帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 中務 (八)

2014-10-22 00:03:38 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 中務 十首(八)


 したくぐる水に秋こそかよふらし むすぶ泉の手さへ涼しき

 (下くぐる流水に、秋がもう通っているようね、掬う泉の手さへ涼しいこと……下もぐるをみなに、厭きこそ行き来するようよ、結ぶ出づ身の、わざさえ冷ややかなこと)

 

言の戯れと言の心

「下…岩の下…身の下」「くぐる…潜る…潜入する」「水…言の心は女」「秋…飽き…厭き…あきあき」「かよふ…通う…通じる…行き来する」「むすぶ…掬う…結ぶ」「いづみ…泉…出づ身…おとこ」「て…手…手段…わざ」「すずしき…涼しき…冷やかな…情熱なし」

 

この歌は、公任撰『和漢朗詠集』、題「納涼」にある。「納涼」は「清げな姿」での分類。「心におかしきところ」は、男の身とわざに、冷やかさを感じた女の心情。


 

同じ「納涼」に並べられてある、男の歌を聞きましょう。作・恵慶法師。


 松陰の岩井の水をむすびつつ 夏なき年と思ひけるかな

 (松の木陰の岩清水を、手に掬いながら、夏の無い年かなと思ったことよ……まつ陰の尽きない、きよらかなをみなと結ばれつつ、愛しみのない一瞬の早すぎる事よと、思ったなあ)

 

言の戯れと言の心

「松…言の心は女…待つ」「陰…木陰…いん…陰の部分」「岩…石…言の心は女」「井…言の心は女」「水…言の心は女」「むすぶ…掬う…結ぶ…ちぎりを結ぶ」「夏…暑い…熱い…なつ…撫づ…いつくしむ」「年…とし…疾し…早過ぎ…一瞬の」「けるかな…だったなあ…だったかなあ…気付・詠嘆の意を表す」

 

歌の姿は「清げ」である。「心におかしきところ」は、清らかな女と結ばれつつ心に冷ややかさを感じた男の心情、出家の動機かもしれない「深い心」がある。公任の優れた歌の定義に適っている。


 

『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

 

その和歌が或る時期、「色好みの家に埋もれ木の人知れぬこと」となった。真名序では、「及彼時変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌、其実皆落、其華孤栄、至有好色之家、以此為花鳥之使、乞食之客、以此為活計之謀」などという。真名序のこの部分を、あえて意訳すれば、「和歌は・彼の時、(ひとえに色好みだけの)軽薄な歌に変わり、人々は奢り高ぶり淫(みだら)な歌を貴び、浮かれた詞が雲の如く興り、艶流れ泉と湧き、歌の実は皆落ち、其の華のみ独り栄えた。色好みの家は、此れを以て、花(男)と鳥(女)の仲立ちとし、乞食(こつじき)する旅人は、これ(好色な歌)を以て生計の手段とするに至ったのである」。

 

紀貫之は、山部赤人を、歌のひじり柿本人麻呂と同等に評価した。「赤人は・歌に妖しく妙なりけり」と述べた。「赤人は・歌に於いて、妖艶であり、その表現の程は絶妙である」と聞こえる。

また、貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 

藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 

藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


 それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。


帯とけの三十六人撰 中務 (七)

2014-10-21 00:27:04 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 中務 十首(七)


 わが宿の菊のしら露けふごとに 幾代つもりて淵と成るらむ

 (我が家の、長寿のための・菊の白露よ、今日を迎えるごとに、幾代積もって淵となるのでしょう……わがやとの、効くの白つゆ、京毎に、いく夜つもって、淵となるのでしょう)


 言の
戯れと言の心

「宿…家…言の心は女(妻)…やと…屋門…おんな」「菊…草花…言の心は女…長寿の花…効く…九月九日の節句に、菊の露を綿に付けて身を拭えば若返りに効くという。紫式部も道長の妻倫子より、この綿でぜび身を拭い給えと贈られた。紫式部は女房たちの中で最も身分は低く年齢は高いことを常々気にかけていたからである」「しら露…白つゆ…おとこ白つゆ」「白…色の果て」「つゆ…ほんの少し」「けふ…今日…京…絶頂」「淵…深いところ」


