帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 兼盛 (一)

2014-10-02 00:39:04 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 兼盛 十首(一)

 
 かぞふれば我が身につもる年月を 送り迎ふと何いそぐらむ

 (数えれば、我が身に積もる老いの年月を、送り迎えると、どうして、人は・仕度しているのだろう……あれ、振れば、我が身につもる疾し尽きよ、彼送りわれ迎えると、何を、人は・急ぐのだろうか)

 

言の戯れと言の心

「かぞふれば…数えれば…彼ぞ振れば…彼ぞ降れば…彼ぞ経れば」「か…彼…あれ…代名詞」「としつき…年月…老いのつもるもの…とし突き…疾し尽き…おとこのさが」「疾し…早過ぎ」「いそぐ…急ぐ…早く物事を終えようとする…準備する…仕度する」「らむ…現在の事実について理由など推量する意を表す」

 

拾遺和歌集 冬に、詞書「斎院の御屏風に、十二月づごもりの夜」としてある。


 歌の「清げな姿」は、年末年始の行事で忙しい女房たちをひにくって和ませる。「心におかしきところ」は、男子禁制の斎院女房たちの身になって、男女のいとなみを滑稽化して和ませる。

兼盛の歌は、斎院の女房たちの立場を思いやって詠まれてある。


 平兼盛(たいらのかねもり)は、兼盛王と呼ばれていたが、天歴四年(950年)、平の姓を賜り臣にくだり、国守などを歴任、正暦元年(990年)歿。拾遺集・後拾遺集などの勅撰集に九十首ばかり入集。


 

新古今和歌集 冬歌にある和泉式部の歌を聞きましょう。

詞書「年の暮れに、身の老いぬることを嘆きて詠み侍りける」。


 かぞふれば年の残りもなかりけり おいぬるばかりかなしきはなし

 (数えれば、年の残りも無いことよ、老いてしまうほど、我が身の・悲しいことはない……あれ降れば、疾しの残りも無いことよ、感極まってしまうほど、君が・愛おしいことはない)


 言の戯れと言の心

「かぞふれば…上の歌に同じ」「とし…歳…年月…上の歌に同じ」「おい…老い…追い…極まる…感極まる…絶頂となる」「かなし…哀し…悲し…愛し」


 歌は「清げな姿」あり、[心におかしきところ]は、何となく「艶」にも「あはれ」にも聞こえる。独詠。

 


 『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 
 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。


 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。


 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


 それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。