楽しませた。王城の周りでも、多くの民を招き、美食を振る舞い歌い踊り、楽しみの限りを尽くした。

 賑やかな宴は三日続き、そこで王子ザラを近くに呼んだ。
 王子は長寿のハタを捧げ、請い願った。
 「国王は天から降られました。我々人とは異なり、限りなき命お持ちです。今やっとリン国の大業は成就しました。どうぞいつまでも人の世に留まっていただけますように」

 リン国の上も下も、長官も民も誰もが声をそろえ、国王はこのまま人の世に留まり、衆生を庇護されるようにと願った。

 ケサルは詞を作り歌った。

   年老いた鵬よ高く飛べ
   若鳥の翼はすでに逞しい
     
   雪山の老獅子よ彼方へ向かえ
   若獅子の爪と牙はすでに鋭い

   十五夜の月は間もなく西に沈み
   東方の太陽が昇り始める



 国王は居並ぶ者たちに告げた。
 「私が天に帰った後は、ギャツァシエカの息子、ケサルの甥・ザラこそがリンの王である」
 そして自らザラの手を取って宝座に座らせた。

 「ザラよ、我が甥よ。リン国の過去は私が責を果たした。未来につてそなたは心焦ることはない。リン国を危うくする魔物たちはすでに降伏し、リンの護法神となったのだから」

 言い終ると、トトンの息子トンザンを呼び、二人を前にして申し渡した。
 「トトン叔父の魂は西方浄土へと済度された。叔父上の人の世での善と悪はもはや問われることはない。ダロンの家では更にトングォがリンの大業のために命を捧げた。ザラよ、トンザンをよく重用しなさい。トンザンよ、そなたは兄ザラを敬うように」

 二人は手を取り抱き合い、互いに親しみ敬い、生死を共にすることを誓った。

 その頃、神馬ギャンガペルポは馬の群れの中にあって三度長くいななき、涙をこぼした。主人と共に天へ帰る時が来たのを知ったのである。
 共に四方を駆け巡り、幾度も戦いの場へ赴いた馬たちが集まって来た。
 美麗白蹄馬、白毛宝樹馬、火炎赤煌馬、千里夜行馬、赤鬣鷹眼馬、青毛蛇腰馬…すべての宝馬がギャンガペルポを取り囲んだ。

 ギャンガペルポは涙をこらえて言った。
 「数え切れぬほどの道を共に駆け抜けた仲間たちよ、肩を並べて突撃した友たちよ、我が主人は間もなく天へ帰る。このギャンガペルポも主人と共にこの世を去る。身に着けた馬具は王子ザラ殿の馬のために残していこう。友よ、それぞれがリンの英雄と共に美名を伝えていくよう願っている」
 言い終ると一声長くいななき空へと昇って行った。

 ケサルの矢袋の中から火炎雷鳴箭が姿を現し、多くの矢に別れを告げた。
 「私は大王に従って天へと帰ります。諸兄はリンに残り敵の軍を鎮圧されますよう。もしまた戦いのろしが上がれば、ここに集いましょう」
 言い終ると弓の力を借りずに自ら天へ昇って行った。

 ケサルと共に世に降った斬魔宝刀も鞘から離れ、多くの武器に別れを告げた。
 「我が仲間、鋭い刃を持ったものたちよ、外に向けては切っ先を定め、内に向けては息をひそめ、一旦リン国が攻められれば、鋭い刃を光らせて迎え撃ってくれ」
 言い終ると、赤い光が一筋煌めいて、宝刀はすべての武器の周りを巡りながら、天上へと飛んで行った。

 すぐにケサルへ知らせが届いた。国王の宝馬、宝箭、宝刀はすでに立ち上がり飛んで行った、と。
 ケサルとその場に並ぶ者たちが目を挙げると、宝箭、宝刀、宝馬は天を旋回し、主人を待っているかのようだった。

 ケサルは最後にリン国への別れの言葉を述べた。
 「私と共に世に降った神馬と武器はすでに空へと飛び立った。私も天へ戻らなくてはならない」

 そして最後の法力を用いてリン国の大地と衆生に加持を施した。
 リン国の上も下も、別れを惜しみながらも国王の天命を知り、次々と集まって敬虔な面持ちで獅子王が天へ帰っていくのを見送った。

 この時春雷にも似た轟音が鳴り響き、天の扉が開いた。ケサルの天上の父と母、天上の十万を超えるあらゆる神々が姿を現し、大いなる功労を成し遂げた神の子ツイバガワを出迎えた。
 神々が姿を現すと同時に、心地よい天上の楽の音が四方に響き渡り、妙なる香りが辺りを満たした。純白のハタが天から地へと垂らされ、ケサルはジュクモとメイサを左右に伴ってゆっくりと天の道へと向かって行った。

