黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

遅読の典型

2011年11月15日 10時36分58秒 | ファンタジー
「遅読の典型」

 あえて遅読しているわけではないが、たいていの場合、そうなってしまう。遅読が度をすぎると、そのうち、終わりまで行き着かないで放棄される本も現れる。アレクサンドル・デュマ著、鈴木力衛訳の「ダルタニャン物語」全十一巻は三十年ほどかけて、最後の章の後半まで来ているが、読み終えるのがもったいなくて完読していない。厳密に言うと、最後の巻の「鉄仮面」は、約四十年前、実家に大佛次郎訳の小さな本があって、食い入るように読んだ記憶があるから、実質読み通してはいる。この物語の一巻目は有名な「三銃士」で、多くの日本人はこの内容を知っているはずだ。二巻目以降もたいへん面白い。妖婦ミレディの息子が三銃士とダルタニャンに復讐する物語、実直なアトスが清教徒革命で処刑される英国王チャールズ一世の断頭台に立ち会う場面、ダルタニャンが類いまれな洞察力と人を欺く天賦の才能を発揮する場面、最終巻をきわめて華やかに彩るアラミスの奇想天外な陰謀とそれに巻き込まれて命を落とす人間味溢れるポルトスの話など、長丁場のほとんどの物語は読者を飽きさせないが、私としては、鉄仮面の巻に入る前の、アトスの息子ラウルと彼の恋人との行き違い、ルイ十四世とその后たちとの恋のさや当てなどの場面は、当時の女性読者のために書かれたんだろうと思い、そこだけは速読した。なにせ三十年もの歳月をかけたため、印象的なところしか思い出せないのであしからず。
 中途半端にして放ってある本というか、ギブアップしたというか、そのような本としてまず最初に挙げなくてはならないのは、井上究一郎訳のマルセル・プルースト著「失われた時を求めて」。原文がどうなっているのか、今度ゆっくりフランス語が堪能な友人に聞いてみようと思うのだが、日本語に置き換えるのはどこか無理があるような気がする。最近、別の訳者の本が二種類あることがわかったので、取りそろえて読み比べてみたら、やはり日本語表記に納得がいかない。同じフランス人、ランボーの詩はきわめて難解ではあるが、ワンフレーズずつ切って読めば文法的に間違っていないし、意味も通っているのに。
 そのほかにも、埴谷雄高の「死霊」、ウィリアム・ジェームズの弟ヘンリーのなんとかいう本、ゲーテの本、川端康成・三島由紀夫・谷崎潤一郎のすべての本、マルクスとかマルケスとかの本、テレビの大河ドラマの原作となった長編など、放ってある本はたくさんある。中には、嫌いな本だから読み通せないというものも多少あるが、そういう本ばかりじゃないので始末が悪い。とにかく自分が死ぬまでかかってもまだ読み切れないくらい、たくさんの興味ある本があると思うだけで、なんだか嬉しくてぞくぞくしてしまうのだ。ちなみにプルーストの文章表現は嫌いではない。(2011.11.15了)
 
コメント
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