帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (266)秋きりはけさはな立ちそさほ山の

2017-08-10 20:02:16 | 古典

            

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下266

      
     
是貞親王家歌合の歌           よみ人しらず

秋きりはけさはな立ちそさほ山の はゝそのもみぢよそにても見む

(是貞親王家の歌合に提出したと思われる・歌) (詠み人知らず・匿名で詠まれた女歌として聞く)

(秋霧は、今朝は立ちこめないで、佐保山の柞のもみじを、離れた所でも見たいの……厭き限りは、今朝は断たないでよ、さ男の山ばの、端端そのも見じ、そよそしくとも見ていたいの)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「秋…飽き…厭き」「きり…霧…限…限度…これっきり」「今朝…けさ…あさ…はやい時…浅」「たちそ…立ち込めるな…断ちきるな」「さほ山…佐保山…山の名…名は戯れる。さおの山ば・おとこの山ば」「はゝそ…柞…楢・くぬぎ等の総称…木の名…名は戯れる。端端そ・身の端・おとこ」「もみぢ…秋の色…厭きの気色…も見じ…も見ない」「も…強調」「よそ…他所…離れた所…よそよそしい…気が進まない様」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「む…意志を表す」。

 

秋霧は、今朝は立ちこめないで、佐保山の楢のもみじを、離れた所でも見たい。――歌の清げな姿

厭き限りは、今、浅く早くは、断たないでね、貴身の山ばの、端端そのも見じ、そよそしくとも見ていたいの。――心におかしきところ。

おとこの浅い厭き限りよ、今朝は、断ち切らないで、よそよそしくてもいい、見続けたい。――おんなの本音だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)