 天の道を登る時、ケサルと二人の妃はもう一度振り返り、名残惜しそうにリンの山々と河を見渡し、リンの衆生に最後の眼差しを向けると、彩雲に包まれて上へ上へと昇って行った。
 その姿が天の庭へと入ったその時、功徳を讃える花々が降り注ぎ、ひとしきり空を舞った。

 ケサルは天へ帰った。再び人の世に戻ることはなかったが、残された英雄の物語は今も伝えられている。







阿来『ケサル王』 182 物語:雄獅子天に帰る

2017-02-18 01:12:55 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:雄獅子天に帰る




 ケサルの三年を超える不在の間に、生母グォムが世を去った。

 ケサルが宮中に戻るやいなや、ジュクモが泣いてひれ伏し、母グオムが世を去ったことを告げた。ケサルは深いため息をつき言った。
 「母の魂はどこへ行ったのだろう」

 ジュクモは当惑し、どう答えたらよいか分からなかった。ケサルが答えを期待していないのにも気づかなかった。

 小佛州から帰ると、パドマサンバヴァ大師に諭し導かれ、諸仏の加持を受けて、ケサルの力は並外れたものになっていた。彼が念を送ると、それに応えて閻魔王配下の冥途の使者が現われた。使者から母グォムは地獄へ落とされたと知らされた。

 そこでケサルは再び閻魔殿の前に立った。
 「是非を分けられぬ閻魔王よ、私の母は生涯人々を慈しみ憐れんだ。そのような母をなぜ地獄へ落としたのだ」

 閻魔王は宝座から降り、言った。
 「力に任せて人の世を騒がせる獅子王よ、天の命を受けて世に降り妖魔に剣を振るったとはいえ、その殺戮の罪を消すことは出来ぬ。それだけではない。どの戦いに於いても、衆生を傷つけ、路頭に迷わせたであろう」

 「それは私の罪だ、母の罪ではない」

 「だが、そなたを地獄へ落とせる者はいない。因果の巡り合わせにより、そなたの母が代わりとなるしかなかったのだ」

 ケサルは怒りを抑えきれず、再び剣を振り上げ辺りかまわず切り付けた。だが、建物も閻魔王も鬼たちも、少しも損なわれなかった。
 この時やっと、パドマサンバヴァ大師より授かった呪文に思い至り、剣を収めると心の中で唱えた。

 閻魔王の姿が消え、地獄へ通じる鉄の扉ががらがらと開き、閻魔王を補佐する判官が現われた。
 ケサルは母とアダナムを探すため彼に着き従われて地獄へ降りた。

 幾層にも分かれた地獄の至る所で、痛み苦しみに耐える夥しい数の魂を目にした。だが、母もアダナムもその中にはいなかった。
 地獄に落ちた魂はあまりに多く、重なるようにしてすべての空間を埋め尽くし、最も下の層の地獄へ通じる道をも隙間なく塞いでいた。焦り憤ったケサルは再び宝剣を振り上げた。

 判官は言った。
 「人間界の剣はここでは役に立たないのはもうお分かりのはずですが」

 「母を探すための道をどのように開いたら良いか知りたいのだ」

 「それは簡単です。お二人を済度すればいいのです」
 
 「母は私のために地獄へ落とされたのだ。私に済度できるだろうか」
 
 「御存じないのですか。もちろんあなたには罪はあります。だが、徳はそれより勝っています。お二人を済度するには十分です」

 地獄で魂が受ける苦しみは人間界で受ける罰の百倍千倍を超えていることをケサルは目の当たりにした。憐みの心を呼び覚まされたケサルは、パドマサンバヴァ大師、観音菩薩、西方の諸仏に向かって強い祈りを捧げ、六道輪廻の中で苦しみに喘いでいる衆生が解脱して西方浄土に生まれ変わるよう祈願した。

 祈祷が終わると、夥しい数の魂が暗く光のない地獄から解き放たれ、軽やかに上昇し、西方浄土へ向かって飛んで行った。
 多くの魂と共に、母グォモとアダナムの魂も上昇を始め、六道輪廻から抜け出し、徐々に天へと昇って行った。
 それを見てケサルの心は慰められた。ただ、この時、ケサルには二人の姿が見えたが、二人はケサルに気付かなかった。二人はただどこまでも昇って行き、満ち溢れる天の光の中に姿を消した。