 この歌は、拾遺和歌集 巻第三 秋に、詞書「三条の后宮の裳着はべりける屏風に九月九日の所」、作者は「元輔」とある。
裳着(もぎ)は十二・三歳になった女性の成人儀式。屏風には節句毎の絵が描かれてあって、九月九日の所に書いた長寿の言祝ぎ。中務と元輔はほぼ同年配で共に八十歳あまりの長寿であった。歌の内容は女性の独白のように聞くと生々しすぎるので、勅撰集では、あえて作を清原元輔にしたのだろう。

男の歌とすると(……我が妻の、効くの、我が・白つゆ、京毎に、幾夜積もると、淵となるのだろうか)と聞こえる。


 

「中務集」にある、秋の歌を聞きましょう。詞書「遣り水に紅葉うきて流る」、屏風歌という。


 もみぢ葉も落ちつもりぬる谷水は 秋の深さぞそこに見えける

 (もみじ葉も落ち積ってしまった谷川は、秋の深さぞ、其処に見えることよ……飽き色の端も落ち、つ盛ってしまった女は、厭きの深さぞ、底に見ていることよ)


 言の
戯れと言の心

「もみぢ…紅葉・黄葉…秋の色…飽き色」「は…葉…端…身の端」「おち…落ち…堕落…没落」「つもり…積もり…津盛り…おんな盛り」「津…女」「谷…女」「水…川…女」「秋…季節の秋…飽き…飽き満ち足り…厭き…あきあき」「そこ…其処…底…川の底…山ばの落ちくぼんだ底」「見…目で見ること…まぐはひ…まぐわい…まぐあい…覯(詩経ではこの字が用いられてある)…みとのまぐはひ(古事記ではこのようにいう)」


 両歌は、いずれも「清げな姿」をしている。「心におかしきところ」は、ものの山ばの果ての淫らな情況での女の思い。

 

『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなりとある。


 或る時期の和歌は、「色好みの家に埋もれ木の人知れぬこととなりて」とある。真名序では、「及彼時変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌、其実皆落、其華孤栄、至有好色之家、以此為花鳥之使、乞食之客、以此為活計之謀」などという。真名序のこの部分を、あえて意訳すれば次のようになる。和歌は「彼の時、(ひとえに色好みだけの)軽薄な歌に変わり、人々は奢り高ぶり淫(みだら)な歌を貴び、浮かれた詞が雲の如く興り、艶流れ泉と湧き、歌の実は皆落ち、其の華のみ独り栄えた。色好みの家は、此れを以て、花(男)と鳥(女)の仲立ちとし、乞食(こつじき)する旅人は、これ(好色な歌)を以て生計の手段とするに至ったのである」。


 紀貫之は、山部赤人を、歌のひじり柿本人麻呂と同等に評価した。「赤人は・歌に妖しく妙なりけり」と述べた。「赤人は・歌に於いて、妖艶であり、その表現の程は絶妙である」と聞こえる。
 古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 

藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 

藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


 それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。


帯とけの三十六人撰 中務 (六)

2014-10-20 00:13:58 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 中務 十首(六)


 まちつらむ都の人にあふさかの 関まできぬと告げややらまし

 (今頃帰りを・待っているだろう都の人に、逢坂の関まで来たよと、告げてやろうか・どうしたものか……待っているにちがいない宮この男に、合う坂の山ばの難所まで来たわよ、しばし頑張ってと・告げてやろうかしら、どうしょう)


  言の戯れと言の心

「都…宮こ…京…極み…感の極み…絶頂」「人…知人…男」「あふさか…逢坂…山の名…名は戯れる。合う坂、山ばの極みの合致」「せき…関…難関…難所」「や‐まし…ためらいや迷いを含んだ思いを表す…(告げて遣ろうか)どうしょう」

 

歌は清げな姿をしている。それに「心におかしきところ」がある、この歌では、男女の山ばの合致し難いことを知る女の、宮こへ先だった男への思いである。


 

