帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 兼盛 (二)

2014-10-03 00:05:02 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 兼盛 十首(二)


 深山いでて夜半にや来つるほとゝぎす 暁かけて声のきこゆる

 (深山出て夜半に飛来したか、ほとゝぎす、暁までずっと声が聞こえている……高く深い山ばを出でて、夜のなかばにきてしまったか、ほと伽す・且つ乞うひとよ、あかつき心がけて、小枝がお利かせ致します)


 言の戯れと言の心

「山…(感情の)山ば」「きつる…(飛来して)きた…(山ばの果て)来てしまった」「ほとゝぎす…夏鳥の名…言の心は女…名は戯れる。ほと伽す、且つ乞う、浮くひす、憂くひす」「あかつき…暁…夜明け前…赤突き」「赤…元気色…血気盛ん」「かけて…にわたって…心にかけて」「こゑ…声…こ枝…おとこ」「きこゆる…聞こえる…利かせて差し上げる…お役立ち致します…謙譲語・尊敬語」


 拾遺和歌集 夏 詞書「天歴御時歌合に」としてある。

 


 同じ、拾遺和歌集 夏に、「天歴御時の御屏風に」とある、伊勢の歌を聞きましょう。


 ふたこゑときくとはなしにほとゝぎす 夜深くめをもさましつるかな

 (一声夏を告げ・二声聞くことなしに、ほととぎす、夜深き時に眠れなくなってしまったよ……二小枝利くこと無しに、ほと伽す・且つ乞う、夜深くおんなをも、めざめさせたことよ)


 言の戯れと言の心

「め…目…女…おんな」「さまし…覚まし…醒まし…めざめさせ」「つる…つ…完了した意を表す」「かな…感動の意を表す」


 
 兼盛の歌は、伊勢の御の歌と同じ文脈にあって「歌の様」も同じ。「ほととぎす」も同じ意味で用いられてある。

 

両歌の「清げな姿」は、夏の夜の出来事。「心におかしきところ」は、飽き満ち足り難い思でいである。何となく「艶」で「あはれ」に聞こえる。これこそが、平安時代の人々が享受していた歌のおかしきところである。

 


 『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。

 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

 
 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 
 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 
 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 
 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 
 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


 それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。