 閻魔王がまた現れた。
 「そなたに謝罪しようとやって来た。長い長い時が経ったが、衆生を済度する徳の高い者が現れず、地獄はすでに人で埋め尽くされていた。少なくともこれからの千年、新しい魂を受け入れる場所がないと心配しないで済む」

 ケサルには一つの疑問があった。前回は妃さえ救うことが出来なかったのに、今回は地獄にひしめいているすべての魂を救うことが出来た。それは何故か。

 閻魔王は手を振って言った。
 「そのことについては、パドマサンバヴァ大師に尋ねるがよい」

 ケサルは神馬に乗ってリン国へ戻った。
 王城に着き、国王が馬から降りるやいなや、神馬は馬具を降ろすのも待たずに山の上で放牧されている馬の群れへと奔って行った。
 一方、ケサルは馬から降りるとすぐ首席大臣からの言づてを受け取った。

 「リン国の神山で、鳥の羽毛が風に揺れるのを夢に見ました。もし羽毛が抜け落ちたら、金翅鳥の憐みと加護を賜りますよう」

  ロンツァタゲンにこの世の最後が近づいたようだった。ケサルはすぐさま首席大臣の寝所へ行った。リンの英雄たちと王子ザラも集まって来た。国王の訪問を知り、暗澹としていたロンツァタゲンの目に光がよみがえった。

 「ケサルよ。今は国王とは呼ばず、愛する甥と呼ぶのを許して下され。間もなくみなと別れて、リンを去るのだから」
 
 「叔父上さま。何でもお申しつけ下さい」

 「天上にいれば神であっても、人の世ではそなたはワシの愛する甥だ。リンの長仲幼の家系は代々受け継がれて来たが、ワシほどに幸運と光栄を手にし得えた者はいないだろう。それはそなたがいたからだ。リン国の偉大な国王と共にあったからだ。ワシが去っても、みな悲しまないでくれ。ワシは死ぬのではない、姿を変えるだけだ…ワシの最後の望みはリン国の偉大な事業が永久に続き、リン国の民が安らかであることだ」

 言い終ると首席大臣の意識は薄れていった。
 ケサルをはじめ大勢の者が彼を取り囲み、彼の人の世での最後を見守った。空が明るくなりかけた時、首席大臣は再び意識を取り戻し、名残惜しそうに、だが、満たされた眼差しで日々共に過ごした者たちの顔を一つ一つ辿っていった。

 透明な積雪を冠った神山の頂きを太陽が輝かせた時、大臣は静かに微笑み、この世での最後の息を吐いた。
 この時、天空に虹色の光が満ち、光の中から一頭の白馬が現われ、辺りを一巡りすると光と供に消えて行った。

 皆が床に目を移すと、ロンツァタゲンの肉体は見えず、ただ身に着けていた衣と、その体が残した微かな暖かさだけが残っていた。






阿来『ケサル王』 181 語り部:未来

2017-02-11 03:24:46 | ケサル
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語り部:未来 その3



 ジグメと活佛は下の階に戻った。そこが本堂だった。
 薄暗かったが、ジグメには見えた。
 正面中央にケサルの金の像が置かれ、彼の大業成就を補佐したリン国の英雄たちが二列に並んでいる。

 ジグメは声に出して一人一人名前をあげていった。ロンツァタゲン、王子ザラ、大将タンマ、老将シンバ、…ジャンの王子ユラトジ、魔国の公主アダナム…そして、若くして逝ったギャツァシエガ…この名を声にした時、本堂が震えたように感じた。もう一度その名を呼んだ。だが何も起こらなかった。

 最後にケサルの前に立った。それは夢の中で出会った人の世の国王ではなく、天上での神としての姿だった。威厳に満ち、気高く君臨していた。

 金色に輝くその像は神であり、ジグメの物語の主人公であり、なによりもジグメの運命だった。
 ケサルの像に向き合ったジグメは心が揺れ、思わず叫んだ。
 「獅子大王様!」

 この時、ケサルはジャンガペルポに跨り王城に戻る途中だった。どこからか叫び声が聞こえたような気がして、馬の上で背を伸ばした。その時よりはっきりと声を感じた。
 「運命の人よ!国王よ!」

 それは自分の物語を語るあの男の声だ。必死に耳を凝らしていると、体が空に浮き上がった。ジャンガペルポは少しも気づかずそのまま行ってしまった。
 ジグメの言葉が聞こえた。
 「王様。物語の結末を知りたいとずっと望んでいましたね。その時が来たのです」

