帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百七十一)(三百七十二)

2015-08-31 00:10:43 | 古典

          

 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。

 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首

          
          
伊勢が許にこの事をとぶらひにつかはすとて         平定文

三百七十一 おもふよりいふはおろかに成りぬれば たとへていはむことのはぞなき
           
伊勢の許に、この事を・子の亡くなった事を、弔いに遣わすということで、(平定文・平中物語の色好みな主人公、古今集撰者達とほぼ同世代か)

(貴女の心痛を・思うより、それを・言うのは愚かなことになってしまうので、喩えて言うような言の葉もないことよ……御子息を・恋しいこの貴身を、亡くされた心痛お察しします、弔問を我が言えば、言うも愚かな喩になってしまうので、言う言葉もありません)

 

言の戯れと言の心

「おもふよりいふはおろか…思うことより言うは愚か…思っていることを正しく言い尽くせない…喩えて言うも喩える言葉もない」「ぬ…てしまう…完了する意を表す」

 

 

中将兼輔朝臣のめのなくなり侍りてのとし、しはすに貫之がもとにまかり

てものがたりしはべりけるついでにむかしのうへなどいひはべりて

        つらゆき

三百七十二 こふるまにとしのくれなばなき人の わかれやいとどとほくなりなん

中将兼輔朝臣が、妻の亡くなられた年の師走に、貫之の許に出掛けられて物語して居られたついでに、昔の身の上など言い交わして、(紀貫之・藤原兼輔は歌人貫之らの良き庇護者だったようである。貫之土佐国赴任中、三位中納言兼輔は亡くなられた)

恋しがっている間に年が暮れれば、亡き妻女との別れは、いよいよ、遠くなるでしょうか・時が癒してくれます…乞うままに・子振る間に、疾しが暮れれば、泣きひとの別れ、ますます遠くなるでしょうか・乞いは延長されます)

 

言の戯れと言の心

「こふる…恋ふる…乞ふる…求める…子振る」「ま…間…時間…身の間…おんな」「とし…年…疾し…早過ぎ…おとこのさが」「くれ…年の暮れ…疾しの果て」「なき人…亡き妻女…泣き人…泣く女…汝身唾流すおとこ」「いとど…いよいよ…ますます」「とほく…遠く…時間の経った過去に…延長することに」「なん…なむ…(なる)でしょう(か)」


 

両歌とも、拾遺集では、巻第二十哀傷にある。清げな姿は、弔問。上のように恋歌(乞い歌)とも聞こえる「心にをかしきところ」が添えてある。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

平安時代の言語観と歌論について述べる(以下、再掲)

 
 紀貫之は、「言の心」を心得る人は、和歌のおかしさがわかり、古今の歌を「恋ひざらめかも…恋しくならないだろうか・なるだろう」と述べた。「言の心」とは字義だけではない、この文脈で言葉の孕む全ての意味である。国文学は「事の心」として、全く別の意味に聞き取ったようである。

 清少納言は、「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉(同じ言葉でも、聞く耳によって聞き取る意味が異なるもの、それが我々の言葉である)」。このように枕草子(三)に超近代的ともいえる言語観を述べているのである。枕草子に、そのような言葉を利用して「をかし」きことを数々記している。それは、和歌の方法でもある。国文学の枕草子の読み方では、皮肉なことに、この一文をも「同じ言葉でも、性別や職域の違いによって、耳に聞こえる印象が異なる」などと聞こえるようである。

藤原俊成は、「歌の言葉は、浮言(浮かれた言葉・定まりのない言葉)や、綺語(真実を隠し巧みに飾った言葉)に似た戯れであるが、其処に、歌の旨(主旨・趣旨)が顕れる」と述べた。顕れるそれは、言わば煩悩であると看破した。

 国文学が曲解し無視した、上のような言語観に立って、藤原公任の「優れた歌」の定義に従って、公任撰「拾遺抄」の歌を聞けば、歌の「清げな姿」だけでなく、「心におかしきところ」が聞こえる。歌には、今まで聞こえなかった、俊成が煩悩であるという生々しい心が顕れる。

中世に古今和歌集の「歌言葉の裏の意味と心におかしきところ」が秘伝となったのである。やがて、その相伝や、口伝も埋もれ木となってしまった。秘伝の解明が不可能ならば、それ以前に回帰すればいいのである。近世の国学と国文学は、平安時代の言語観と歌論とを無視して、全く異なる文脈にある。その人々の創り上げた和歌解釈やその方法は、根本的に間違っている。