帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 兼盛 (五)

2014-10-07 00:41:07 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 兼盛 十首(五)


 暮れてゆく秋の形見に置くものは 我が元結の霜にぞありける

(暮れて行く秋が形見に遺しおくものは、我が元結いの霜ふりの白髪だったことよ……果てて逝く飽きが、遺品に贈り置くものは、我が根もとの結びのしもだったのだなあ)

 

言の戯れと言の心

「くれてゆく…暮れて行く…(季節が)移り変わる…果てて逝く」「あき…秋…飽き…厭き…果て」「かたみ…形見…遺品…逝くに際し残すもの…片見…中途半端な見」「もとゆひ…元結い…もとどりを結ぶ緒…根本の結ばれたお」「しも…霜…霜ふり…白髪…まだらな白…下…おとこの色の果て」


 この歌は、拾遺和歌集 秋にある。詞書「くれの秋、重之が消息して侍るりける返りごとに」。源重之が、近況をお伺いした返事に・詠んだ歌。

 

歌は、清げな姿があり、「心におかしきところ」は、浮言綺語のような戯れのなかに顕れている。それを、「艶」にも「あはれ」にも聞くには、誰でもわかる「霜…白髪」の戯れの他に、「しも…下…おとこ…白いもの」の戯れを心得なければならない。

 


 「新古今和歌集 仮名序」の作者、三十八歳で亡くなった摂政太政大臣藤原良経の歌を聞きましょう。歌の師は藤原俊成という。


 ことし見る我がもとゆひの初霜に みそ路あまりの秋の更けぬる

 (今年見る我が元結いの初めての白髪に、三十歳過ぎの秋が更けてしまった……こ疾し見る、根もと結びの発しものために、見そ路、思い・残しの飽きが果ててしまった)

 

言の戯れと言の心

「ことし…今年…こ疾し…この早過ぎる一瞬」「見…目で見ること…まぐあい」「もとゆひ…上の歌に同じ」「初霜…発霜」「霜…上の歌に同じ」「みそじ…三十路…三十歳…身そ路…見そ路」「路…女」「あまり…余り…残り」「秋…季節の秋…飽き…ものの頂上即果て」

 

歌には、清げな姿がある。「心におかしきところ」は、おとこのさが(性)ではあるが、自嘲的弱々しさは、何となく「艶」にも「あはれ」にも聞こえる。


 歌の様(歌の表現様式)と貫之のいう「言の心」は、新古今和歌集の時代まで継承されていたのである。

 


 『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

 
 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 
 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 
 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 
 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 
 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


 それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。