 語り部の声が聞こえ、彼の涙を感じた。と、その瞬間、ケサルは千年後のアッシュ高原に来ていた。彼の未来に来ていた。

 虚空には明確な道はない。だから、神の力を身に着けたケサルでさえ、どうやってこの見知らぬ時間の結び目にたどり着いたのかは分からなかった。
 だが、彼が目にしたのは慣れ親しんだ風景であり、生まれた土地であり、リン国を興す礎を築いたアッシュ高原だった。

 草原では赤い衣を着たラマたちが息の限りにチャルメラを吹き、彼が天から下界へ降る時の一段を演じていた。新しく建てられた廟では自分の像を目にした。天に帰った後の姿のようだった。あの語り部が像の足元に額を触れていた。

 語り部ジグメは問いかけた。
 「神よ。物語を終わらせるのですね。それなら、オレの体に入っているものを取り出してください。もう年取って、こんな不思議なものを背負い続けるのは無理です」

 ケサルは思わず尋ねずた。
 「どんなものか」

 「オレの体に射った矢を忘れたんですか」
 
 「矢?」

 「矢です」

 活佛がいぶかし気に尋ねた。
 「何と言った。良く聞こえなかったが」

 ジグメは振り向き、微笑んだ。
 「神様に願い事をしているんです」

 後に活佛は人々に語った。
 ケサルの像が手をあげ仲肯ジグメの背を軽く撫でるのをこの目で見たことを。その時、カランという音が響き、鉄の矢が地に落ちて来たことを。

 後に、この矢は階上の部屋に陳列され、その中で最も大切な宝となった。

 あの時、ジグメは物語が去って行くのを感じていた。一陣の風の中で砂塵が舞い上がるように、物語が天へと飛んで行く。
 今すぐ語らなくてはならない。草原に降り立った英雄の物語をまだ語り終えてはいないのだから。
 ジグメは六弦琴を掴み、衣装を整え、舞台の中央に進んで語り始めた。

 劇を演じていた僧たちは舞台を降り、観衆に混じって息を殺し、物語の最後の一段「英雄天に帰る」の語りに耳を傾けた。

 物語がすべて漂い去る前にジグメは終に最後の一段を語り始めた。活佛は最後となる語りを録音するよう命じた。
 結末の一節を語り終えたその時、ジグメの頭の中は空っぽだった。空を見上げ、人の世の王がまだ近くを徘徊しているかどうか確かめることさえ忘れていた。

 物語を失った仲肯はその後この地に留まった。リン国の君臣の像が陳列されている堂の中を手探りで掃除しながら、日々老いていった。
 参観者があれば、彼が最後に語った一段が流された。その時彼は顔を挙げてじっと聞き入り、ぼんやりとした笑顔を浮かべるのだった。

 誰もいない時は、あの矢を撫でた。
 それは確かに鉄の矢だった。
 鉄の冷たさ、鉄の重くざらついた質感を湛えていた。







阿来『ケサル王』 180 語り部:未来

2017-02-05 01:42:52 | ケサル
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語り部:未来 その2




 夕日が西に沈むころ、ジグメはアッシュ高原に着いた。
 寺の周りの草地でラマたちが活佛の指導の下ケサル劇の通し稽古をしていた。若いラマたちは美しい装束に着替え、絵筆で顔を塗り、リズミカルな太鼓の音の中、次々と舞台に登った。神仙に扮したラマたちは鳥のように軽やかに舞い、金の兜に金の鎧のケサルは中央で彼らに囲まれていた。

 ジグメは尋ねた。
 「これはどの場面かね。国王天に帰るだろうか」

 活佛が答えた。
 「ここは英雄の誕生の地。英雄降臨が最も好まれている。ケサルが天上から下界の苦難を目にし、人の世に降ろうとする場面だ。だが、あなたが国王昇天を語りたいなら、その場を用意することは出来る」

 「活佛様、どうして分かったんですか」

 活佛は濃い緑色の眼鏡を掛けたままだったが、ジグメは鋭い目線が自分に注がれているを感じた。
 「仲肯よ、あなたの体からある匂いが感じられるのだが」

 「何かの匂い?」

 「終わりの匂いだ」

 「オレは死ぬんですか」

 「私が感じたのは物語の終わりだ。ここで英雄物語の最後の章を語りたいのではないか」

 「ここがその場所のようです」

 太陽が沈み、最初の星が天に躍り出ても、稽古まだ終わらなかった。
 夜、活佛はジグメの食事を用意させ、食事が終わると、茶を飲もうと誘った。
 ジグメは活佛に、以前他の場所で、アダナムが死ぬ間際に僧に対し無礼な言葉を口にする場面を語ったためにラマたちに追い出されたことを話した。

