帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔九十七〕御かたがた

2011-06-21 00:02:38 | 古典

   



                                              帯とけの枕草子〔九十七〕御かたがた



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔九十七〕御かたがた

 
御方々、君だち、殿上人など、御前に人々多くいらっしやるので、廂の間の柱に寄りかかって、女房と話などしているときに、ものを投げて下さる。開けて見れば、「思ふべしや、いなや。人だい一ならずはいかに(思うべきか否か、人間は第一番でないと、どうなのか……思うべきか否か、女は第一番でないと、どうなのか)」とお書きになっておられる。
 以前、御前でお話しするついでにでも、「すべて、人に一におもはれずは、なにゝかはせん。只いみじう中中にくまれ、あしうせられてあらん、二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらん(すべて、人に第一に思われないでどうしましょう。ただひどく中途半端に憎まれ悪くせられている第二、第三の人では死んでも居られません。第一でありたいのです……すべて、男に第一に思われないでどうしましょう。ただひどく中途半端に憎まれ悪くせられている第二、第三の女では死んでも居られません。第一でありたいのです)」などと言えば、「一ぜうのほうななり(一乗の法なのである…あなたは彼の・唯一の乗りものなのである)」などと、女たちも笑うことがあったその筋のようである。
 筆・紙など下さったので、「九品蓮台のあひだには下品といふとも(極楽浄土には下品といえども参りたいです……極楽なら八、九番目の女といえども満足です)」などと書いて参らせると、「むげに思ひくんじにけり。いとわろし。いひとぢめつる事は、さてこそあらめ(むやみに思いが卑屈になったことよ、とっても悪い。言い切ったことは、こうではなかったでしょう)」と返事を給わる。「それは人にしたがひてこそ(それは、御前の大勢の人々に従って往生するのですもの……それは、男に従って逝くのですもの)」と申せば、「そがわろきぞかし。だい一の人に又一に思はれんとこそ思はめ(それがわるいのですよ、あの世でも第一の人に、また、第一に思われようとですね思うべきでしょう……それが悪かったのよ・これからは、第一の男に、また、第一の女と思われようとよ、思いましょうね」と仰せになられる、いとをかし(とってもおかしい)。


 言の戯れと言の心

「人…人々…人間…男…女」「一乗の法…法華経…方便品に、十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三とある…女と男の世の中に、唯有るのは一つの乗りもの、私のみ、二無し股三無し」「九品の蓮台…極楽浄土には上品・中品・下品、それぞれ上中下、あわせて九品の蓮台がある…藤原公任撰『和漢朗詠集』下に、九品の蓮台之間、雖下品応足とある。これは願文である」「乗…乗りもの…玉のうてな…女」「又…また…亦…股」「こそ思はめ…適当・当然の意を表す…思うべきよ…軽い命令や勧誘の意を表す…思いましょうね」「いとをかし…心深く姿清げで心におかしきところがあること(これは藤原公任の捉えた和歌の『をかしさ』の様式)」。
 


 宮は言葉少なに表現され、お言葉には、深い心があり、姿清げで、心におかしきところがある。則光に見捨てられた原因は、あくまでも第一の女であろうとしなかったためでしょうと、仰せになられたのだろう。


  言の戯れを知り、紀貫之のいう「言の心」を心得えれば「いとをかし」に共感できるはずである。



 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による