帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 (暁に雨降れば) 正月十四日~十五日

2013-01-30 00:02:52 | 古典

    



                          帯とけの土佐日記


 土佐日記(暁より雨降れば)正月十四日・十五日


 十四日。暁より雨降れば、同じ所に停泊している。船君、節忌みをする。精進食がないので、正午を待って、それより後に、船頭の昨日釣った鯛と、銭がないので米と取り替えて、精進落ちをされた。このような事、なおもあった。船頭また鯛を持って来た。米、酒、しばしばくれてやる。船頭、機嫌悪くない。


 十五日。今日、(もち粥の節供なのに)小豆粥は煮ない。残念で、それに、日がわるいので、ゐざるほどにぞ(座って移動する程の進み方で)、今日、(船出して)二十日あまり経った。むなしく日が経つので、人々、うみをながめつゝぞある(海を眺め続けている…倦みを長め続けている)。めのわらは(女の童…おんな)が言う、

たてばたつゐればまたゐるふくかぜと なみとはおもふどちにやあるらむ

(風立てば波立つ、とまればまた静まる、吹く風と波とは同じ思いの友だちかしら……心に風立てば立つ、射ればまたおさまる、おとこの心に吹く風と白なみは、思いの同じ友かしら)。

いふかひなきもの(言う甲斐のない幼い者…言うかいもないもの)が言ったことに、全く似つかわしい。


 言の戯れと言の心

「うみ…海…憂み…辛いこと…倦み…飽き飽きして嫌になっていること」「ながめ…眺め…長め…ぼんやり見つめてもの思いに沈む」「つつ…反復継続している意を表す…筒…中空…空しい」。

「めのわらは…女児…女の身に居付くわらは、このものの立場で詠んだ歌」「たつ…風が立つ…波が立つ…ものが起つ」「ゐる…居る…止まっている…おさまっている…射る」「かぜ…風…心に吹く風…飽き風や春風など」「なみ…波…心の波だち…心の乱れ…無み…白なみ…おとこ心に立つ白々しい波」「もの…者…物…身の一つのもの」。

 


 これは、女児を装って、女のものの立場で、おとこの白け易い性情を言った例。このような(あだな、まめでない、遊びめが言うような)ことを、詠んだとは言わないところに語り手の見識が示されてある。

古今集仮名序に「今の世の中、色に尽き、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に、埋もれ木の人知れぬことと成りて、まめなる所には、花薄、穂に出だすべきことにも有らずなりにたり」とある。紀貫之が歌の現状を嘆いたのは、ほぼ三十年前のことである。なおも教化、啓蒙の必要があったのでしょう。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。