 活佛は軽く笑って何も答えなかった。そして尋ねた。
 「本当に最後の章を語るつもりかね」
 ジグメは言った。
 「もうこれ以上歩くのは辛い」

 二人は更に話しを続けた。
 仲肯の多くが英雄物語の最後の段を簡単には語ろうとしない、それは、多くの仲肯が最後の段を語り終ると物語が去って行ってしまうからである。その様はまるで、神から授かった使命を終えたかのようである、と。

 活佛は糾した。
 「終えたと言うべきではない。圓満に全うしたと言うべきなのだ」

 この時ジグメはまたためらった。彼は活佛に、もしここで語らずに物語を残したまま街へ行き、すべてを録音すれば、国は衣食に困らない生活を過ごさせてくれることになっている、と話した。
 活佛には特別な力があり、ジグメに心に隠してあった想いを語らせた。

 ジグメは昔知り合った女の語り部の話をした。ラジオの放送局での出会いを話し、最近の再会を話し、彼女の金歯についても話し、別れの時、年老いた彼女がどのように接吻したかを話した。そうしてジグメは笑った。

 「あの女性がテープに吹き込んだ語りは完全じゃなかったんです。猫がその内の一本をだめにしてしまって。それで、その欠けた一段を始めから語り直そうとしたけど、語れなかった」

 その後しばらく二人は沈黙したままだった。広い露台に座ったまま、東の空の雲の割れ目からのぞく月を見ていた。

 活佛は立ち上がり、ジグメを送りながら言った。明日の天気は、劇を演じるのに良く、物語を語るのにも良さそうだ。

 その晩、ジグメはやはり夢を見なかった。

 次の日の正午が近づいても、ジグメは語るかどうか気持ちが定まらなかった。ラマたちが稽古を続けている時活佛がまた訪ねて来て、廟の中に新しく建てられたケサル殿へと誘った。

 活佛はジグメを連れてまず二階へ上がった。中にはたくさんのケサル像が並べられていた。画布に描かれたもの、石に刻まれたもの、馬にまたがり疾駆しているもの、弓を引き絞り矢を放っているもの、剣を振り上げ妖魔に切りかかっているもの、美女と楽しんでいるもの。

 次に並んでいたのはいくつかの古物だった。馬の鞍、甲冑、矢の袋、鉄の弓、銅の剣、法具。どれも活佛が各地から集めたものだった。
 活佛は、これらはみなケサルが人の世で使った本物だと断言した。言ってから、また言葉使いを糾した。

 「いや、集めたのではなかった。掘り出したのだった。これらの宝はケサルが意図して残し、縁ある者に宝蔵として掘り出させたのだ」

 目の悪いジグメは、手で触るのを許してくれるよう活佛に頼んだ。願いを受け入れられた。
 それらは冷たく硬く、本物かどうかを知るよすがは感じられなかった。






阿来『ケサル王』 179 語り部:未来

2017-01-22 20:37:48 | ケサル
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語り部:未来



 ジグメは旅をしながら、歩くのが日に日に辛くなるのを感じていた。
 そのため、長い時間をかけてやっとムヤの地を過ぎ、カムの大地の中でもケサルを特別に崇拝している場所に着いた。

 岩のくぼみを見て人々は言った。これは神馬キャンガペルポが残したヒズメの跡だ、と。
 ごつごつした岩に突然滑らかな面が表われると、人々は言った。これはケサルが剣を試した跡だと。
 雪山の麓に青い水を湛えた湖が現われると、人々は物語を伝え言った。ここはジュクモが沐浴した場所だ、と。

 これらの聖なる跡を示されても、ジグメは前ほどには興奮しなくなった。ただ終わりない旅がだんだんと辛くなっているのが分かった。

 その日、ある鎮に入り、郵便局へ行った。電話をしなければならなかった。
 局員は言った。いいわよ、そこにあるから勝手に掛けて。彼は言った、掛け方を知らないんだが。あんた、電話したことがないの。ジグメは皺だらけの名刺を取り出した。それは学者が別れ際に渡したものだった。
 学者は、もし旅に疲れたら安定した生活をさせてあげられるから、と言ってこの名刺を残したのだった。

