帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 重之 (三)

2014-10-28 00:27:23 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。

 

『群書類従』和歌部の「三十六人撰 四条大納言公任卿」には、(源重之 歌闕)とあって、重之の歌が欠けているので、他本により補う。



 重之 三首 (三)


 秋くればたれも色にぞなりにける 人の心につゆやおくらむ

(秋くれば、草木のみならず・誰でも色づくなあ、人の心に、露が降りているのだろうか……飽きくれば、垂れも、厭き色になったなあ、ひとの此処ろに、白つゆ贈るからだろうか)

 

言の戯れと言の心

「秋…季節の秋…飽き…飽き満ち足り…厭き」「だれ…誰…たれ…垂れ」「色…もみじ色…秋色…飽き満ち足り色」「色…色彩…気色…色情」「ひと…人…相手…女」「こころ…心…此処ろ」「ろ…路…通い路…おんな」「つゆ…露…紅葉の原因とみなされたもの…白つゆ…おとこ白つゆ」「おく…置く…降りる」「らむ…(今頃天は露をおろしている)のだろう…推量する意を表す…(白つゆおく)からだろう…原因理由を疑う意を表す」


 

「重之集」には、この類の歌は多くある。もう一首聞きましょう。


 なべてやは色も見えけり白露の 数おく方の花ぞまされる

 (すべてだなあ、色づいて見えることよ、白露のおりる辺りの草花は増して……萎えつきてだなあ、色っぽく見える、白つゆの多数おりたお方の、女の華ぞ、増している)

 

言の戯れと言の心

「なべて…すべて…なへて…萎えて…よれよれになって」「色…上の歌に同じ」「白…色のはて…おとこの果ての色」「露…上の歌に同じ」「花…草花…女」

 

「帯とけの三十六人撰」をここまで読んでこられた人ならば、もはや新たに心得るべき「言の心」はない。歌の「清げな姿」も「心におかしきところ」も直接心に伝わるでしょう。この類の歌は、勅撰集では扱い難いだろうな、とか、よみあげる場も限られ、寝室の屏風歌には最適かなどと、評することもできる。


 

平安時代の和歌を、当時の人々と同じように聞くためにはどうすべきか。

和歌の修辞法という掛詞や縁語を指摘し、序詞は指摘するだけで訳さず。清げな歌の姿から、歌の心を憶測し憶見を述べる事を解釈とすべきか。

貫之のいうとおり「歌の様を知り、言の心を心得る人」になり、公任のいう「優れた歌」の定義の意味がわかる人になり、また、俊成のいう「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」ということも、わかる人になるべきである。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉」と重要な言語観を示した。「われわれ上衆の言葉は・聞く耳によって異なるほどの戯れの意味がある」ということである。通釈のように「法師の言葉と男の言葉と女の言葉はイントネーション(発声・抑揚・語調)が異なる」などと、分かりきった間抜けたことを記したのではない。清少納言枕草子の言説の「戯れの意味」が当時の人々と同じ意味に聞こえれば、「をかし」とか「いとをかし」を連発し、「笑ひ給う」とか「うち笑ひ給ふ」など、多くの笑う場面を描いているが、やがて、共に笑うことができるようになるだろう。今は、数多くの笑う場面で一笑もできない。いまだ聞き耳が異なっているためである。

 

これにて「帯とけの三十六人撰」は終了。