帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔九十九〕雨のうちはへふる比

2011-06-24 00:01:15 | 古典

 



                     帯とけの枕草子〔九十九〕雨のうちはへふる比



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔九十九〕雨のうちはへふる比

 
雨がうち続いて降る頃、今日も降るときに、上の御使として式部の丞信経が参られた。いつものように、しとね(座布団)を差し出したのを、いつになく遠くへ押しやって居るので、「たがれうぞ(誰のための用品かしらね)」と言えば、わらひて(笑って)、「かゝる雨にのぼり侍らば、あしかたつきて、いとふびんに、きたなくなり侍りなん(このような雨に上りますと、足形付いて、とってもぐあい悪く、汚くなってしまうでしょう……かかる吾女に乗りますれば、吾肢、片尽きて、とってもかわいそうなことに、汚くなるでしょう)」と言うので、「など、せんぞくれうにこそはならめ(どうしてよ、君専属の洗足用品にですよ、なるでしょう……どうしてよ、私は・君の専属用品にですね、なるつもりよ)」と言うのを、「それは、貴女が上手におっしゃったのではありません。信経が、あしかた(足形…吾肢かた)のことを言いませんでしたら、そのようにおっしゃれないでしょう」と言ったのは、おかしかりしか(おかしかった)。


 「ずっと以前、なかきさい(中后、村上帝の后)の宮に、『ゑぬたき』といって名高い下仕えがおりました。美濃の守のとき亡くなられた藤原時柄が蔵人であったおりに、下仕えの居る所に立ち寄って、『これか、その高名の、えぬ滝、どうしてそうとは見えぬのだ』といったそうです。応えに『それは、時柄にさも見ゆるならん(それは時節柄によって、そうとも見えるでしょう…それは時柄の人柄によって、そうとも見えるのでしょう)』と言ったといいます、これはですね、言い合いの相手をあらかじめ選んでも、こうはどうして言えようかと、上達部、殿上人まで興あることとおっしゃったのですよ。また、それもそうでしょう。今日までこのように言い伝えているのは」とお話した。

「それもまた、時柄が言わせたことでしょう。すべて、ただ題の柄(品質)ですよ、文も歌も良いのは」というので、「たしかに、そういうこともあります。それでは、題をだしましょう。歌を詠んでくださいませ」という。「いいですとも、一つでなしに同じことなら、多数詠んでさしあげましょう」などと言っている間に、ご返事の文ができたので、「あなおそろし、まかりにぐ(あゝおそろし、退き逃げ去るよ…穴おそろし、退却、逃亡す)」といって出て行ったのを、「いみじうまなもかんなも、あしうかくを、人わらひなどする、かくしてなんある(ひどく真名も仮名も悪く書くのを、人が笑ったりするので隠しているのである……ひどくまんなも鉋も悪くかけると、或る女が笑いなどする、かくして、なのである)」と、いふもをかし(女房たちが・言うのもおかしい)。


 信経が作物所の別当(蔵人所に属する木工所所長)をするころ、誰のもとにやったのでしょう、物の絵様(設計図入りの仕様書)を送付するということで、「これがやうにつかうまつるべし(此の様に仕事するべし)」と書いてある真名(漢字)の様子、文字の世にも不思議なのを見つけて、「これがまゝにつかうまつらば、ことやうにこそあるべけれ(これのままに作製いたしますと、製品は異様になることでしょうよ)」と書いて殿上に送ったので、人々が取り見て、いみじうわらひけるに(ひどく笑ったので)、信経は・おほきにはらだててこそにくみしか(大いに腹立ててなのだ、私を・憎んでいた)。



 言の戯れを知り、紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう

 「あめ…雨…吾女…あなた」「のぼる…(敷物に)上る…(人の上に)上る」「れう…料…用品…為のもの」「あし…足…吾肢…我がおとこ」「かたつきて…跡形付いて…片尽きて…片方途中でこと尽きて」「いとふびん…たいそうぐあいが悪い…とってもかわいそう…わが子の君が不憫」「せんそくれう…専属用品…洗足用品…君の為だけの女」「ゑぬたき…人の名、名は戯れる…(名高いように見)えぬ滝」「時柄…人の名、名は戯れる…時節柄…滝は雨季と乾期で異って見える…時柄の人柄」「柄…名詞についてその性格を表す…時柄の意地の悪さ」「あなおそろし…ああ恐ろし…穴おそろし」「まな…真名…漢字」「かんな…か(ん)な…仮名…鉋…木工道具」「かく…書く…搔く…(鉋を)かける」。



 「かかる吾女に上り侍らば、吾肢片尽きて、いと不憫に、汚くなりなん」は、笑いながら言ったけれど、以前、悪筆をからかわれ、憎んでいる心が顕われている。それも、「このような雨の時に、しとねにのりますと、足型付いて、とっても具合悪く、汚くなるでしょう・遠慮しています」という清げな姿に包まれてある。これが、われわれの言葉であり表現の様である。

 
 「せんぞく」は、洗足だけではなく専属とも戯れているからこそ、おかしい。また、「ときがら」という人の名も、時季柄だけでなく人柄とも戯れているからこそ、「ゑぬたき」の応答が、名をからかわれたしっぺ返しとしておかしいのである。

 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による