 ジグメは名刺を局員に渡した、局員が受話器をジグメに渡すと、まずジージーと言う電流の音が聞こえ、それから学者の声が聞こえて来た。
 「もしもし」

 ジグメは姿の見えない相手に話しかけるのをためらった。
 相手はまた言った。
 「もしもし」
 ジグメはやっと口を開いた。
 「オレです」

 学者は笑った。
 「もう電話してきたのか」
 「歩くのがだんだん辛くなって来た」
 「休めばいい、あなたの物語の中で、主人公はいつも疲れている。それはきっとあなた自身が厭きて来たからだ」
 「いやになったんじゃない。腰や背中が固くなって、歩きずらいんだ」
 「ほんとに体の調子が悪いだけか。だったら医者へ行けばいい」

 学者は最後に言った。この電話番号を忘れてはいけない、と。

 ジグメは村の診療所へ行った。医者は彼を機械の前に立たせ、背中の写真を撮った。医者は言った。骨はとても健康だ、と。ジグメは尋ねた。
 「オレの背中には骨の他に何か変わったものがないかね」

 医者は尋ねた。
 「背中に何かあるような気がするのかね」

 「矢だ」

 彼は思い出した。夢の中でケサルは矢を彼の体に貫通させ、望んではいない地へと飛ばしたのだ。その時、ケサルはこう言った。
 「しっかりと物語を語りなさい。物語を信じなさい。物語が本当かどうか尋ねる必要はない」

 再び歩き始めると、矢が背中に刺さっているのをはっきりと感じた。背中が固くなっているだけでなく、先端が腿の付け根につかえて、足を動かすのが辛かった。
 長い間、どうして矢に気付かず、今になって感じるのだろう。

 空を見上げたが、何も見えなかった。それは、物語の中の閻魔王がケサルに言った言葉を思い出させた 。
「上を見れば空は空っぽだ」

 空は本当に空っぽだった。何も見えなかった。だが、ジグメにはある予感があった。

 神よ、あなたは私の矢を抜きに来るのですか。このことを考えると、心が暗くなった。

 神よ、矢を抜く時に物語もまた持ち帰るのですか。彼はこれは確かな予兆だと確信するようになった。

 神は自分の使命を終わらせようとしているのだ。

 この時、ジグメは三叉路に出た。行き来するトラックが埃を舞い上げている。周りの人に、この三つの道はそれぞれどこへ行くのかと尋ねた。
 その内の一人が一番静かな道を指した。
 「仲肯よ、これがあんたの道だ。この道はアッシュ高原に続いている」

 アッシュ高原。ケサルが生まれたと伝えられている地。
 彼は再び顔を挙げて空を見上げた。まだ何も知らない時、ここに来たことがある。そして思った。ここまで来たのは、体を貫いている矢を感じたのと同じだ。運命に導かれたのに違いない。これは偶然ではないのだ。

 ジグメはふらふらと歩き始めた。英雄の誕生した地へと向かった。

 歩きずらく、草原で一晩野宿した。
 ヤロンと呼ばれる河が耳元を激しく流れるのを聞き、空いっぱいに輝く星を眺めながら、もしかして今夜夢の中にあの方が現われるかもしれないと思った。それはどちらだろう。天上の神か、人間界の国王か。

 朝目覚めると、何も夢を見なかったと知った。再び歩き始めた時、触ることも見ることも出来ない矢はまだ体の中に留まり、やはり歩くのが辛かった。






阿来『ケサル王』 178 物語:地獄で妻を救う

2017-01-14 19:33:57 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:地獄で妻を救う その3




 小佛州は羅刹国の中心にあった。谷は深くえぐられ、すべての樹木はとげを持ち、すべての石は毒の液を流していた。
 様々な地から征伐された羅刹がここに集められ、深い法力を持つパドマサンバヴァが神によって羅刹国の王の務めを委ねられていた。

 ケサルはこの地に来て驚いた。パドマサンバヴァ大師がこのように恐ろしい地を統率しているとは信じられなかった。
 目を疑いながら彷徨っているところへ、大師に仕えるヨーガ空行母が現われ、大師の前へと導いた。

 宮殿はこれまでの景色とはまるで違っていた。周りの壁は清らかに磨かれ、まるで水晶のようであり、光そのもののようだった。辺りに漂っているのは、楽の音のようであり、芳しい香りのようでもあった。

 この場に来て、ケサルは自分の体から発する悪臭に気付いた。それは果てしなく死体が横たわり、血が流れて河となる戦場の匂いだった。
 白い衣に身を包んだ空行母が清らかな水を湛えた浄瓶を手にし、慈悲の水をケサルの頭に注いだ。
 清々しさを感じた後、体から白檀のような得も言われぬ香りが立ち始めた。

