帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 兼盛 (九)

2014-10-11 00:17:55 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。

藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 兼盛 十首(九)


 わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ 思ひのほかに君が来ませる

 (わが宿の梅の立ち枝でも見えたのでしょうね、思いのほかに・にわかに、君がやって来た……わたしのやどの、おとこ木の、立ち枝や、今宵・見えるのかしらね、意外にも君のき増して)


 言の戯れと言の心

「梅…男木…木の花…男花…古き難波津の歌に咲くやこの花と詠まれた時、すでに言の心は男」「立ち枝…枝垂れではない突っ立った枝…立った身の枝」「見…目で見る…覯…媾…まぐあい」「え…可能を表す…できる」「らむ…推量する意を表す…婉曲に言い表す…のような」「きませる…来ませる…いらっしゃった…気増せる…その木お増しになられ」「き…気…木…おとこ木」「ませ…ます…謙遜・丁寧語…増す」


 この歌は、拾遺和歌集 巻第一春。冷泉院御屏風の絵に梅の花ある家に客人(まらうど)来たところ、と詞書がある。兼盛が、絵の家の女の立場になって詠んだ歌。歌の清げな姿の他に、「心におかしきところ」があり、「艶」にも「あはれ」にも聞こえる。

 


 同じ集の巻第一春にある梅の花の歌を聞きましょう。

「斎院御屏風に」躬恒、


 香をとめてたれ折らざらむ梅の花 あやなし霞たちなかくしそ

(香を求めて、誰もが折りとるだろう、梅の花、あやなし春霞立ち、花を・隠すな……彼を泊めて、誰が折らないことがあろうか、おとこ花、道理なき数見絶ち・立ち隠すなよ)


 言の戯れと言の心

「香…かおり…彼…あれ」「を…対象を示す…お…おとこ」「とめて…目を止めて…求めて」「折…逝」「梅の花…木の花…男花…おとこ花」「あやなし…道理がない…そうする理由がない」「霞…春かすみ…よく見えない…彼済み…数見…多数見」「見…覯…まぐあい」

 

歌には清げな姿がある。「心におかしきところ」は、あやなし、数なしの、おとこのさが(性)への応援歌。それが、未婚の内親王とその女房たちの居る賀茂の斎院の屏風歌であること自体も「心におかしい」。歌は、この人間性こそが命である。

 

このように、和歌を聞いてくると、和歌はある時期、古今集仮名序にいう「色好みの家に埋もれ木」となったことや、真名序の「浮詞雲興、艶流泉涌、其実皆落、其花孤栄、至有好色之家」などということが、よりよく理解できるだろう。

 

『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

 

紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 

藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 

藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 

上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。

 

それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。