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帯とけの枕草子〔九十八〕中納言まいり給て
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔九十八〕中納言まいり給て
中納言(隆家、中宮の弟君)が参上されて、宮に御扇を献上されるのに、「隆家は、とってもすばらしい骨を得ています。それを張らせて献上しようとするのですが、いいかげんな紙は張れませんので、探し求めているのです」と申される。
「いかやうにかある(その骨・どの様ですか…いか様ですか)」と、宮がお尋ねになられたので、「すべていみじう侍り。更にまだ見ぬほねのさまなりとなむ人びと申す。まことにかばかりのは見えざりつ(すべてが並々ではないのです。未だ見たことのない骨の様ですと人々は申します。ほんとうに、これほどのは見られません)」と、声高におっしゃるので、「さては、あふきのにはあらで、くらげのなゝり(さては、扇のではなく、くらげの・骨ですね…見ぬとは、合う木のではなく、くらげの・ほ根ですね)」と言うと、「これたかいへが言にしてん(それ、隆家の言った言葉にしょう)」と、わらひ給(お笑いになる)。
このようなことは、かたはらいたき(気恥ずかしい)ことのうちに入れるべきだったけれど、「ひとつなおとしそ(一つも落とすな)」と、女たちは・言うので、いかゞはせん(どうしょうかしら…烏賊の話は・如何しましょう)。
言の戯れと言の心
「ほね…骨…ほ根…お根…おとこ」「あふき…扇…合う木…おとこ」「いか…如何…烏賊」「やう…様…形…姿」「くらげ…海月…骨がない…よれよれ」「見ぬ…見ない」「見…覯…媾…まぐあい」。
「くらげ」は「いか」という宮のお言葉によって引き出された。
隆家の若いころの話。長徳元年(995)初夏、十七歳で権中納言になった。殿(道隆)が亡くなる前である。
殿亡き後、まもなく、叔父道長との闘争が始まる。数ヶ月で道長の術中に堕ちたのでしょう。従者が花山法皇に射かけるという決定的な事件を起こし、長徳二年初夏には、兄の内大臣伊周と共に左遷の憂きめにあった。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による