 すぐに大師が目の前に現れた。
 「この小さな無量宮の外の、そなたが今見て来た有様は当時のリンと比べてより悲惨であろう」

 「私がリンに降ったのは、すでに大師が多くの妖魔を調伏された後でした、ですから…」

 「人の世の王に恥じず、その話しぶりは…」大師は笑った「まあ良い、やめておこう。あの時私が途中で厭きてしまわなければ、そなたはこのように辛い務めをすることはなかったのだが」

 「観音菩薩は、大師様が私の行くべき道を示して下さるとおっしゃいました」

 「菩薩はいつも私が暇だと心配されているようだ。なぜ来たのか言ってみよ」

 「閻魔王の判決は公平ではありません。私の妃を助ける法を教えていただきたいのです」

 大師は言った。
 「よく考えてみなさい。他にも何かありそうだ。当時魔国の姫だった者を救うためだけなら、ここまで来るには及ぶまい。さあ、良く考えてみなさい」
 大師は徐々に声を落とし、空行母の手から浄水の入った瓶を受け取り、ケサルの顔に向けてその浄水を指ではじいた。

 ケサルは自分が話す声を聞いた.

 「大師にうかがいたいのです。私はこの後、どれほどの時間をリンで過ごすのでしょう。私が去った後、リン国の民たちはどのようにして太平の世を楽しむことが出来るのでしょう」

 大師は法術を始めた。
 体から様々な色の光を発すると、それぞれの方角から菩薩が光に沿って次々と現れた。菩薩はそれぞれに異なった光を発し、額、胸、へそ、会陰からケサルの体へと注いていった。
 ケサルは体が軽々と浮き上がり、同時に強く穏やかな力が満ちるのを感じた。

 大師は座から立ち上がり、金剛明王のように威厳に満ちた舞い姿で、偈を唱えた。

   精進の馬を常に馳せ
   智慧の武器を常に磨き
    因果の甲冑で身を守る
   しからばリンは安寧なり!

 唱え終ると、諸々の菩薩と大師の姿はそのまま消えていった。それに連れて、宮殿と羅刹の国も目の前から消えた。来る時はあっという間に着いたが、帰りの道は丸々三日かかった。

 ケサルがリンへ戻ると、人々は今か今かとこの日を待ち望んでいた。後一月で、ケサルが発ってから三年になろうとしていた。リン国の臣民はみな彼らの英明な国王はすでに天の国へ帰ったのではと考えていたのである。

 出迎えの者の中に首席大臣ロンツァタゲンの姿がないのに気付いて、国王はすぐに会いに向かった。

 「お迎えにうかがえなかったこと、どうぞお許しください」

 ケサルは尋ねた。
 「病ではないのか、御殿医に診させたのか」

 「王様、私は病気ではありません、もはや力が失せたのです。みなは国王はもうお帰りになららないのではと考えておりました。だが、私は彼らに言いました。国王は必ず帰られる、このロンツァタゲンが国王より先にリン国を去るのだから、と」

 「なぜそのように急ぐのだ」

 「急いでいるのではありません。私はすでに百歳を超えました。この目でリン国の誕生から強大になるまでを見ることが出来ました。リンを去るのはなんと忍びないことか。だが、いつかは去らなくてはならないのです」

 この言葉にケサルは胸を熱くし、ロンツァタゲンの手をしっかりと握りって離そうとしなかった。

 ロンツァタゲンは笑った。
 「国王はお帰りになる時、寄り道をされましたね。お帰りの日を占わせましたが、それより三カ月遅れてお帰りになられました。天の一日は人の世の一年です。地上での三カ月どちらにいらしたのですか。私が知りたいのはそのことです」

 首席大臣と別れて、国王は神馬に尋ねた。
 「途中で私たちはどこかへ行っただろうか」

 神馬は答えた。
 「私は行きません。国王がいらしたのです」

 「私はどこへ行ったのだろう」

 「私はお尋ねしませんでした。その後、王様は私の背中でうわごとをおっしゃいました。未来へ行ったのだと」






阿来『ケサル王』 177 物語:地獄で妻を救う

2017-01-09 22:44:05 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語:地獄で妻を救う  その2


 その時、空中に清らかな声が響いた。

 「神の子ツイバガワ、衆生を救おうという強い誓願のみならず、人の世で妖魔を倒し更に陰陽の道、真幻の別を悟るとは。天賦の知恵は浅からぬようですね」

 声は近くまた遠く、辺りを見回しても、声を発しているものの姿は見えなかった。
 五彩の瑞雲が天の際から漂いながら近づいて来た。観音菩薩が手に宝瓶を持ち、雲の上に端座している。

