帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(17)春日野はけふはな焼きそ若草の

2016-09-12 19:15:31 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
17


     (題しらず)               (よみ人しらず)

春日野はけふはな焼きそ若草の つまもこもれりわれもこもれり

(春日野は、今日は野焼きしないでくれ、若草の端も籠もっている・若い妻も籠もっている、我も共に籠もっている……微かな春情のひら野は、京は・山ばの頂天は、燃えていない・野焼きするな、若い妻も我も、微かの野に・籠もっている)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「かすがの…春日野…春日大社の西に広がる野の名…若い男女が若菜摘みなどに集う所…名は戯れる。春の日の野、微かな春情の野、山ばのない微かなひら野」「けふ…今日…きゃう…京…山ばの頂上…感の極み…宮こ、ともいう」「な焼きそ…焼くな…焼いてくれるな…焼いてはならない」「な―そ…禁止の意を表す」「若草…若い女…草の言の心は女」「つま…端…褄…妻」「こもる…籠もる…隠れている…隠れて(遊んで)いる…(まだ若く固い殻に)籠もっている」。

 

若い男女が集い若菜摘みする春日野で、隠れて楽しむ二人の様子。――歌の清げな姿。

春日野の、京は燃え上がっていない、野焼きしないでくれ・邪魔しないでくれ、若い二人はまだうち解けず殻に籠もっている。――歌の心におかしきところ。

 

詠み人知らずの歌を若い男の歌として聞いた。その男の心に思う事を言葉にすれば上のようになるだろう。

 

さて、「古今和歌集」成立の後に、誰かによって、この歌の「春日野」が「武蔵野」に変えられて、「伊勢物語」巻十二は作られたと思いたくなるが、そうではない。後の人が古今和歌集の歌の「春日野」を「武蔵野」に変えて小話を作った、そんな軽い話ではない。何の確証もないが、この歌は業平の生きた時代以前からあったと思われる。

 

「伊勢物語」(十二)の歌は、「春日野」を「武蔵野」に変えあるだけではなくて、作歌事情を別に作り女の詠んだ歌とする。すると歌の形相は一変する。


 昔、或る男が、他人の娘を盗んで、武蔵野までつれて逃げてきた。追手が来たので女を武蔵野の草むらに隠し逃げたが、盗人は国守の手の者に、からめられた(逮捕された)。通りがかりの人、此の辺りにまだ盗人が居ると言って、武蔵野に火をつけようとする。籠もっていた女が詠んだ、

武蔵野はけふはな焼きそ 若草のつまも籠もれりわれもこもれり

(武蔵野は今日は焼かないで、若草の端も籠もっている、若い妻のわたしも、籠もっている・身ごもっている)

と詠んだのを聞いて、(通りがかりの人が)女も(腹の子も)共に、連れて行ってしまった。

 

この話には寓意がいっぱいあって、盗人の男は誰か、女は誰か、追手は誰か、女を連れていった人は、ほんとうは誰か、「伊勢物語」を読めば、わかるのである。この盗人は、睦ましくなったばかりの女人との仲を引き裂かれた業平である。そうした人々への怨念こそが「伊勢物語」の制作動機である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)