このときの男の思いを詠んだ歌を聞きましょう。時代は下り『新古今和歌集』仮名序の著者、藤原良経の歌。

新古今和歌集 巻第六 冬歌、題は「山家、雪」、


 まつ人のふもとの道は絶えぬらむ のき端の杉に雪おもるなり

 (訪ね来るのを・待つ人の麓の路は途絶えてしまったのだろう、山家の・軒端の杉に雪重くつもっている……山ばへ来るのを・待つひとのふもとの路は絶えてしまっただろう、のき端のすきに、白ゆきひどくつもっている)

 

言の戯れと言の心

「人…訪問者…女」「のき…軒…やねのさし出た部分」「端…身の端」「杉…木…言の心は男…すき…隙間…おんな」「雪…逝き…おとこ白ゆき」「おもる…重る…重くなる…(疾患などが)重くなる」

 

中務の生きた時代と良経の時代は、二百五十年程も隔たっているが、歌の様(表現様式)と歌言葉の意味や戯れぶりは、変わっていない。

和歌は、生々しくて微妙な人の心情を清げな姿に包んで表現する様式を持っていた。


 

『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

 
 その和歌が或る時期、「色好みの家に埋もれ木の人知れぬこと」となったとある。真名序では、「及彼時変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌、其実皆落、其華孤栄、至有好色之家、以此為花鳥之使、乞食之客、以此為活計之謀」などという。
真名序のこの部分を、あえて意訳すれば、「和歌は・彼の時、(ひとえに色好みだけの)軽薄な歌に変わり、人々は奢り高ぶり淫(みだら)な歌を貴び、浮かれた詞が雲の如く興り、艶流れ泉と湧き、歌の実は皆落ち、其の華のみ独り栄えた。色好みの家は、此れを以て、花(男)と鳥(女)の仲立ちとし、乞食(こつじき)する旅人は、これ(好色な歌)を以て生計の手段とするに至ったのである」。


 紀貫之は、山部赤人を、歌のひじり柿本人麻呂と同等に評価した。「赤人は・歌に妖しく妙なりけり」と述べた。「赤人は・歌に於いて、妖艶であり、その表現の程は絶妙である」と聞こえる。
 また、貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 

藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 

藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


 それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。


帯とけの三十六人撰 中務 (五)

2014-10-18 00:10:55 | 古典

        



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 中務 十首(五)

 
 さやかにも見るべき月を我はただ 涙に曇る折りぞおほかる

 (明るいねとでも見るべき月を、わたしは、ただ単に、涙に曇る時が多い……しっかりしているとでも見るべき月人おとこを、わたしは、ただの汝身駄に苦盛る折りが多い)


 言の戯れと言の心

「さやか…明るい様子…はっきりした様…しっかりしたさま」「にも…でも…として」「見…覯…まぐあい」「べき…べし…そうするのが当然の意を表す…そうするのがいい…適当の意を表す」「つき…月…月人壮士…をとこ」「ただ…唯…単純に…直に」「なみだ…泪…並みだ…汝身駄…汝身唾」「くもる…曇る…暗くなる…苦盛る」「折…時…機会…折り…逝」


 

この歌は、拾遺和歌集 恋三に、返し歌としてある。もとの男の恋歌を聞きましょう。

「月あかかりける夜、女の許に遣はしける」、源信明(みなもとのさねあきら)


 こひしさは同じ心にあらずとも 今宵の月をきみ見ざらめや

 (恋しさは同じ心でないとしても、今宵の望月を、貴女、見るつもりないだろうか・ご一緒に……乞いしさは同じ心でないとしても、小好いのつきひとおとこを、あなた、見るつもりはないだろうか・訪ねてもいいかな)


「あか…赤…元気色」「恋…乞い」「こよひ…今宵…小好い」「月…月人壮士…おとこ」「見…覯…まぐあい」


 両歌とも、それぞれ、「清げな姿」をしている。月見の誘いに、悲しいことばかりだが気晴らしに君とならいいかもという返事のようである。


 「心におかしきところ」は、男のつき見の御伺いに対して、返しは、婉曲ではあるが手厳しいお断りのようである。

 