 ケサルは馬から降りようとしたが、尻が鞍に貼り付いたかのように身動き出来なかった。
 菩薩は笑って言った。
 「お前はすでに心の中で礼をしています。そのまま座って話しましょう」

 「観音菩薩様」

 観音菩薩は微かにうなずいた。
 「お前が天の神であった時会いましたね」

 「リンに居る時、寺の壁画で拝見いたしました」
 
 「どのようにして閻魔王を騒がせたのですか」

 「妃を救いに行ったのです」
 
 「魔国から来たお前の妃はあまりに多く殺戮を犯しました」

 「だが、妃は後に帰順し…」

 「それは分かっています」

 「菩薩様、妃をお救い下さい」

 「私は閻魔王にもの申すことは出来ないのです。パドマサンバヴァ大師を訪ねなさい。大師の半人半神の立場は私に比べて事を為しやすいでしょう。まずは戻りなさい。少し休むのです。閻魔王を怒らせたのですから、しばらく病に臥せるかもしれません。病が癒えたら大師を訪ねたらよいでしょう」

 そう話すうちに空中にあった菩薩の姿は消えた。

 王城に戻ると、ケサルはやはり病に倒れた。寒気と熱が繰り返し、手足に力が入らなかった。
 王子ザラ、妃たち、病身の首席大臣までもがケサルの周りに集まった。みな、国王は天へ帰るのではと恐れていた。

 「心配することはない、ただ疲れて休んでいるだけだ。このような形で天へ帰ったりはしない」

 ケサルは言った。
 「病による死が天へ帰る術であるなら、私は天へ帰ろうとは思わない」
 みな国王の言葉を信じ、安心して下がった。

 こう答えたものの、国王に確信はなかった。そこで、天に向かって祈った。
 「大神よ、どうぞ、人間たちのように病による死を与えないで下さい。威厳をもって天へ帰りたいのです」

 空気が微かに震え、龍の啼き声にも似た雷鳴が轟いた。天の大神が応えたかのように。

 ひと月も立たずにケサルの病は完全に癒えた。ケサルはジュクモに言った。これから小佛州へ行ってパドマサンバヴァ大師に会って来る、と。

 小佛州とは、深い山の中にあるのですか、とジュクモが尋ねた。
 ケサルは答えた。
 「吉祥境は天の国により近く、人の世からはより遠い」

 ケサルが人の世の様々な地で妖魔を倒す時でさえ、ジュクモは夫を送り出したくはなかった。まして、今回国王が赴こうとしているのは、人の世ではなく天の国に近いと言う。
 夫の行き先がこの世ではないと聞き、ジュクモは激しい痛みを感じた。痛みは頭から足の裏まで閃光のように体を貫き、心臓は砕けたかと思えるほどだった。

 夫は天へ帰ろうとしているのだと考えたジュクモは、即座に地に伏した。
 「お出かけになるならジュクモをお連れ下さい、でなければ心が砕けて死んでしまいます」

 ケサルは苛立ちを覚えた。
 「何故出掛けるたびごとに、あれこれと邪魔をするのだ」

 ジュクモの目から涙があふれた。
 「ご主人さま。これまでは恋情を抑えきれずにお止めしました。それは私の誤りです。ただ今回は、王様がそのまま戻られず、ジュクモ一人がこの世に置き去りにされるのでは、と心配でなりません。私はこれまでいくつもの誤りを重ねてきました。それでも、心から王様をお慕いしているのです」

 そう聞いてケサルは言葉を和らげ、今回はただパドマサンバヴァ大師に会い、アダナムを地獄から救う方法を尋ねに行くだけだ、と優しく伝えた。

 ケサルは言った。
 「今回はどれほどの時間がかかるか分からない、母グォモは高貴な生まれでありながらリン国のために辛い日々を過ごされた。今、年老いて体は弱っている。本来なら私がお傍にいるべきだが、この度は、そなたに私に代わって仕えて欲しいのだ」

 ジュクモはそれ以上言葉を返すことはなかった。

 ケサルは首席大臣と将軍たちを集めた。
 「これから私は仏法の最も奥深い地へ行くこととした。大師に教えを乞うためだ。その間、兵を興し戦ってはならない。狩人は弓矢を置き、漁夫は網を日に晒したままにしておかなくてはならない。しかと心に留めておくように」

 言い終ると、一筋の光となって西の天空へ向かって飛んで行った。