帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 兼盛 (四)

2014-10-06 00:14:40 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 兼盛 十首(四)


 望月の駒ひきわたす音すなり 瀬田のながみち橋もとどろに

(貢物の・望月産の駒、ひき渡す音がするようだ、瀬田の長道、橋もとどろかせ……立派なつき人をとこ、ながくつづく音がする、せ多の永路、身の端もとろけて)

 

言の戯れと言の心

「望月…充実した月人壮士…立派なおとこ」「月…月人壮士(万等集の歌詞)…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)」「駒…馬…小ま…股間」「ひきわたす…引率して渡す…長く続く」「瀬田…地名…名は戯れる。勢多、背多、男多い、好色な女」「田…多…女」「長道…長路…永路…持続する女」「路…おんな」「橋…端…身の端…おとこ」「とどろ…轟くような音…ととろ…とろけるようなありさま…だらしないありさま」

 

この歌、公任の『和歌九品』では、上から三番目の「上品下」に評価され、「心深からねどもおもしろきところあるなり」と評されてある。歌は、心深くない。清げな姿があって「おもしろきところ」は、言の戯れに顕れている。普通の言葉では言い難い事柄である。



 この歌よりも一つ上の「上品中」に評価されてある、紀貫之の望月の駒の歌を聞きましょう。


 逢坂の関の清水に影見えて 今やひくらむ望月の駒

(逢坂の関の清水に、影映り見えて、今頃、引き連れてきているのだろうな、貢物の・望月産の駒……合う坂山ばの難関の、清き女に陰り見えて、いま、ひきあげようか、もちつき壮士のこま)

 

言の戯れと言の心

「逢坂の関…所の名…名は戯れる。合う山ばの難関…男女の山ばの合致し難いところ」「清水…湧き出る清らかな水…清らかな女」「水…言の心は女」「かげ…影…水に映った影…陰…陰り」「見えて…思えて…映っているのが想像されて」「見…覯…まぐあい」「ひく…ひきつれ連れる…ひきあげる…退く」「望月の駒…上の歌と同じ」。


 「上品中」の歌の評は「ほどうるはしくて、余りの心あるなり」。「ほど…情景…状況の程…その辺りの様子」「うるはし…麗し…すばらしい…(容姿などが)整っている」とすると、先ず、歌の「清げな姿」がすばらしいという。そして「余りの心…余情…心におかしきところ…表現されたエロス(生の本能・性愛)」がある、ということになる。これらの品質が兼盛の歌より上なのだろう。

 


 『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。

 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。


 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。


 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


 それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。