帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 (風吹けば出港せず)正月四日~六日

2013-01-22 00:04:20 | 古典

    



                                     帯とけの土佐日記
 


 土佐日記(風吹けば出港できず)正月四日~六日

 
四日。風が吹くので出発できない。まさつら(仮名・元部下)、酒、よきものたてまつれり(上等な食物を前国守に奉った)。このように物持って来る人に、そのままではいられないのに、いささかのお返しをさせる物も無い。(人と贈物で)賑わっているようだけれど、まくるこゝちす(負い目を感じる…気持ちの負担になる)。


 五日。風波止まないので、なおも同じ所ににいる。人々絶えず、とぶらひにく(贈り物を持って尋ねて来る…病じゃないのにお見舞いに来る)。


 六日。きのふのごとし(昨日の如し…黄の夫の如し・夫はお疲れの模様)。


 言の戯れと言の心

 「まさつら…仮名…前に部下だった人」「よきもの…良き物…上等な食物…好い肴」「まくるここちす…負ける心地す…負い目を感じる…心の負担になる」「とぶらひ…訪ひ…消息を尋ね訪れること…お見舞い…弔い…おくやみ」。

 「きのふ…昨日(風波止まず、人が絶えずとぶらいに来る情況)…黄の夫…お疲れ色の男…たそがれおとこ…よれよれのおとこ」「黄…黄色…お疲れ色…黄昏…たそがれ…黄泉…死者の世界」「のごとし…の如し…の類似…このどうしょうもない状態に似ている」。



 一家の主婦(家刀自・いへとじ)の立場で、この数日間の出来事を語っている。
 
たぶん今の人々は「きのふ…昨日…黄の夫」などという戯れを受け入れ難いでしょう。伊勢物語(第125)にある業平の辞世の歌と言われる歌が、戯れの元である。

 むかし、をとこ、わづらひて心地しぬべくおぼえければ、

 つひにゆくみちとはかねてききしかど きのふけふとはおもはざりしを

 (終に逝く道とは予ねて聞いてはいたが、昨日今日のこととは思わなかったなあ……津井に逝くのが道理と予ねて聞いてはいたが、黄の夫が・昨日が、おとこの京とは思わなかったなあ)。

 「けふ…今日…京…山ばの峯…絶頂」。業平自身と、その身の端のものの辞世の歌である。武樫おとこにも、久堅の月人おとこにも、寿命がある。


 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。