帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (265)誰がための錦なればか秋ぎりの

2017-08-09 19:43:28 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重、言葉での意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下265

 

大和の国にまかりける時、佐保山に霧の立てりけるを

見てよめる                紀友則

誰がための錦なればか秋ぎりの さほの山べをたちかくすらむ

(大和の国に行った時、佐保山に霧が立っていたので、見て詠んだと思われる・歌) 紀友則

(誰の為の紅葉の錦なのか・人々が見ているのに、秋霧が佐保の山辺を、どうして・立ち隠すのだろう……誰のための、色情の織り成す錦なのか・女は見るのに、厭き限りが、さ男の山ば辺りを、どうして断ち隠すのだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

 「錦…もみじ色の葉の織り成すもの…極めて美しい物のたとえ…西木…おとこ」「秋きり…秋霧…厭き限り」「さほやま…佐保山…山の名…名は戯れる。さお山・おとこ山」「さ…接頭語…美称」「ほ…お…おとこ」「山…山ば」「たち…立ち…接頭語…断ち…断ちきり」「かくす…見えなくする…なくす…亡くす」「らむ…どうしてだろう…原因理由を推量する意を表す」。

 

誰の為の、紅葉の錦なのか・みなが見とれているのに、秋霧が佐保の山辺を、どうして立ち隠すのだろう。――歌の清げな姿。

誰のための、色情の織り成すにし木なのか、厭き限りが、さおの山ば辺りを、どうして断ち隠すのだろう。――心におかしきところ。

いつも「厭き限り」を後ろめたく思い、どうして断ち隠れるのだろうかと嘆く。――おとこの本音だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)