 歌の「心におかしきところ」を否定すると、公任の全歌論を奇妙な空論に貶めることになる。のみならず、古今集の序文に散見する、或る時和歌は「色好みの家に埋もれ木の人知れぬこととなりて」とか、「及彼時変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌、其実皆落、其華孤栄、至有好色之家、以此為花鳥之使、乞食之客、以此為活計之謀」などという言葉から、現実に和歌が或る時期どのような情況に陥ったのかわからなくなるのである。


 真名序のこの部分を、あえて意訳すれば、次のようになる。

「彼の時、ひとえに(色好みなだけの)軽薄な歌に変わり、人々は奢り高ぶり淫(みだら)な歌を貴び、浮かれた詞が雲の如く興り、艶流れ泉と湧き、歌の実は皆落ち、其の華のみ独り栄える。色好みの家、此れを以て、花(男)と鳥(女)の仲立ちとし、乞食(こつじき)する旅人はこの好色な歌を以て生計の手段とするに至ったのである」。

 


 『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

紀貫之は、山部赤人を、歌のひじり柿本人麻呂と同等に評価した。「赤人は・歌に妖しく妙なりけり」と述べた。「赤人は・歌に於いて、妖艶であり、その表現の程は絶妙である」と聞こえる。

紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 

藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 

藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 

上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。

 

それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。


帯とけの三十六人撰 中務 (四)

2014-10-17 00:13:02 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 中務 十首(四)


 さらしなに宿りはとらじをば捨ての 山まで照らせ秋の夜の月

 (更級という所に宿泊したくない、暗い伝承のある・姥捨ての山までも照らせ、秋の夜の月……晒し汝に、宿りたくない、お端捨ての、山ばの果てまで照らせ、飽きの夜の月人壮士)


 言の戯れと言の心
 「さらしな…更級…晒しな…人目にさらすな…言いふらすな」「な…打消しの意を表す…汝…親しみ込めてあれ」「をばすて…姨捨…伯母捨て…お端捨て…男の身の端捨て」「山…山ば」「あき…秋…飽き…厭き」「月…大空の月…月人壮士…おとこ」

 


 姨捨山伝説を、大和物語(157)より要約すると、


 信濃の国の更級とい所に男がいた。幼いころ母を亡くし、母の姉に育てられ、妻をめとり何年か経った頃、この姑、老いて腰折れて役立たずになったので、嫁は常に憎んでいたころ、男のお端の武樫も・昔の如くではなくなったという。嫁の苛立ちはますます増して、どうして死なないのよと思って「もていまして、深き山に捨てたうびてよ(持っていらっしゃって、深い山に捨てておしまいになってよ)」と責め立てられているうちに、男、そうしょうと思うようになった。寺の法会に行くと騙して、老いた「おは」を背負って山深い峰に、帰れそうもないところに置いて逃げて来た。「おは」とはものごころついてより、実の親子のように育ってきたので、あの山の上に出た明るい月を見ていて、眠れず一夜経って、悲しくて堪えられないので、このような歌を詠んだ。


 我が心慰めかねつさらしなや をば捨て山に照る月を見て

 (我が心、慰められそうもない、さらしなや姨捨山の上に、照る月を見ても……我が心、慰められそうもない、いいふらすな、伯母捨て山に・お端捨て山ばに、照るつき人おとこを見ても)

男は、おばを、迎えに行って帰って来た。

 


 古今和歌集 雑歌上に、題しらず、よみ人しらず、として、同じ歌がある。


 この歌は、(夫を責め立てた)女の歌とも聞こえる。聞いてみよう。

(……わたしの心は、慰められそうもないの、いいふらさないでね、男が・お端を棄てる山ばで、照り栄えるおとこを見ても・それでも)


 「見…覯…媾…まぐあい」


 

『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

紀貫之は、山部赤人を、歌のひじり柿本人麻呂と同等に評価した。「赤人は・歌に妖しく妙なりけり」と述べた。「赤人は・歌に於いて、妖艶であり、その表現の程は絶妙である」と聞こえる。

紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 

藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 

藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 

上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。

 

それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。